わたしのねがいのほし
★ わたしのねがいのほし
モイレ海岸の風が冷たく吹き抜ける。結城の頬を刺すようなその冷たさに、彼は少し顔をしかめた。日は地平線に沈みかけ、空は薄いオレンジから深い藍色へと染まりつつある。波の音が静かに響き、遠くの街灯がぽつぽつと灯り始めた。
結城は天体望遠鏡の三脚を砂浜に固定する。隣では、静流が黙々と作業に没頭していた。彼女の手は細やかで、小さなネジを回すたびに望遠鏡が微かに動く。星空を捉える準備が、少しずつ整っていく。その集中した横顔をちらりと見て、結城は思う。
この田舎の濃密さが嫌いなのに、静流の静かさはなんか落ち着く……
「結城、ここ持っててくれる?」
静流の声は穏やかだ。結城は「ん」と小さく返し、望遠鏡の筒を支える。砂浜に膝をついた静流が、作業を続けながら口を開いた。
「あの時は、本当に惑星を発見した、って思ったの」
どこか懐かしさが滲む声。結城の頭に、10年前の夏がぼんやり浮かぶ。あの時、静流がノートに描いた「しずるぼし」の輪っかを指さして興奮していた姿。
「その後で、星の図鑑で土星を見つけて、これだった……ってがっかりしたわ」
静流が小さく笑う。眼鏡の奥で目が細くなり、子供の頃の純粋な夢とその後の落胆を愛おしそうに思い出す。結城は黙って聞く。彼女の声に、心が少しだけ軽くなった。
「でも、いつかきっと、本当に『しずるぼし』を見つけたい。その時に本当に強く思ったの」
静流が手を止めて結城を見上げる。柔らかな視線に強い意志が宿る。結城は一瞬言葉に詰まり、
「……へぇ」
とだけ返す。
「お前、昔からマジで星好きだったんだな」
ぼそっと呟くと、静流は小さく頷いて微笑んだ。
「うん。君があの時、『しずるぼし』って呼んでくれたから、余計にね」
その言葉に、結城の胸がざわつく。10年前の軽い一言が、静流の中でこんな意味を持っていたなんて。東京のドライな関係性しか知らない結城には、新鮮で、重すぎる感覚だった。
「ほんと、しずるちゃんは器用だよね~! ボクにはできんさ~!」
突然、横から櫻の声が飛び込んできた。両手を上げて降参ポーズをとり、砂浜にどっかり座る。薄桜色の髪が風に揺れ、いつもの明るい笑顔がそこにある。望遠鏡の調整なんて最初から諦めたらしい。
「櫻、お前、こういうの全然向いてねぇな」
結城が呆れると、櫻は笑いながら砂を軽く蹴った。
「え~、いいじゃん! ボクはゆーきとしずるちゃんが楽しそうなら、それでいいよぉ! 星見るの楽しみだべさ!」
そのグイグイくるテンションに、結城は肩をすくめる。でも、櫻の無邪気さは、どこか憎めなかった。
★ 土星と静流の夢
静流が最後の調整を終え、望遠鏡を覗き込む。
「……見えた。結城、こっち」
小さく手招きする。結城は面倒くさそうにしながらも、砂浜に膝をついて覗いた。
視界に飛び込んできたのは、薄い輪をまとった土星。教科書やネットで見たことはある。でも、こうやって自分の目で捉えるのは初めてだ。
「……すげぇな」
素直に呟く。静流が隣で小さく笑った。
「でしょ? これが最初の『しずるぼし』。でも、いつか本物の、私だけの星を見つけたい」
静流の声は静かで、確かな夢に満ちている。結城は望遠鏡から目を離し、彼女を見る。風に揺れる白い髪。星空を映した瞳。
「お前、ほんと真剣だな……」
ぼそっと言う。静流は照れたように目を伏せた。
「君がここにいてくれるから、余計にそう思うのかも」
また胸がざわつく。櫻や酉城みたいな「濃い」タイプは苦手だ。でも、静流の静かな「濃さ」は、なぜか受け入れられそうで――いや、受け入れたくないのに、引き込まれている。
「ねえ、ゆーき! ボクも見たい!」
櫻が立ち上がり、結城を押しのけて望遠鏡に飛びつく。
「おお~! すっごいべさ! 輪っかちゃんと見える!」
テンションが一気に上がる。結城は「うるせぇな」と言うけど、どこかホッとした。櫻の騒がしさが、静流との重い空気を薄めてくれた。
★ 星空の下での葛藤
三人はしばらく土星を眺める。櫻が「次は月見ようよぉ!」と騒ぎながら時間を過ごした。夜が深まり、空には星がさらに広がる。モイレ海岸の静けさが際立っていく。
結城は砂浜に座り、膝を抱えて空を見上げた。
東京じゃこんな星空、見られない。光害で埋もれた都会の空とは別物だ……
でも、その美しさが、逆に心を締め付ける。
「俺はここに馴染むつもりなんてねぇ……」
頭の中で繰り返す。でも、静流の夢や櫻の笑顔が、その決意を揺らがせる。この田舎の濃密な関係性は、監視社会でしかないはずなのに。なぜか今、この瞬間は苦痛じゃない。
「ゆーき、寒くない? こっちおいでよぉ!」
櫻が寄ってきて、腕を引っ張る。結城は「離れろ」と言いながらも、立ち上がって彼女の隣に座った。
静流が望遠鏡を片付けながら、小さく微笑む。
「……ここにいるのも、悪くないよね」
ぽつりと呟く。結城は答えなかった。ただ、星空を見上げて、内心で反論する。
悪くねぇわけねぇだろ……でも、まぁ、今日くらいはいいか。
風が冷たく吹き抜ける。結城の心はまだ揺れていた。でも、土星の輪っかみたいに、少しずつ形を整え始めているのかもしれなかった。
そしてこの夜が、彼に新たな「何か」を気づかせようとしていた――