表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/74

マラソンと少女達が揺り動かす心

 ★ 慣れ親しむ努力


 放課後、結城は校庭の端にある馬術部の厩舎にいた。目の前に立つのは、堂々とした馬。3年生が今期の農業クラブの発表用に管理しているやつだ。茶色の毛並みが夕陽に映え、時折鼻を鳴らすその姿に、結城は少しだけ目を奪われる。


 東京じゃこんなデカい動物、動物園でしか見ねぇよ……


「こいつに鋤でもひかせりゃ、土耕したりするのも楽なんだけどな」


 結城がぼそっと呟く。自分で言って、自分でつまらないと思う。隣にいた男子――猪俣が即座に突っ込んだ。


「明治時代かよ」


 結城は「うるせぇ」と返す気力もなく、馬を見つめる。確かに、馬が畑を耕すなんて時代錯誤もいいところだ。でも、この学校じゃそんな突拍子もない想像すら現実味を帯びてくる。


 猪俣が馬の柵に寄りかかりながら言う。


「しっかし、ウチの学校も頑張るなぁ。馬の世話なんてゆるくないべや」


 隣にいたもう一人の男子――鈴木が頷く。


「3年の農クでの発表用だべさ。まぁゆるくないだろうけども」


 数日経っても、結城にはこいつらの言葉が半分くらいしか分からない。北海道弁なのか、学校特有の言い回しなのか、さっぱりだ。疲れた顔で二人を見やり、


「わり、猪俣、鈴木……」


「あん? どした? 日野」


「お前が話しかけてくるの、珍しいな?」


 二人が同時に振り返る。結城は酷く基本的なことを聞くのが少し恥ずかしかったけど、意を決して口を開いた。


「……ゆるくないって、なんだ?」


 一瞬、沈黙。鈴木が「は?」って顔で猪俣を見る。


「……そりゃ、ゆるくないはゆるくないだべさ」


 なぁ、と鈴木が猪俣に話を振る。猪俣がピンときたらしく、ニヤッと笑った。


「あぁ、共通語でいうと、疲れるとか、簡単じゃないとか、そういう感じだな」


 結城が目を丸くする。


「マジかよ……それだけでいいのか?」


 メモ帳を出すまでもなく、頭の中で「ゆるくない=疲れる」と変換する。


 こんなんで通じるのかよ。田舎の言葉って適当すぎだろ……


 猪俣が笑いながら続ける。


「まぁ、馬の世話はマジでゆるくないぜ。餌やって、ブラシかけて、糞片づけてさ。3年は発表のために気合入れてるからなおさらだ」


 鈴木が頷く。


「農クの発表って、県の大会にも出るべさ。馬使って何かやるつもりなんじゃねぇの?」


 結城は「へぇ」と気のない返事をしながら、馬を眺める。


 確かにでかいし、世話すんの大変そうだな……でも、鋤ひかせるとかねぇよな、やっぱ


「日野、お前、馬とか興味あんの?」


 猪俣がからかうように聞く。結城は首を振る。


「別に。ただ、朝から畑で疲れてるのに、こんなデカい動物まで見るとか、頭おかしくなりそうだってだけ」


 鈴木が笑う。


「慣れっこだよ。俺らも小さい頃から畑やらなんやらやってっからさ。日野は都会育ちだから、ゆるくねぇよな、全部が」


 ゆるくねぇって……疲れるってことか。確かにその通りだわ


 結城は内心で苦笑する。この田舎暮らし、慣れるどころか毎日が疲労との戦いだ。


「なぁ、日野。お前も馬術部入ってみねぇ? 体力つくぜ」


 猪俣が肩を叩いてくる。結城は「冗談じゃねぇ」と即答する。


「俺は天文部でいい。星見てりゃ体力使わねぇし」


