座学と結城
★ 座学と取り残される結城
その日の農業の授業は座学だった。テーマは、ちょうど果樹の剪定について。朝から祖母のリンゴ畑で剪定作業を手伝わされた結城にとっては、なんとも皮肉なタイミングだ。でも、彼にはその皮肉を楽しむ余裕すらなかった。
教室の黒板に、教師が果樹の枝の切り方や時期ごとの管理方法を次々と書き込んでいく。
「3月はリンゴの休眠期だから、ここで剪定して形を整える。秋の実りに影響するからな」
淡々と進む説明。教室の生徒たちは頷いたり、ノートに書き込んだりしている。
結城は鉛筆を握ったまま、呆然と黒板を見つめる。
何? 休眠期? 形を整える?
頭の中は疑問符だらけだ。東京の進学校じゃ農業なんて選択科目にもなかった。ましてや果樹の剪定なんて、今日初めて聞いた言葉だ。
教師も生徒も、普段の生活で最低限の知識がある前提で授業が進む。酉城は「うちの畑も今やってるぜ」と呟き、櫻は「剪定って楽しいよねぇ!」とニコニコしてる。結城だけが完全に置いてかれていた。
授業のテンポが速く、流れを止める質問をするのも憚られる。仕方なく、結城は二つの作業を並行することにした。
一つは普通にノートを取る。もう一つは、疑問点をピックアップして後で先生に確認するためのメモを作る。
ノートには「休眠期?」「剪定の形って何?」と殴り書きが並ぶ。鉛筆を持つ手が疲れ、朝の畑仕事の眠気が追い打ちをかける。
こんなんやってられるかよ……
授業が終わり、結城は机に突っ伏していた。頭が重い。疲れと理解できない苛立ちで、完全にダウン状態だ。
「結城、大丈夫?」
静かな声が耳に届く。顔を上げると、静流が心配そうにこちらを見ていた。白い髪が教室の窓から差し込む光に映える。
「大丈夫に見えるか?」
結城が掠れた声で返す。静流は小さく首を振る。
「だよね……ノート、私の使う? 先生に聞く分をまとめるには良いと思うけど」
その提案は、正直渡りに船だった。結城は「助かる」と呟き、静流が差し出したノートを受け取る。彼女が普段持ち歩く星のノートとは違い、授業用ノートは板書を正確にコピーしたものだ。丁寧な字で「剪定の目的」「休眠期の管理」と項目が整理されている。
結城は自分の殴り書きメモと見比べながら、判らない所を書き足していく。「休眠期=冬眠みたいなもの?」「形って枝の角度?」と、少しずつ疑問を整理する。
「静流、お前これ全部理解してんの?」
結城が顔を上げて聞くと、静流は小さく微笑んだ。
「うん、ここに育ったからね。でも、私も最初は分からなかったよ。慣れるまで大変だった」
静かな声に、どこか共感が滲む。結城は「へぇ」と返すだけだけど、内心少しだけホッとした。
都会育ちの俺には無理ゲーだけど、こいつでも最初は苦労したってんなら……まぁ、ちょっとだけ頑張ってみっか 、そう思うと、気持ちは少し楽になった。
「ありがとうな」
ぽつりと礼を言う。静流は「うん」と頷き、ノートを閉じた。
教室の外では、櫻と酉城が「ゆーき、早く来てよぉ!」「お前遅ぇぞ!」と騒いでいるのが聞こえる。結城はため息をつきながら立ち上がる。
疲れてんのに、あいつら元気すぎだろ……でも、静流のノートのおかげで少しはマシになったか
ノートを手に持つ感触が、ほんの少し、この田舎の授業に馴染むきっかけになった気がした。
次は先生に聞くか……面倒だけど、置いてかれっぱなしも癪だな
★ 先生との質疑応答
放課後、結城は職員室の前に立っていた。手に持つのは静流のノートと、自分の殴り書きだらけのメモ。朝の畑仕事と授業の疲れで足が重い。でも、置いてかれっぱなしで終わるのも癪だった。
面倒くせぇけど、やるしかねぇか……
深呼吸してドアをノックする。
「入っていいっすか」
中から「どうぞ」と低い声が返ってきた。
