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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
序章
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02. ミレナという光

薬草の香りが満ちる、石造りの小さな小屋で、あなたは暮らしていた。


灰色の屋根には、四季の雨が染みついていた。

石の壁は苔むしていて、冬になるとその隙間から冷たい風が忍び込んできた。

けれど、不思議とその場所には、ほのかなあたたかさがあった。

火の匂い、草の香り、包帯の端にしみ込んだ苦い薬液のしずく。

そして、やさしい手のぬくもり。


あなたはまだ、言葉も不完全で、世界の形もぼんやりとしていた。

空の青さや、土の固さも、どこか夢の中のように遠かった。

それでも──ミレナが笑うと、輪郭のなかった世界が少しずつ、色づいていくような気がした。


老いた薬師のその手は、ごつごつとして、節くれだっていた。

かさついた皮膚の奥には、幾千もの草の知識と、命を癒してきた記憶が宿っていた。

指の動きひとつにも、時間の重みがあった。

けれど、その手は、どんな薬よりもやさしく、あなたを包んでくれた。


(これはね、熱に効くのよ)

(この根っこは苦いけど、心にはよく効くの)

(覚えなくていいわ。ただ、見ていればいいのよ)


ミレナの声は、乾いた葉の音に似ていた。

ざわざわと、風に揺れる草むらのように、耳にやさしく触れる声だった。

何かを教えるようでいて、決して押しつけがましくはなかった。

あなたが何もできなくても、話せなくても、ただ隣にいるだけで、彼女はそこにいてくれた。


村の人々は、あなたを遠巻きに見ていた。

「妖精の仔」だとか、「祠の影」だとか。

背後で囁かれる声の意味はわからなかったけれど、あなたはそれを、ぼんやりと感じていた。


けれど、ミレナは一度も、あなたをそう呼ばなかった。

彼女の瞳には、奇妙なものではなく、一人の“子ども”としてのあなたが映っていた。


(名前を持たないままじゃ、かわいそうよね)

そう言ったのは、春の始まりのある朝だった。


まだ雪解けの冷たい水が、小川をぴちゃぴちゃと流れ、

地面には小さな黄色い花が咲き始めていた。

ミレナは、その花のひとつを摘み、小さな布に包んで、あなたの手にそっと握らせた。


(イリス。お日さまに向かって咲く、強くてやさしい花の名前よ。あなたに、ぴったり)


その瞬間、世界がふっと 静寂につつまれたように思えた。

“イリス”という言葉が、霧に覆われていたあなたの身体に、ひとつの重みを与えた。

それは名前という輪郭。

それを持つことで、あなたは初めて、“ここにいていい”のだと感じた。


朝、湯気の立つ薬草茶を並んで飲んだ時間。

窓から差し込む光のなかで、ミレナの白髪がきらきらと輝いていたこと。

雨の日にあなたが泣いたとき、黙って隣に座ってくれたこと。

それらすべてが、“人”としてのあなたを、少しずつ形づくっていった。


言葉を覚えるよりも前から、あなたはミレナの背を追いかけていた。

彼女が草を摘めば、あなたも手を伸ばした。

火を起こせば、あなたも薪をくべた。

何かを渡されるたび、ただ受け取るだけで、それが大切なものだとわかった。

何も言わなくても、ただそばにいれば、それでよかった。

あなたは、心からそう思っていた。


だからこそ──

彼女がいなくなった朝の光が、こんなにも冷たいとは、知らなかった。


いつもより少し遅れて目を覚ましたその朝、

小屋の中は静かで、薬草の匂いだけが、いつもと同じように満ちていた。


けれど、ミレナの声はしなかった。

薬壺の蓋が開く音も、火をくべる気配も、どこにもなかった。


あなたが立ち尽くしていると、窓の外で鳥が一羽、小さく鳴いた。

空は晴れていた。春だった。

けれど、世界の色が、また少しだけ遠ざかっていくのを、あなたは感じていた。


その日の夕暮れ、机の上に置かれていた古びた帳面に、ミレナの筆跡が残されているのを見つけた。

ページの隙間には、乾いたハーブの小枝と、一枚の手紙が挟まれていた。


━━━━━━━━━━━━━━━

――イリスへ。


もしこの手紙を読む日が来たなら、

わたしはもう、あなたの隣にはいられないのかもしれませんね。


でも、忘れないで。

あなたのことを“人として”迎えたのは、わたしの意志だったということを。


あなたが誰にどう見られようと、わたしにとっては、

陽だまりのような子でした。


これから歩く道の中で、迷うことがあったら、

薬草の香りと、この手のぬくもりを、思い出してください。


“在っていい”というのは、奇跡ではなく、あなたの存在そのものなのだから。


いつか、世界にあなたの花が咲くことを願って。


──ミレナより。

━━━━━━━━━━━━━━━


あなたはそっと、手紙に触れた。

指先が少しだけ震えていた。

けれど、その震えは、涙のせいではなかった。

胸の奥に芽生えたなにかが、名前のない感情を、確かに抱きしめていた。


ミレナはもういない。いないのだ。けれど、

彼女が残したものが、確かに、今の“あなた”を作っていた──。


そして、静かに、けれど確かに、

ひとつの世界が終わり、また新しい朝へと続いていく音を、感じていた。


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