マラソンと少女達が揺り動かす心
★ 慣れ親しむ努力
放課後、結城は校庭の端にある馬術部の厩舎にいた。目の前に立つのは、堂々とした馬。3年生が今期の農業クラブの発表用に管理しているやつだ。茶色の毛並みが夕陽に映え、時折鼻を鳴らすその姿に、結城は少しだけ目を奪われる。
東京じゃこんなデカい動物、動物園でしか見ねぇよ……
「こいつに鋤でもひかせりゃ、土耕したりするのも楽なんだけどな」
結城がぼそっと呟く。自分で言って、自分でつまらないと思う。隣にいた男子――猪俣が即座に突っ込んだ。
「明治時代かよ」
結城は「うるせぇ」と返す気力もなく、馬を見つめる。確かに、馬が畑を耕すなんて時代錯誤もいいところだ。でも、この学校じゃそんな突拍子もない想像すら現実味を帯びてくる。
猪俣が馬の柵に寄りかかりながら言う。
「しっかし、ウチの学校も頑張るなぁ。馬の世話なんてゆるくないべや」
隣にいたもう一人の男子――鈴木が頷く。
「3年の農クでの発表用だべさ。まぁゆるくないだろうけども」
数日経っても、結城にはこいつらの言葉が半分くらいしか分からない。北海道弁なのか、学校特有の言い回しなのか、さっぱりだ。疲れた顔で二人を見やり、
「わり、猪俣、鈴木……」
「あん? どした? 日野」
「お前が話しかけてくるの、珍しいな?」
二人が同時に振り返る。結城は酷く基本的なことを聞くのが少し恥ずかしかったけど、意を決して口を開いた。
「……ゆるくないって、なんだ?」
一瞬、沈黙。鈴木が「は?」って顔で猪俣を見る。
「……そりゃ、ゆるくないはゆるくないだべさ」
なぁ、と鈴木が猪俣に話を振る。猪俣がピンときたらしく、ニヤッと笑った。
「あぁ、共通語でいうと、疲れるとか、簡単じゃないとか、そういう感じだな」
結城が目を丸くする。
「マジかよ……それだけでいいのか?」
メモ帳を出すまでもなく、頭の中で「ゆるくない=疲れる」と変換する。
こんなんで通じるのかよ。田舎の言葉って適当すぎだろ……
猪俣が笑いながら続ける。
「まぁ、馬の世話はマジでゆるくないぜ。餌やって、ブラシかけて、糞片づけてさ。3年は発表のために気合入れてるからなおさらだ」
鈴木が頷く。
「農クの発表って、県の大会にも出るべさ。馬使って何かやるつもりなんじゃねぇの?」
結城は「へぇ」と気のない返事をしながら、馬を眺める。
確かにでかいし、世話すんの大変そうだな……でも、鋤ひかせるとかねぇよな、やっぱ
「日野、お前、馬とか興味あんの?」
猪俣がからかうように聞く。結城は首を振る。
「別に。ただ、朝から畑で疲れてるのに、こんなデカい動物まで見るとか、頭おかしくなりそうだってだけ」
鈴木が笑う。
「慣れっこだよ。俺らも小さい頃から畑やらなんやらやってっからさ。日野は都会育ちだから、ゆるくねぇよな、全部が」
ゆるくねぇって……疲れるってことか。確かにその通りだわ
結城は内心で苦笑する。この田舎暮らし、慣れるどころか毎日が疲労との戦いだ。
「なぁ、日野。お前も馬術部入ってみねぇ? 体力つくぜ」
猪俣が肩を叩いてくる。結城は「冗談じゃねぇ」と即答する。
「俺は天文部でいい。星見てりゃ体力使わねぇし」
鈴木が「そっちもそっちでゆるくねぇべさ」と笑う。結城は「は?」って顔をするけど、確かに望遠鏡の調整とか地味に面倒だったことを思い出す。
馬が柵の向こうで鼻を鳴らす。夕陽が厩舎を赤く染める中、結城は少しだけ考える。
慣れ親しむ努力って、こういうことなのか? でも、俺はまだここに馴染む気ねぇよ……
遠くで櫻の「ゆーき、どこだよぉ!」って声が聞こえてきた。猪俣と鈴木が「呼ばれてるぞ」とニヤニヤする。結城はため息をつきながら立ち上がる。
疲れてんのに、あいつらと絡むのか。けど、この「ゆるくない」感じ、ちょっとだけ分かってきた気がする……
★ マラソンと方言の疲れ
翌日、体育の時間はマラソンだった。体力づくりが目的らしい。校庭の外周をぐるぐる走るコースで、果樹園の丘が見える田舎らしい風景が広がる。生徒たちの間からぶつくさ文句が漏れる。
「マジかよ、走るのかよ……」
「寒いのに汗かくとか最悪だべさ……」
結城はゼッケンを付けながら、ぼんやり考える。
文句が出るのは本州でも北海道でも変わらねぇな。疲れるもんはどこでも疲れるか……
スタートの笛が鳴り、生徒たちがぞろぞろ走り出す。結城は中盤あたりを適当に流すつもりで足を動かす。朝の畑仕事で疲れてるし、無理する気はない。
