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櫻とりんご

 翌朝、目を覚ました静流が最初にしたのは、鏡を見て、唇をなぞる事だった。

 昨夜のキスの感触がまだ残っているような気がして、嬉しさと、若干の照れくささを感じながら、顔を洗い、登校の準備を整える。

 結局、「キスの先」まで一足飛びに、という雰囲気にはならず、結城に送ってもらって普通に帰ってきた次第だったが……まぁ慌てて歩を進めても仕方がない。この先は静流にとっても結城にとっても「未探査宙域」なのだから。


 学校に着いた時、櫻が休むという話を聞いて、少しだけ胸が痛んだ


(……そりゃ、そうだよね)


 櫻の気持ちを考えれば、昨日の出来事は決して軽いものではなかった。どれだけ強がっていても、どれだけ明るく振る舞っていても、きっと心のどこかで傷ついているはずだ。


「……静流?」


 結城の声に、静流ははっとして顔を上げる。心配そうに覗き込む結城の瞳が、自分のことだけでなく櫻のことも案じているのが分かった。


「ううん、大丈夫」


 静流は微笑んでみせた。結城を不安にさせたくなかった。


 でも、胸の奥でざわつく感情は、消えない。


(……櫻ちゃんと、ちゃんと話さなくちゃ)


 どんな形であれ、これまでの三人の関係が壊れるのは嫌だった。だからこそ、櫻と向き合うことが必要だと、静流は思った。


 結城と自分の気持ちは決まった。でも、まだ終わりじゃない。


(……待っててね、櫻ちゃん)


 静流はそっと唇をなぞりながら、心の中でそう呟いた。


 送ったメッセージは、昼を過ぎた位でようやく「大丈夫だよ」と短く返事が来た。

 同時に「大丈夫だから、今日は少し一人で休みたいかな」と続いていたため、結局静流は櫻の顔を見には行けなかった。

 ある意味、それは正しいのだろう。たとえ従姉妹であったとしても、失恋で泣きはらした顔など見せたくはないだろうから。


 メッセージを送った後、櫻は泣きはらした腫れぼったい目と、落ち込んだ気分全開の顔を鏡で見て「ひっどい顔……」と呟いた。

 ふと、テーブルに置いてあるハート形の小さなりんごが目に入る。

 食べるのには適さない、摘果した時にハートに見えたので、願掛け代わりに持ってきていた実。レジンでくるみ、多少の防腐処理をしたそれを持って、櫻は階下へと降りる。


「かーさん、ごめん、ちょっと出かけてくるべさ」

「どこ?」

「海、風に当たってくる」

「もう9月だからね、温かいからって飛び込むんでないよ?冷たくて泳げたもんじゃないべさ」


 冗談めかした母の言葉に苦笑する。


「そこまでアホじゃないべ」

「じゃあついでに、なんか甘いもん買ってきて」


 そう言いながら3千円ほどの現金を渡してくる。


「ん、何?」

「櫻の好きなのでいいべさ」


 判った、と返事をしながら玄関を出て自転車にまたがる。

 暫くの間自転車をこいで、フゴッペ岬の中ほどまで進む。海と余市の街を一望できる、櫻の特別な場所だ。


(ここに、一緒に来たかったな……)


 少しだけ泣きそうになったのをぐいと抑え込む。


「そーれっ!!」


 手にしたリンゴ、ハート形のそれを思い切り海へと放り投げる。

 その軌跡を追う間に、一粒だけ、涙がこぼれた。

 海へと投げたハート形のリンゴは、小さな弧を描いて青い波へと落ちていった。


 櫻はしばらく、その波紋をじっと見つめていた。


(これで、終わり……かな)


 呟くように思う。でも、それが本当の気持ちかどうか、自分でもよくわからなかった。胸の奥にまだ燻る感情がある。寂しさ、悔しさ、そして――ほんの少しの安堵。


 静流と結城なら、きっと幸せになれる。自分は――


(私は、どうするべか)


 風が吹く。潮の香りと共に、夏の名残と秋の気配が入り混じった空気が櫻の髪を揺らした。


「……もう少し、だけ」


 少しだけ、このまま風に吹かれていよう。


 櫻は自転車のスタンドを立て、護岸の上に座り込んだ。海を見つめながら、心の整理がつくまで、もう少しだけ――。


 少しした頃、リンゴは見えなくなった。

 波がどこかへ攫っていたのだろう。

 再び自転車をこいで帰る途中、櫻は貰った三千円と、自分の小遣いからもそれなりの額を出して好きな甘いものを買い込んでいった。


「きっとかーさん、お茶淹れて待ってるべさ」


 ケーキや和菓子、果物と分量と種類が多岐にわたり、自分ながら少々呆れたのは内緒だ。


(まだ、しずるちゃんにも結城にも、会いたくないな)


 その願いが通じたのか、幸いにして二人に会う事はなく家に帰りつく事になった。

 玄関を開けると、家の中にはふんわりとした湯気と、ほうじ茶の香ばしい香りが漂っていた。


(やっぱりね)


 櫻は苦笑しながら靴を脱ぎ、台所へ向かう。母はすでに湯飲みを並べ、急須を手にしていた。


「ほれ、ちゃんと温めておいたよ」


「へへ、ありがとうかーさん」


 櫻は袋から買い込んだお菓子を取り出し、テーブルに並べた。色とりどりのケーキ、ふわふわの大福、みたらし団子、梨とぶどう。


「……買いすぎたべさ」


「ま、甘いもんはいくらあっても困らんべ」


 母はそう言って笑い、湯飲みを二つ持って座った。


 櫻も向かいに座り、湯飲みを手に取る。温かいお茶の湯気が、少しだけ心をほぐすような気がした。


「棄てるんでなくて、乗り越えるものにしたんだねぇ」


 ふいに母が言った。


 櫻は手を止め、少しだけ視線をそらす。


「……まぁ」


 誤魔化す気にもなれず、櫻は小さく頷いた。


 母は何も言わず、ただ静かにお茶をすすった。


 しばらく沈黙が続く。お茶の湯気がゆっくりと立ち昇り、時計の秒針の音が微かに聞こえる。


「……甘いもん食うべさ」


 母の言葉に、櫻はふっと笑った。


「うん……食べる」


 フォークを手に取り、目の前のショートケーキを口に運ぶ。甘さがじんわりと広がり、少しだけ涙がこぼれそうになる。


(……まだ、泣かない、泣くのは、もうちょっとだけ先でいいべさ)


 そう思いながら、櫻は黙々とケーキを食べ続けた。

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