農業科の担任、佐藤先生は机に座り書類を整理していた。50代くらいの、日に焼けた顔に白髪混じりの髪。畑仕事の合間に教壇に立ってるような雰囲気だ。結城を見て、軽く笑う。
「お、結城か。珍しいな、どうした?」
結城はノートとメモを机に置き、
「今日の授業、さっぱり分かんなくて。ちょっと教えてくれませんか」
とぶっきらぼうに言う。先生は「ほう」と目を細め、椅子を勧めた。
「どれどれ……剪定の話か。静流のノートか? よくまとまってるな」
先生がノートをパラパラめくる。結城は黙って頷く。
「で、何が分からん?」
結城がメモを開き、殴り書きを指す。
「まず、『休眠期』ってなんすか。木が寝てんのかって話ですか?」
先生が小さく笑う。
「まぁ、そう考えてもいい。リンゴの木は冬に活動を止めるんだよ。葉っぱ落として、栄養を貯めて、次の春に備える。それが休眠期だ。3月はその終わり頃で、剪定にちょうどいい時期なんだ」
結城が「へぇ」と呟く。
木が寝てるって、なんか変な感じだな……
メモに「冬眠みたいなもの」と書き足す。
「次はこれ。『形を整える』ってなんすか。枝の角度とか関係あんの?」
結城が続ける。先生が机のリンゴの模型を手に取る。
「いい質問だ。剪定はただ切ればいいってもんじゃない。枝の向きや角度を調整して、木に陽が当たるようにするんだ。実がちゃんと育つように、風通しも大事だしな。たとえば――」
先生が模型の枝を指しながら説明する。結城は目を細めて聞く。
「うちのばーちゃんの畑でも、朝そんな感じで切ってた気がする……」
ぽつりと言うと、先生が頷く。
「あそこの果樹園は専業だからな。剪定にも気合入ってる。秋の実りが全然違うぞ」
結城がメモに「陽当たり、風通し」と書き込む。
「専業って、農業だけで食ってるってことですよね? それでそんな細かいことまでやってんの?」
「そうだ。専業は農業が命綱だから、手間暇かけてでもいい果物を作る。兼業だと時間限られてるから、そこまでできんことも多い」
先生が椅子に寄りかかりながら言う。結城は少し考える。
朝の作業、だるかったけど、あれって秋のためなのか……
頭の中で、父親が剪定ばさみで枝を切ってた姿が浮かぶ。
「他に何かあるか?」
先生が聞く。結城がメモを見直し、最後の疑問を口にする。
「『品種』ってなんすか。リンゴってリンゴじゃねぇの?」
先生が笑い声を上げた。
「お前、東京じゃコンビニのリンゴしか知らんかったか! リンゴにも種類があってな、味も形も全然違う。『フジ』は甘くてシャキシャキ、『つがる』は酸味が強めとか。日野の畑はたぶん、複数育ててるだろ」
結城が目を丸くする。
「マジすか……リンゴってそんなに種類あんの?」
メモに「品種=味の違い」と書き込む。
「まぁ、慣れりゃ分かるさ。お前もここで暮らすなら、少しずつ覚えていくしかねぇな」
先生がニヤッと笑う。結城は「いや、暮らすつもりはねぇっす」と内心で反論するけど、口には出さない。
「とりあえず、分かりました。ありがとうっす」
ノートとメモを手に立ち上がる。先生が「また分からんことがあったら来いよ」と言うのを背に、職員室を出た。
廊下を歩きながら、結城はノートを眺める。静流の丁寧な字と、自分の殴り書きが混ざったページ。
休眠期、形、品種……やっと少し分かったか。でも、まだわけ分かんねぇことだらけだな
校庭では、櫻と酉城が「ゆーき、遅いよぉ!」「お前どこ行ってたんだよ!」と騒いでいるのが見える。結城はため息をつく。
疲れてんのに、あいつらと絡むのか……でも、静流のノートと先生のおかげで、ちょっとだけマシになったか
少しずつ、この田舎の知識が結城の頭に染み込んでいく。でも、東京への執着はまだ消えない。
次は櫻が何か騒ぎ出すんだろうな。面倒くせぇけど、ちょっとだけ気になることが増えた気がする……