 鈴木が「そっちもそっちでゆるくねぇべさ」と笑う。結城は「は?」って顔をするけど、確かに望遠鏡の調整とか地味に面倒だったことを思い出す。


 馬が柵の向こうで鼻を鳴らす。夕陽が厩舎を赤く染める中、結城は少しだけ考える。


 慣れ親しむ努力って、こういうことなのか? でも、俺はまだここに馴染む気ねぇよ……


 遠くで櫻の「ゆーき、どこだよぉ!」って声が聞こえてきた。猪俣と鈴木が「呼ばれてるぞ」とニヤニヤする。結城はため息をつきながら立ち上がる。


 疲れてんのに、あいつらと絡むのか。けど、この「ゆるくない」感じ、ちょっとだけ分かってきた気がする……


 ★ マラソンと方言の疲れ

 翌日、体育の時間はマラソンだった。体力づくりが目的らしい。校庭の外周をぐるぐる走るコースで、果樹園の丘が見える田舎らしい風景が広がる。生徒たちの間からぶつくさ文句が漏れる。

「マジかよ、走るのかよ……」

「寒いのに汗かくとか最悪だべさ……」

 結城はゼッケンを付けながら、ぼんやり考える。

 文句が出るのは本州でも北海道でも変わらねぇな。疲れるもんはどこでも疲れるか……

 スタートの笛が鳴り、生徒たちがぞろぞろ走り出す。結城は中盤あたりを適当に流すつもりで足を動かす。朝の畑仕事で疲れてるし、無理する気はない。

 少し離れたところで、櫻が静流に声をかけていた。


「しずるちゃん、こわくなったら言ってね?」

「ありがと、さくら」


 静流が小さく微笑む。最近、結城は気づいたことがある。静流は櫻に話す時、いつもより少しゆるい口調になる。普段の静かな雰囲気とは微妙に違う、柔らかい感じだ。

 そこに酉城が豪快な声で割り込む。


「静流は体力ねぇからな! 走ったらすぐこわくなるべさ!」


 静流が軽く笑いながら返す。


「いざとなったら、酉城君に背負ってもらうよ」

「任せとけって! 俺の背中なら余裕だぜ!」


 酉城が胸を叩く。豪放磊落そのものの態度に、結城は内心呆れる。

 走りながら、結城は静流の隣に並んだ。ポケットから紙パックのジュースを取り出し、差し出す。


「ノートのお礼な。で、なぁ、静流。マラソンで何がそんなに怖いんだ?」


 静流がジュースを受け取り、小さく首をかしげる。


「あ、テラーとかフィアーの怖いじゃなくて、北海道弁で疲れるって意味だよ」


 結城が目を丸くする。


「ゆるくない、じゃないのか?」


 静流が少し考えてから答える。


「そっちとは少し意味合いが違うかな。『こわい』は体力的に疲れる時に使うことが多いかも。『ゆるくない』はもっと広い意味で、簡単じゃないとか大変とか、そういう感じ」


 結城が「へぇ」と呟く。

 また新しい単語かよ……田舎の言葉、ややこしすぎだろ

 頭の中で「こわい=体力的に疲れる」とメモする感覚だ。


「結城は大丈夫? 朝から畑やってたんだよね?」


 静流が心配そうに聞く。結城は肩をすくめる。


「大丈夫じゃねぇよ。もう足が棒だ。俺もすぐ『こわい』になりそうだ」


 自分で使ってみて、ちょっと気恥ずかしい。静流が小さく笑う。


「慣れてきたね、少し」

「慣れたくねぇよ」


 即答するけど、内心では少しだけ否定しきれなかった。

 遠くで櫻が「ゆーき、しずるちゃん、遅いよぉ!」と手を振る。酉城が「走れよ、置いてくぞ!」と笑いながら先頭をぶっちぎる。結城はため息をつきつつ、ペースを少し上げる。

