左手の小指とリンゴの髪飾り
放課後、櫻に連れられた結城は校内を案内されていた。酉城健司が一緒に回り、櫻の大雑把な説明をフォローしている。
「……で、ここが天文部!」
「ウチの数少ない文科系の部活だな。あとうちの学校、部活が強制だからどっか選ばなきゃ駄目だぜ?」
櫻の説明は相変わらず大雑把で、「ここは体育館!」「あそこが生徒会室!」と指さすだけで終わり。酉城のフォローがなければ何もわからなかっただろうと、結城は内心ありがたく思った。運動系の部活はサッカー、野球、ソフトボール、男女バドミントン、男女陸上、乗馬、卓球とそれなりにあったが、文科系は天文部と情報部の二つだけ。情報部の「最新」PCがPC98だった時点で結城は見切りをつけた。それなら人の少ない、部自体が幽霊船みたいな所でいいだろうと、天文部は選択肢から外さなかった。
「ねえゆーき、天文部ってどう? しずるちゃんいるし、絶対楽しいよ!」
櫻が結城の腕を引っ張りながらニコニコ言う。距離感が近すぎて、結城は「ちょっと離れろ」と肩を引くが、櫻は「え~、いいじゃん!」と笑ってさらにくっついてくる。
「しずるちゃ~ん! いる~?」
櫻が天文部の扉を勢いよく開けながら室内に声をかける。中から「いるよ」と静かな返事が聞こえた。
果たして室内は、テーブルと星図だけという簡素な世界だった。その中に白い髪の少女――水鏡静流が一人、椅子に座って結城たちを迎え入れた。眼鏡の奥の目が、静かにこちらを見つめる。
「あ……」
結城を見た静流は、嬉しいような、心配のような、少しだけ複雑な表情を浮かべた。
「結城、お前藤原だけじゃなくて水鏡とも関係者かよ」
酉城が驚いたような声を上げたが、櫻がすぐ割り込む。
「そうだよ! ゆーき、ボクとしずるちゃんの大事な友達なんだから! ね、ゆーき!」
櫻が結城の背中をバンバン叩きながら笑う。結城は「痛いって」と顔をしかめるが、櫻は止まる気配がない。
「……」
「……」
お互いを見つめ合う静流と結城。その様子を見て、櫻が首をかしげる。
「あ、あれ? どしたの? 二人とも、急に黙って。ねえ、ゆーき、しずるちゃんに何か言ってよ!」
櫻が結城の肩を揺すりながらせかす。沈黙を破ったのは、静流だった。
「……ねぇ、この星……覚えてる?」
彼女がカバンから取り出したのは、古ぼけたノート。そこに子供の筆跡で描かれた、土星のような輪を持つ星。ページの端には、ぎこちない字で「やくそく」と書かれている。
「しずるちゃんの星だ! ゆーき、覚えてるよね! 昔、海で見たやつ!」
櫻がノートを覗き込んで、結城の顔を指さしながら騒ぐ。結城の頭に、10年前の記憶が鮮やかに蘇った。
海辺で、白いワンピースに鍔広帽をかぶった少女が、星の描かれた本を抱えて座っていた。
「これ、わたしのゆめ……」
「ほしを、さがすの……わたしの……」
「すごいじゃん! なんてほし!?」
「あのね……?」
「……しずる、ぼし……」
結城もはっきりと覚えていたわけじゃない。でも、なぜかその「星」の名前をはっきりと憶えていた。
「……しずるぼし……」
結城が呟くと、静流の目がぱっと輝いた。
「……ゆうきっ!」
確信を持ったかのように、静流が結城に勢いよく抱き着いた。体に当たる柔らかな感触、特に胸の……と結城が状況を認識する間もなく、
「あ~! しずるちゃんずるいべさそれ! ボクも!」
櫻が逆サイドから結城に飛びついた。小柄な体がぎゅっとしがみつき、桜色の髪が揺れる。「ゆーきはボクの旦那様でもあるんだから、独り占めしないでよね!」と静流に笑いかけながら、さらに強く抱き着く。
「……お前ら、なにやってんだ?」
