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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
在るだけの名

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20. 灯を手渡す

観測装置が、低く脈打つような音を空気の奥に響かせた。


式紋の光が宙に浮かび、透き通る文字列が、あなたの輪郭をなぞるように旋回していく。


「対象“イリス”──在り方、未定義。属性階位、照合不能。

……記録保留領域に、一時格納処理を──」


そのときだった。森の梢を揺らしていた風が、ふと止まる。


あなたの胸の奥、誰にも触れられなかった場所が、ひとすじの熱でゆっくりと揺れていた。

それは恐怖でも怒りでもなかった。

ただ、胸の奥深くに沈んでいた問いが、かたちを持って浮かび上がっていた。


あなたは気づいた──“誰かに見られるため”に、あなたは在るのだろうか? と。


答えは、すでにあなたの内側にあった。

言葉よりも先に、身体が動いていた。


あなたは一歩、観測装置の光の輪の外へと踏み出す。


淡い光が乱れ、装置の反応が途切れる。

再び演算が始まるが、そのたびに、あなたの存在は定義の枠組みから、わずかにずれていった。


装置の中心に灯る紋章がかすかに明滅し、空気に滲むような音が生まれる。

それは熱でも冷気でもない、なにか底知れぬ気配だった。


「記録構造、逸脱。式紋未適合。──処理不能」


観測官が眉をひそめ、端末を叩いた。


「なんだこれは……なぜ“記録されない”……?」


声に宿るわずかな揺らぎが、村の空気をざらつかせた。

だが、観測官は言葉の続きを失った。口を動かしても、語彙そのものが剥がれ落ちていくようだった。


その言葉の余白を縫うように、別の声が空気を切った。


「彼女は、お前たちの“式の外”にいるんだ」


それは、カインの声だった。


観測官たちが一斉に振り返る。


「隊員カイン、これは任務中だ。発言権限は──」


「彼女は、確かにここに“在った”。

誰にも名を呼ばれず、記録されなかったとしても。

けれど、この村の誰もが、彼女のことを忘れない」


カインはゆっくりと歩み出て、あなたの隣に並んだ。

そして、観測端末を静かに閉じる。


「だから──記録に残らなくても、彼女は“在る”」


言葉のあとに訪れた沈黙は、深く、澄んでいた。

あなたの視線の先で、火床の炎がかすかに揺れた。


そのとき、あなたは懐から、ひとつの果実を取り出す。

老女から預かった、まだ少し青みを残した果物だった。


そばにいた子どもに、それをそっと差し出す。


小さな手が、ためらいがちにそれを受け取り、

「ありがとう」と、かすかな声が返ってきた。


その瞬間、あなたの胸の奥に、小さな灯がともった。


それは祝式でも、式紋でも、観測記録でもなかった。


ただひとつ、確かに“手渡された記憶”だった。


それこそが、あなたが“誰かの中に在る”という、はじめての証だった。


──だが、余韻が満ちる前に、観測装置の一部が高い音を立てて震えた。


観測官が再起動を試みていた。

周囲にいた者たちの空気が、再び緊張を帯びていく。


カインがあなたを振り返り、目で問う。


あなたは、その視線に、小さくうなずいた。


逃げなければならない。

ここから、彼らの定義の外へ。


カインが静かに手を伸ばす。

あなたの手を取るその動きは、まるで前世の約束が指先に宿っていたかのようだった。


ふたりは火床の裏手、村の奥へと駆け出す。


霧が再び流れはじめ、ふたりの姿をゆっくりと呑みこんでいった。


観測官がそれに気づき、叫び声を上げる。


だが、光の網は、ふたりを捕らえきれなかった。


誰かが追う足音を立てる。

しかし──村人たちがそっと立ちはだかる。

ひとりの老婆が、手にしていた草束を地に置いた。

それだけで、背後の者たちも次々に前へと出てくる。


それは、名も告げず、声も上げず、ただひとつの意志をもって差し出された“選択”だった。

恐れではなく、迎えるための静けさ。

抗いではなく、見届けるための覚悟。

誰にも命じられず、誰も引き返さなかった。


あなたは走りながら、その胸の深い場所に、たしかにひとつだけ宿っている灯を感じていた。


(わたしは、“ここ”に在った。

そして、いま──“ここから”生きる)


霧の向こうへ、名前を持たぬままの灯が、まだ誰の記録にも触れぬまま、静かに、そして確かに進みはじめていた。

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