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本番開始

 アイヌの伝承


 イオチのコタンに暮らすカムチャは、若き戦士の中でも際立つ者なりき。

 その心は、フレベツのコタンに住むユキノエに惹かれ、

 日々、贈り物を手に持つて、遠き道を足蹴く通いし。

 ユキノエは穏やかなる娘、その笑顔は春の陽光のごとく、

 カムチャの胸に温もりを灯すものなりき。

 されど、イオチのコタンに一人の少女あり。

 名をアイノと呼び、カムチャを遠くより見つめし。

 アイノの瞳は、カムチャがフレベツへと向かう姿を追い、

 その足跡にそっと寄り添う影のごとくなり。

 カムチャを好く心は強く、

 されどユキノエへの仄かな思いをカムチャが寄せるを知り、

 アイノの胸に嫉妬の火がくすぶりぬ。

 ある日、カムチャがユキノエへと贈り物の編み籠を手に持つを見し時、

 アイノは川辺に立ち、独り水面を見つめつぶやけり。

「我が心は風に乱れ、ユキノエの名は波のごとく響く。

 カムチャよ、何故我を見ず、遠きコタンへと行くや。」

 その声は風に乗り、木々の間に消えゆきし。

 やがて、イヨチコタンの戦いの影が近づきぬ。

 カムチャは槍を手に立ち上がり、

 戦場へと向かう運命なり。

 アイノは知らず、ユキノエは祈り、

 二人の勇者の名がユーカラに刻まれる時が迫り来たり。


 ユーカラの調べが静かに舞台の空気を満たす中、カムチャを演じる結城が、舞台の端から歩み出る。

 手には、美しく織られた布飾と、狩りの成果として手に入れた鹿肉の燻製。

 静かに足を進める彼の表情には、ただ一人を想う確かな決意が宿っていた。


 舞台中央では、ユキノエ役の静流が焚き火の前に佇んでいる。

 風に揺れるアイヌ模様の衣装、穏やかな表情で遠くを見つめるその姿は、まるで夜の星を見上げるかのようだった。

 彼女の耳元で、銀のピアスがほのかに揺れる。


 カムチャは足を止め、ユキノエの前で片膝をつく。


「ユキノエ……これを、お前に」


 布飾を静かに広げると、ユキノエの瞳がわずかに揺れる。


「カムチャ……」


 静流の声が、ユキノエとしての感情を帯び、切なく響く。


「お前がこれを身に纏い、俺の贈り物を口にする時――

 俺たちは、コタンの違いを越えて、同じ未来を見られるのだろうか」


 そう言って、結城はユキノエの手に布をそっと置いた。

 ユキノエはそれをそっと抱きしめ、優しく微笑む。


「私の心は、カムチャとともにあるよ。

 風がイオチの大地を吹き渡るように、

 星が夜空に輝き続けるように、

 あなたがどこにいようと、私はずっと……あなたのそばにいる」


 ユキノエの囁きが、舞台全体に優しく響き渡る。


 客席の視線が、二人のやり取りに引き込まれる中、舞台の端からもう一つの影が現れる。


 アイノ役の櫻が、そっと二人のやり取りを見つめるように立っていた。

 彼女の白に桜色の髪が、舞台の炎に照らされて揺れる。

 その瞳の奥には、決して隠しきれない想いが滲んでいた。


「……私は、何も言わずに見ているだけ……」


 アイノの独白が、小さく漏れる。

 しかし、その声は、静かに観客の胸に突き刺さる。


 カムチャはユキノエを選び、二人の未来を願った。

 けれど、その選択が、アイノの心を傷つけてしまったことを、彼は知っているのか――


 舞台の光が徐々に暗転し、これから訪れる運命の影を予感させながら、

 物語は次の幕へと進んでいくのだった。


 イオチのカムチャは、今日もフレベツのユキノエの元へと足蹴く通っていた。

 戦士として名高い彼の足取りは迷いなく、まるで風に運ばれるように、ただ一人の娘の元へと向かっている。


 アイノは、その姿を遠くから見つめていた。

 何度も、何度も、カムチャに声をかけ、気を引こうと試みた。

 けれど、彼は決して足を止めなかった。


 ――どうして?


 アイノの心の中で、嫉妬と焦りが渦を巻く。

 カムチャの背にどれほど呼びかけても、決してこちらを振り向くことはなかった。


 やがて、イオチとフレベツの間に不穏な空気が漂い始める。

 戦の兆しが忍び寄り、コタンの者たちは緊張感を帯びた日々を過ごしていた。


 そんな中でも、カムチャとユキノエの想いは変わらなかった。

 二人は人目を忍び、コタンを抜け出して、二つのコタンの間にある白樺の木の下で密かに逢瀬を重ねるようになる。


 それは、まるで運命の悪戯のように、二本の白樺が絡み合い、一本の木のように立っている場所だった。

 決して交わることのないはずの二人のコタンのように、けれど、根元では一つに繋がっているかのように――。


 ――カムチャの想いが、私に向くことはないの?