少し離れたところで、櫻が静流に声をかけていた。
「しずるちゃん、こわくなったら言ってね?」
「ありがと、さくら」
静流が小さく微笑む。最近、結城は気づいたことがある。静流は櫻に話す時、いつもより少しゆるい口調になる。普段の静かな雰囲気とは微妙に違う、柔らかい感じだ。
そこに酉城が豪快な声で割り込む。
「静流は体力ねぇからな! 走ったらすぐこわくなるべさ!」
静流が軽く笑いながら返す。
「いざとなったら、酉城君に背負ってもらうよ」
「任せとけって! 俺の背中なら余裕だぜ!」
酉城が胸を叩く。豪放磊落そのものの態度に、結城は内心呆れる。
走りながら、結城は静流の隣に並んだ。ポケットから紙パックのジュースを取り出し、差し出す。
「ノートのお礼な。で、なぁ、静流。マラソンで何がそんなに怖いんだ?」
静流がジュースを受け取り、小さく首をかしげる。
「あ、テラーとかフィアーの怖いじゃなくて、北海道弁で疲れるって意味だよ」
結城が目を丸くする。
「ゆるくない、じゃないのか?」
静流が少し考えてから答える。
「そっちとは少し意味合いが違うかな。『こわい』は体力的に疲れる時に使うことが多いかも。『ゆるくない』はもっと広い意味で、簡単じゃないとか大変とか、そういう感じ」
結城が「へぇ」と呟く。
また新しい単語かよ……田舎の言葉、ややこしすぎだろ
頭の中で「こわい=体力的に疲れる」とメモする感覚だ。
「結城は大丈夫? 朝から畑やってたんだよね?」
静流が心配そうに聞く。結城は肩をすくめる。
「大丈夫じゃねぇよ。もう足が棒だ。俺もすぐ『こわい』になりそうだ」
自分で使ってみて、ちょっと気恥ずかしい。静流が小さく笑う。
「慣れてきたね、少し」
「慣れたくねぇよ」
即答するけど、内心では少しだけ否定しきれなかった。
遠くで櫻が「ゆーき、しずるちゃん、遅いよぉ!」と手を振る。酉城が「走れよ、置いてくぞ!」と笑いながら先頭をぶっちぎる。結城はため息をつきつつ、ペースを少し上げる。
疲れるのはどこでも一緒だけど、この『こわい』って感じ、なんか田舎っぽくて嫌いじゃねぇかも……いや、やっぱ疲れるだけだわ
息が上がる中、結城の頭には方言と田舎暮らしが少しずつ混ざり始めていた。でも、東京への執着はまだ消えない。
次は櫻が何か騒ぎ出すんだろうな。こわくなる前に終わらせたいけど、無理そうだな……
★ マラソン後の息切れ
「ぜぇ……はぁ……」
結城は校庭の端で膝に手を置き、息を整えていた。隣では静流が静かに肩を上下させ、同じく疲れ切った顔で立っている。別に示し合わせたわけじゃないけど、マラソンのゴールはほぼ同時だった。
こわいってこういうことか……マジで体力ねぇな、俺
そこへ、櫻が軽快な足取りで近づいてきた。
「二人とも体力ないよね~!」
薄桜色の髪を揺らし、楽しそうに笑う。結城と静流が息も絶え絶えなのに対し、櫻はピンピンしている。確かに息を整える必要はあるみたいだけど、二人ほど追い詰められてはいない。
結城がゼェゼェ言いながら櫻を見る。
「櫻、寧ろお前はその小柄でなんで平気なんだよ」
櫻が胸を張る。
「農作業やってると自然とね! それと、ボクは夏場よく泳ぐし!」
結城が「そーか」と呟く。
流線形だし、泳ぐの早そうだな……
櫻の小柄な体型をチラッと見て、そんなことを考える。確かに、農作業で鍛えられてる上に泳ぎ慣れてれば、マラソンくらい余裕なのかもしれない。
すると、櫻が急にジト目でこっちを睨んできた。
「ゆーき、いま失礼なこと考えてなかった?」
結城が慌てて目を逸らす。
「そんなことねぇぞ」
平静を装うけど、心臓が少しドキッとする。櫻の勘の鋭さに内心焦った。
静流が小さく笑いながら、ジュースのパックを手に息を整える。
「結城、顔に出てるよ」
「うるせぇ、静流。お前も体力ねぇくせに」
結城がムッとして返す。静流は「うん、そうだね」と素直に頷くだけ。
櫻が二人の間に入り込んでくる。
「ねぇ、ゆーき、しずるちゃん! ボクが泳ぎ教えてあげようか? 夏になったらモイレでさ!」
目を輝かせて絡む。結城は息を整えながら、
「夏までここにいる気はねぇよ……」
とぶっきらぼうに返すけど、櫻は聞いちゃいない。
「絶対楽しいよぉ! ゆーきも泳げるようになったら、マラソンくらい平気になるべさ!」
櫻が腕を引っ張ってくる。結城は「離れろ」と振りほどこうとするけど、疲れすぎて力が弱い。
