01. 祠の夢
白い霧の中に、あなたはいた。
それが夢であることすら、あなたにはわからない。
まだ名前も、言葉も、痛みの意味すら知らない。
それでも、あなたは確かに──そこに“在った”。
音も匂いも、重さすら感じないその空間は、まるで生まれる前の世界のようだった。
地面も、空も、すべてが淡く、やわらかい。
輪郭の定まらないぬるい光が空気の中をゆらめいていて、
目を開いているのかどうかすら曖昧だった。
息をしているのか。
存在しているのか。
ただ、そこに“ある”ことだけが、唯一の確かさだった。
──そんな霧の中で、あなたの目の前にひとつの祠があった。
崩れかけた柱。草に覆われた石段。
風雨にさらされ、年月を感じさせるその姿には、どこか懐かしさがあった。
だれかが何度も修復しようとした痕があって、
それは不器用で、けれども優しい手つきの名残だった。
たとえ壊れても、捨てられることなく、大切にされていたもの。
誰かの祈りと、願いと、想いが、幾重にも重なっていた。
そして、祠の奥から、声がした。
(……ありがとう。そこにいてくれて)
それは確かに“言葉”だった。けれど、理解というより、響きとして胸に落ちた。
意味よりも先に、その声音の温度があなたを満たしていった。
あなたは振り向けない。
けれど、その声は確かに、あなたの中に流れ込んできた。
(わたしは……もう祈らないって決めた。忘れて、前に進まなきゃって。
きっと、そうしないといけないって──そう思ってた)
風が吹いた。
ないはずの草が揺れ、あなたの足元をさらりと撫でていく。
その冷たさは肌ではなく、魂に触れるようだった。
(……でも、もし、もう一度だけ。“君”に会えるなら)
その瞬間、あなたの胸の奥が、微かに熱を帯びた。
言葉にできない、説明のつかないなにか。
けれどそれは、“心”と呼ばれるものの、ほんの原型だったのかもしれない。
(君じゃなくてもよかった。
けれど、君が来てくれた。それで……よかった)
祠の奥で、光が揺れた。
やわらかく、あたたかく、けれど確かな意志を持った光だった。
顔のない“誰か”のかたちが、そこに浮かんでは、ゆっくりと溶けていく。
まるで名残を残しながら、静かに眠りへと還っていくように。
あなたは何も言えない。
言葉を知らず、声も持たず、ただそこに佇むだけ。
けれど、その身は確かに、温かさに包まれていた。
孤独ではないと、そう“感じる”ことができた。
──それが、“始まり”だった。
名もなき魂が、祈りの残響に触れたとき、
世界はそっと、新しいページをめくる。