 アイノは、白樺の陰から、彼らの密会を見つめていた。

 手のひらをぎゅっと握りしめ、心の奥に芽生えた迷いを振り払おうとする。


 だが、ふと、思いがよぎる。


 ――このことが知れれば、カムチャはコタンから出ることを禁じられる……

 ――そうすれば、ユキノエの元へは行けず、代わりに私を見るようになるかもしれない……


 その考えが浮かんだ瞬間、アイノの胸が強く痛んだ。

 それは、願ってはいけないことであり、してはいけない行為。


 けれど、彼女の心を支配していたのは、もうどうしようもないほどに膨れ上がった、抑えきれない想いだった――。


 イオチコタンの集会場。

 長老たちが静かに並び、コタンの戦士たちが厳しい目を向ける中、

 アイノは震える拳を握りしめ、前へと進み出た。


「カムチャは……カムチャは、ユキノエと密かに会っています!」


 力強く響いたアイノの声に、場の空気が張り詰める。

 櫻は、台詞を言いながらも内心焦りまくっていた。


(やばい、やばいべさ……!アレンジが止まらない……!)


 予定されていた台詞はもっと短く、簡潔だったはずだ。

 だが、口から出る言葉は止められず、アイノの激情が溢れ出していく。


「あの二人がこのまま密会を続ければ、コタンの誇りが傷つく!

 戦が迫っているというのに、敵対するフレベツの娘と通じるなんて――

 これは裏切りと同じことだべさ!!!」


(あああああ!助けて~~~~~~!)


 櫻は頭の片隅で悲鳴を上げる。

 完全に役に入りすぎて、気づけば言葉がどんどん熱を帯び、

 本気でカムチャを引き止めようとするアイノの心情を全力で語ってしまっている。


 結城も、静流も、驚いたように櫻を見つめていた。

 いや、それどころか、長老役の男子たちも「お、おう……」と圧倒され気味だ。


(マジで誰か止めるべさ!!!!)


 しかし、誰も止めることができない。

 なぜなら、舞台上ではアイノの叫びこそが、今まさにコタンの運命を左右しようとしていたからだった――。


 長老役の猪俣が、一歩前に進み出る。

 だが、彼の表情はやや引き気味だった。


「ふじ……じゃなかった、アイノ、大丈夫か? 我を失ってないか?」


 完全に素の台詞が混ざってしまっていた。

 観客には気づかれていないかもしれないが、舞台上の仲間たちはわかる。

 猪俣の戸惑いが、そのままアイノの激情を際立たせていた。


 アイノは肩を震わせ、なおも言葉を紡ぐ。


「長老……私は、ただ、カムチャが……!」


 言葉をのみ、唇を噛む。

 カムチャはうつむきながら、静かに口を開いた。


「……確かに、俺はユキノエと会っていた」


 ざわめくコタンの民たち。

 アイノの告発は、ついにカムチャ自身の口によって認められた。


 長老たちは互いに顔を見合わせ、重く頷く。


「カムチャ、お前にこれ以上の自由は許されぬ。

 今日より、お前はコタンの外へ出ることを禁ずる」


 その宣告が下った瞬間、カムチャの肩がわずかに震えた。

 ユキノエのもとへ行くことは、もうできない。


 やがて、夜。

 カムチャは、静かな月の光を浴びながら、一人で空を見上げていた。

 ユキノエのもとへ行くことを許されず、ただ、冷たい風に身をさらしている。


「ユキノエ……すまない……」


 彼の手が、かつてユキノエに贈った布飾りを握りしめる。

 胸の奥から込み上げる涙が、静かに月光に滲んでいた。


 ――その頃。


 アイノは、一人、白樺のもとへと歩いていた。

 そこに立っていたのは、カムチャを待ち続けるユキノエ。


 ユキノエは、白樺の幹にもたれながら、月を見上げていた。


 アイノの足音に気づいた彼女が、期待するように顔を上げる。


「カムチャ?」


 小さな、けれど確信に満ちた声。

 だが、その問いにアイノは首を横に振った。


 そして、震える声で、ユキノエに告げる。


「カムチャは……もう、ここへは来ない……」


 ユキノエの瞳が、大きく揺れる。

 彼女の唇から、言葉が消えた。


 アイノの胸に去来するのは、言いようのない痛みだった。

 ユキノエを傷つけることになるとわかっていても、

 カムチャが自分の方を振り向かないことが、耐え難くて。


 それでも、アイノはユキノエに背を向けることなく、

 ただ静かに、その場に立ち尽くしていた。


 夜風が、二人の間を吹き抜ける。

 白樺の葉が、カサリと寂しげに揺れた――。

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