表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
剣の人形

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/46

13. 記録の底に眠るもの

ふたりは、草の匂いをまとった風の中を、ゆるやかに歩いていた。


朝の光はまだやわらかく、世界はまどろむように、夢と現のあわいに沈んでいる。


水場に立ち寄ったとき、カインがふと呟いた。


「……そういえば」


声は風に紛れるほど小さかった。

けれど、不思議とあなたの胸の奥に、まっすぐに届いた。


「北に、観測遺構がある。今はもう使われていないが……

式紋の残留検査装置だけは、まだ動くという話を聞いた。

内部には、記録の断片も残っているかもしれない」


あなたはカインの横顔を見た。

彼の眼差しは前を向いていたけれど、その奥に宿る迷いは、わずかに揺れていた。


「そこなら……何かわかるかもしれない、と思って」


「……そこに、向かうの?」


問いかけに、カインは小さくうなずいた。


「遠いけどな。街道を外れて、森をひとつ越える。

でも……俺の勘だけど、どうしても気になるんだ」


「“記録されない”って、それ自体に意味があるような気がして」


カインは一瞬、あなたを見て、言葉を探すように間を置いた。

そして、ほんのわずかに口元を緩めた。


あなたは笑わなかったけれど、肩にかかっていた何かが、ふと軽くなった気がした。


「……じゃあ、行こう」


あなたのその言葉に、カインは短く「行こう」とだけ返した。

その響きは、霧の中に差し込む光のように、確かな手触りでそこに在った。


風が葉を揺らし、遠くで鳥の声がこぼれる。

空は、さっきよりもわずかに深さを増していた。


ふたりは向きを変え、北へ続く道なき道を踏み出す。

まだ描かれていない地図の、白い余白を踏みしめながら。


***


古びた街道を南へ下った先、あなたとカインは、森と岩に挟まれた狭い谷道へ入っていく。


木々は深く茂り、朝の光は葉の隙間からわずかにもれ落ちる。

落ち葉と苔が重なった足元に、湿った空気がひっそりと肌を撫でていた。


鳥のさえずりは遠のき、代わりに虫の羽音が耳の奥をかすめる。

枝のざわめきは風とともに、森の奥で影のようにささやいていた。


あなたはふと足を止め、深く息を吸い込んだ。

草と土、そしてどこか遠い場所から届く、ほのかに甘い花の匂い。


この森も、きっと記録には残っていない。

けれど、確かにここにあって、息づいていた。


カインは無言のまま、均整の取れた歩幅で前を進む。

その背中が、森の緑の中で、淡く揺れていた。


***


どれだけ歩いたのか、もうわからなかった。

落ち葉の層は深まり、空気は水のように重さを増していく。


息を整えていたあなたの足取りが、ふと、少しだけ遅れた。


「……少し休むか」


振り返ったカインの声には、責める気配はなかった。

むしろ、あなたの変化をすでに感じ取っていたような、穏やかな気遣いがあった。


彼は自然と、あなたの歩調に合わせていた。

無理に、ではなく。ただ、いつの間にかそうなっていた。


その理由を、彼自身もまだ言葉にはできなかった。

ただ、胸の奥のどこかで、それが当然だと思っていた。


近くで、水音がやわらかく響いていた。

あなたはカインと並んで沢のそばに腰を下ろし、水にそっと手を浸す。


冷たさが指先から胸の奥へと透き通っていく。


「森って……不思議だね」


あなたがぽつりとこぼすと、カインは目を閉じてうなずいた。


「生きてるからな。静かに、でも絶え間なく動いてる」


あなたは小さな石を拾い、水面へ落とした。

波紋が広がり、やがて静けさの中に還っていく。


ふたりは再び立ち上がり、音もなく歩き出した。


***


谷道をさらに進むと、空気はひんやりと肌にまとわりつくようになった。


やがて、あなたたちは古びた祠にたどり着く。

木々の隙間から差す光が、苔に覆われた屋根を照らし、

そこには深い眠りから目覚めかけたような静けさが漂っていた。


祠は小さく、けれど風雨をしのいできた堅さと、

誰にも祈られぬ時間の層を身にまとっていた。


あなたは自然と祠の前に立ち、何の言葉もなく、目を閉じる。


祈りというより、心の奥に沈んでいた何かを、ただそっと差し出すような仕草だった。


カインは少し離れて立ち、あなたの背を静かに見つめていた。

その姿に宿っていたのは、“記録されぬ者”が持つ名のない祈り。


それは言葉でも式でもなく、ただ“在る”という願いのかたちだった。


「この先に……その遺構があるの?」


あなたの問いに、カインはうなずいた。


「観測遺構群。かつて祝式演算の律動や、存在位相の測定が試みられていた場所だ」


やがて、木々が開け、苔むした石のアーチが現れた。

その奥に、崩れかけた石造りの建物が、眠るように佇んでいた。


鉄と硝子の狭間に、かつて稼働していた祝式演算核の断片が、静かに朽ちかけていた。

それらは、静かに土へ還ろうとしていた。


「……誰か、いたの?」


「いた。“記録されなかった”存在が、集められていた場所だ」


その言葉が、あなたの胸に風のように触れた。


施設の中は、ひんやりと広く、崩れた観測盤、消えかけた詠唱位相印の痕跡が、薄く光を残していた。


仮設の寝台。欠けた鏡。小さな靴。


それらは、声なき記憶のように、そこにあり続けていた。


「……子ども?」


カインのまなざしが、床に散った影をなぞる。

そして目を伏せ、言葉を探すようにしばらく沈黙した。


「未登録者──祝式に反応を示さなかった者たち」


あなたの胸に、ひとしずくの静かな痛みが落ちた。


「……その子たちは、どうなったの?」


「記録には、残っていない。

観測されなければ“不完全”とされて……それだけだった」


淡々とした声の奥に、微かな影が揺れていた。


あなたは静かに呟く。


「でも……“在り方”って、誰が決めるの?」


その言葉は、ふたりのあいだに沈黙を連れてきた。


「祝式がなければ、存在を証明できないなんて……

“式に乗らないもの”は、最初からいないことになる」


足元の床に、小さな落書きがあった。

かすれた線。ただのらくがきのようにも見えるそれに、あなたは問いの気配を感じた。


「空白にも、意味があるんじゃないかな」


その声が、ひび割れた壁に反響し、やがて遠くへと消えていった。


カインは何も言わなかった。

彼の封刻剣──レルティアもまた、静かに沈黙していた。


けれどそのまなざしは、確かにあなたの背を見ていた。


その背に、名も定義もない“在り方”の兆しが、そっと灯っていた。


この遺構に残された空白は、記録されなかった存在の残響──

そして、あなたという“未定義の光”を、まるで誰にも届かぬまま降り積もった星明かりのように、

静かに、優しく照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