 疲れるのはどこでも一緒だけど、この『こわい』って感じ、なんか田舎っぽくて嫌いじゃねぇかも……いや、やっぱ疲れるだけだわ

 息が上がる中、結城の頭には方言と田舎暮らしが少しずつ混ざり始めていた。でも、東京への執着はまだ消えない。

 次は櫻が何か騒ぎ出すんだろうな。こわくなる前に終わらせたいけど、無理そうだな……


 ★ マラソン後の息切れ


「ぜぇ……はぁ……」


 結城は校庭の端で膝に手を置き、息を整えていた。隣では静流が静かに肩を上下させ、同じく疲れ切った顔で立っている。別に示し合わせたわけじゃないけど、マラソンのゴールはほぼ同時だった。

 こわいってこういうことか……マジで体力ねぇな、俺

 そこへ、櫻が軽快な足取りで近づいてきた。


「二人とも体力ないよね~!」


 薄桜色の髪を揺らし、楽しそうに笑う。結城と静流が息も絶え絶えなのに対し、櫻はピンピンしている。確かに息を整える必要はあるみたいだけど、二人ほど追い詰められてはいない。

 結城がゼェゼェ言いながら櫻を見る。


「櫻、寧ろお前はその小柄でなんで平気なんだよ」


 櫻が胸を張る。


「農作業やってると自然とね! それと、ボクは夏場よく泳ぐし!」


 結城が「そーか」と呟く。

 流線形だし、泳ぐの早そうだな……

 櫻の小柄な体型をチラッと見て、そんなことを考える。確かに、農作業で鍛えられてる上に泳ぎ慣れてれば、マラソンくらい余裕なのかもしれない。

 すると、櫻が急にジト目でこっちを睨んできた。


「ゆーき、いま失礼なこと考えてなかった?」


 結城が慌てて目を逸らす。


「そんなことねぇぞ」


 平静を装うけど、心臓が少しドキッとする。櫻の勘の鋭さに内心焦った。

 静流が小さく笑いながら、ジュースのパックを手に息を整える。


「結城、顔に出てるよ」

「うるせぇ、静流。お前も体力ねぇくせに」


 結城がムッとして返す。静流は「うん、そうだね」と素直に頷くだけ。

 櫻が二人の間に入り込んでくる。


「ねぇ、ゆーき、しずるちゃん! ボクが泳ぎ教えてあげようか? 夏になったらモイレでさ!」


 目を輝かせて絡む。結城は息を整えながら、


「夏までここにいる気はねぇよ……」


 とぶっきらぼうに返すけど、櫻は聞いちゃいない。


「絶対楽しいよぉ! ゆーきも泳げるようになったら、マラソンくらい平気になるべさ!」


 櫻が腕を引っ張ってくる。結城は「離れろ」と振りほどこうとするけど、疲れすぎて力が弱い。

 静流が静かに微笑む。


「櫻の言う通りかもね。慣れれば、少しは『こわく』なくなるよ」


 結城が「はぁ?」って顔で静流を見る。

 慣れるって……この田舎に馴染む気はねぇって言ってんだろ

 内心で反論する。でも、櫻の元気さと静流の穏やかさに、少しだけ疲れが和らいだ気がした。


 ★ 方言の微妙な線

 マラソン後の校庭。結城と静流はまだ息を整えている。櫻はピンピンしたまま二人に絡み続け、遠くでは酉城が他の生徒と騒いでいる。結城は地面に座り込み、紙パックのジュースをちびちび飲みながら、頭を整理していた。