結城が呆然と呟くと、櫻が「ゆーき、嬉しいでしょ! 10年ぶりのハグだよ!」と顔を擦り寄せてくる。酉城が肩を叩いてきた。
「それを一番聞きたいのは俺だと思わないか?」
天文部の簡素な部屋に、櫻の笑い声と酉城の突っ込みが響き渡る。でも、結城の左手小指が、10年前の指切りを確かに覚えていた。
天文部の小さな部屋で、騒ぎが一段落した後だった。静流が結城から離れ、櫻をなんとかひっぺがした結城は、酉城に覚えている限りのあらましを話していた。
「……と、いう訳で子供の頃の夏休みにこっち遊びに来た時にな」
「なんとまぁ、そんなんよく覚えてたな」
酉城は「少女漫画かよ……」と半ば呆れ気味に聞きながら、腕を組んで頷く。結城もその言葉に頷きつつ、ぼんやりと思い出してきていた。
10年前の夏。リンゴのような赤いスカートをはいた薄桜色の髪の女の子が、楽しそうに結城の手を引っ張って歩く。「ゆーき、こっちだよ! 海まで競争!」と笑いながら砂浜を駆け、結城が「待てよ!」と追いかける。その横で、星のノートを抱えた少女の白い髪が日の光に輝く。「急がないでね」と静かに言う彼女を、櫻が「しずるちゃんも走ろうよ!」と引っ張っていた。この人の住む場所とは到底思えない田舎で、そんな時間が確かにあった。
東京に帰る日、二人が泣きそうになっていた。櫻が「ゆーき、行かないでよ!」と袖を掴み、静流が「また会おうね」と目を潤ませて指を差し出す。「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんの~ます」と三人で歌い、指切りをした。
「しかし10年なぁ、藤原も水鏡も、結城のこと好きすぎんべや」
酉城が茶化すように言うと、櫻が即座に飛びついた。
「そーだよ! もちろん、とりもね!」
「……うん」
静流が小さく微笑みながら頷く。それを聞いて、酉城は一瞬複雑そうな表情を浮かべ、「ありがとな!」と櫻の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「やめろ~! 髪が乱れる~!」
櫻がじたばた抵抗し、酉城が笑いをこらえる中、結城は「うるさいな」と呆れる。でもその隙に、静流が改めて結城に向き合った。
「……今度は、いつまでいるの? 時期が変だけど……ずっと、かな?」
静流の静かな声に、少しだけ期待が混じる。結城は肩をすくめて答えた。
「両親がばーちゃん所の畑継ぐって言ってさ、こっちで暮らすんだと」
「え!? ゆーきのとこ、就農するの!?」
櫻が話に食い込んできた。酉城に撫でまわされてぼさぼさになった髪もそのままに、目を丸くして結城の腕を掴む。「マジで!? ずっとここにいるの!? やったー! ゆーき、ずっと一緒だよ!」と跳ねながら絡みつき、結城が「離れろって」と振りほどこうとするが、櫻は「やだー!」とさらに強く抱き着く。
「就農か……リンゴ畑、増えるかな。ここが、君の街になるんだね」
静流がノートを手に呟き、目を細める。櫻が「そうだよ! しずるちゃん、リンゴ畑守れるよ! ゆーきのおかげだね!」と笑うと、静流は首を振って続けた。
「あの時、君が帰った後、私と櫻はずっと空を見てた。リンゴの木の下で、星を探してたんだよ。君がまた来てくれるって信じてた。今、こうやってここにいてくれるなら……リンゴも星も、守れる気がする」
静流の声は静かだが、確信に満ちていた。結城は「俺のおかげじゃないだろ、親のせいだ」と返すが、櫻が「いいよいいよ! とにかくゆーきがいる!」と手をぶんぶん振る。
「お前ら騒ぎすぎだろ」
結城がため息をつくと、酉城が肩を叩いてきた。
「まぁ、そういうな。宇宙と海と果樹の街で、お前もこれから仲間だぜ」
天文部の窓から見える果樹園の丘に、夕陽が赤く染まっていた。