静流が静かに微笑む。
「櫻の言う通りかもね。慣れれば、少しは『こわく』なくなるよ」
結城が「はぁ?」って顔で静流を見る。
慣れるって……この田舎に馴染む気はねぇって言ってんだろ
内心で反論する。でも、櫻の元気さと静流の穏やかさに、少しだけ疲れが和らいだ気がした。
★ 方言の微妙な線
マラソン後の校庭。結城と静流はまだ息を整えている。櫻はピンピンしたまま二人に絡み続け、遠くでは酉城が他の生徒と騒いでいる。結城は地面に座り込み、紙パックのジュースをちびちび飲みながら、頭を整理していた。
「ゆるくない」と「こわい」か……どっちも疲れるって意味っぽいけど、なんか違うらしいな
櫻が隣にしゃがみ込んでくる。
「ねぇ、ゆーき! マラソンどうだった? こわかったべさ?」
ニコニコしながら絡む。結城はジト目で返す。
「こわいって、疲れるって意味だろ? 静流に聞いた。俺、今めっちゃこわいよ」
わざと使ってみる。櫻が「おお~!」と目を輝かせる。
「ゆーき、北海道弁うまくなったべさ! しずるちゃんに教わったんだねぇ!」
静流が静かに微笑む。
「うん、さっき説明したよ。『こわい』は体力的に疲れる時に使うことが多いって」
結城が首をかしげる。
「でもさ、『ゆるくない』も疲れるって意味じゃねぇの? 猪俣にそう聞いたぞ。どっちも一緒じゃね?」
櫻と静流が顔を見合わせる。櫻が指を振って説明を始める。
「ん~、ちょっと違うんだよぉ! 『ゆるくない』はね、大変とかキツいとか、広い意味で使うべさ。たとえば、馬の世話がゆるくないとか、学校の課題がゆるくないとかさ」
静流が補足する。
「そう。『ゆるくない』は状況全体が簡単じゃない時に使うことが多いかな。一方、『こわい』はもっと体に直結する感じ。走って息が上がったり、重いもの持って疲れたりすると『こわい』って言うよ」
結城が「へぇ」と呟く。
なるほど……『ゆるくない』が全体の大変さで、『こわい』が体の疲れか。微妙に使い分けてんのかよ
そこへ、酉城が汗だくで戻ってきた。
「お前らまだ休んでんのか! 俺なんか全然こわくねぇぞ!」
豪快に笑う。結城が呆れた顔で言う。
「お前がこわくならねぇのは体力バカだからだろ。俺は朝から畑やって、マラソンやって、今めっちゃこわいわ」
酉城がニヤッと笑う。
「そりゃ、お前が都会育ちでゆるいからだべさ! 俺ら田舎もんは毎日こわくても慣れてんだよ!」
結城が「は?」って顔をする。
「待て、また新しい単語出てきたぞ。『ゆるい』ってなんだよ?」
櫻が手を叩いて飛びつく。
「あ~! それも大事だべさ! 『ゆるい』は楽とか簡単って意味だよぉ! 『ゆるくない』の反対!」
静流が頷く。
「そう。たとえば、『この授業ゆるいね』って言うと、楽で簡単って感じ。酉城君は結城が『ゆるい』って言いたいんじゃない?」
酉城が肩を叩いてくる。
「そーだよ! お前、都会じゃゆるい生活してたんだろ? だから田舎のこわさが耐えられねぇんだ!」
結城がムッとする。
「ゆるい生活じゃねぇよ。東京は東京で忙しいんだよ。ただ、畑とか馬とか走るとか、そういう疲れがねぇだけだ」
櫻が「ふ~ん」とジト目でこっちを見る。
「ゆーき、言い訳だべさ。こっち来てからこわいばっか言ってるもん!」
「うるせぇ、事実だろ。俺、今死ぬほどこわいんだよ!」
結城が言い返すと、櫻と酉城が笑い出し、静流も小さく笑う。
この方言、ややこしすぎる……でも、なんか分かってきた気がする
結城はジュースを飲み干し、地面に寝転がる。
「なぁ、静流。他にもややこしい方言あったら今教えてくれ。頭整理したい」
静流が少し考えてから言う。
「そうだね……『めんこい』とかは?」
結城が起き上がる。
「何だそれ?」
櫻が即座に絡む。
「かわいいって意味だよぉ! ゆーき、めんこいねぇ!」
腕を引っ張ってくる。結城は「離れろ」と振りほどきつつ、
「めんこいって……俺にかわいいとか使うなよ」
酉城が笑う。
「お前、疲れててもその顔はめんこいぜ!」
結城がため息をつく。
疲れる、こわい、ゆるくない、めんこい……田舎の言葉、覚えるのすらこわいわ
櫻が「次はゆーきに方言もっと教えちゃうべさ!」と騒ぎ出す。結城の頭に新たな「こわさ」が響きつつも、どこかこのやり取りが嫌いじゃない気がした。
慣れるつもりはねぇけど、この騒がしさ、ちょっとだけ面白くなってきたかもな……