「ゆるくない」と「こわい」か……どっちも疲れるって意味っぽいけど、なんか違うらしいな

 櫻が隣にしゃがみ込んでくる。


「ねぇ、ゆーき! マラソンどうだった? こわかったべさ?」


 ニコニコしながら絡む。結城はジト目で返す。


「こわいって、疲れるって意味だろ? 静流に聞いた。俺、今めっちゃこわいよ」


 わざと使ってみる。櫻が「おお~!」と目を輝かせる。


「ゆーき、北海道弁うまくなったべさ! しずるちゃんに教わったんだねぇ!」


 静流が静かに微笑む。


「うん、さっき説明したよ。『こわい』は体力的に疲れる時に使うことが多いって」


 結城が首をかしげる。


「でもさ、『ゆるくない』も疲れるって意味じゃねぇの? 猪俣にそう聞いたぞ。どっちも一緒じゃね?」


 櫻と静流が顔を見合わせる。櫻が指を振って説明を始める。


「ん~、ちょっと違うんだよぉ! 『ゆるくない』はね、大変とかキツいとか、広い意味で使うべさ。たとえば、馬の世話がゆるくないとか、学校の課題がゆるくないとかさ」


 静流が補足する。


「そう。『ゆるくない』は状況全体が簡単じゃない時に使うことが多いかな。一方、『こわい』はもっと体に直結する感じ。走って息が上がったり、重いもの持って疲れたりすると『こわい』って言うよ」


 結城が「へぇ」と呟く。

 なるほど……『ゆるくない』が全体の大変さで、『こわい』が体の疲れか。微妙に使い分けてんのかよ

 そこへ、酉城が汗だくで戻ってきた。


「お前らまだ休んでんのか! 俺なんか全然こわくねぇぞ!」


 豪快に笑う。結城が呆れた顔で言う。


「お前がこわくならねぇのは体力バカだからだろ。俺は朝から畑やって、マラソンやって、今めっちゃこわいわ」


 酉城がニヤッと笑う。


「そりゃ、お前が都会育ちでゆるいからだべさ! 俺ら田舎もんは毎日こわくても慣れてんだよ!」


 結城が「は?」って顔をする。


「待て、また新しい単語出てきたぞ。『ゆるい』ってなんだよ?」


 櫻が手を叩いて飛びつく。


「あ~! それも大事だべさ! 『ゆるい』は楽とか簡単って意味だよぉ! 『ゆるくない』の反対!」


 静流が頷く。


「そう。たとえば、『この授業ゆるいね』って言うと、楽で簡単って感じ。酉城君は結城が『ゆるい』って言いたいんじゃない?」


 酉城が肩を叩いてくる。


「そーだよ! お前、都会じゃゆるい生活してたんだろ? だから田舎のこわさが耐えられねぇんだ!」


 結城がムッとする。


「ゆるい生活じゃねぇよ。東京は東京で忙しいんだよ。ただ、畑とか馬とか走るとか、そういう疲れがねぇだけだ」


 櫻が「ふ~ん」とジト目でこっちを見る。


「ゆーき、言い訳だべさ。こっち来てからこわいばっか言ってるもん!」

「うるせぇ、事実だろ。俺、今死ぬほどこわいんだよ!」


 結城が言い返すと、櫻と酉城が笑い出し、静流も小さく笑う。

 この方言、ややこしすぎる……でも、なんか分かってきた気がする

 結城はジュースを飲み干し、地面に寝転がる。


「なぁ、静流。他にもややこしい方言あったら今教えてくれ。頭整理したい」


 静流が少し考えてから言う。


「そうだね……『めんこい』とかは?」


 結城が起き上がる。


「何だそれ?」


 櫻が即座に絡む。


「かわいいって意味だよぉ! ゆーき、めんこいねぇ!」


 腕を引っ張ってくる。結城は「離れろ」と振りほどきつつ、


「めんこいって……俺にかわいいとか使うなよ」


 酉城が笑う。


「お前、疲れててもその顔はめんこいぜ!」


 結城がため息をつく。

 疲れる、こわい、ゆるくない、めんこい……田舎の言葉、覚えるのすらこわいわ

 櫻が「次はゆーきに方言もっと教えちゃうべさ!」と騒ぎ出す。結城の頭に新たな「こわさ」が響きつつも、どこかこのやり取りが嫌いじゃない気がした。

 慣れるつもりはねぇけど、この騒がしさ、ちょっとだけ面白くなってきたかもな……

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