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夢じゃねぇんでやんの

 翌朝、結城は最悪の気分で目を覚ました。畳の軋む音、薄い布団の感触、二重サッシの窓から漏れる冷気――何もかもが彼に合わず、苛立ちを募らせていた。祖母の家に引っ越してきたばかりのこの環境が、ただの悪夢であればどれほど良かったかと、彼は布団を蹴り上げて階下に降りた。無駄に広い建物の中、床すら張られていない土間がむき出しで残り、埃っぽい空気が鼻につく。父親が「いや~、土間も懐かしいな」と呑気に笑い、思い出に浸っている姿に、結城は眉をひそめた。一秒でも早く東京に戻りたいとしか思えなかった。

 学校へは自転車で向かうことになった。母親が用意した弁当を手に、「超帰りてぇ」とぼやくと、彼女は「何言ってんの? ここだって悪い場所じゃないでしょ?」と眉をしかめた。結城が「人間の住む場所じゃねぇよ」と返すと、母親の表情がさらに硬くなり、二人の会話は平行線をたどった。彼にとっては、目の前の現実が否定できない事実だった。

 結城はシティサイクルに跨り、家を出た。舗装がろくに直されていない田舎道は、ガタガタと凄まじい振動を自転車に与え、タイヤが軋む音が耳障りだった。都会で慣れた繊細な自転車が、この過酷な環境に耐えられるはずがないと、彼は舌打ちした。果樹園の丘を横目に、風が冷たく頬を叩く中、学校までの道のりは果てしなく長く感じられた。

 学校に着くと、校庭では生徒たちが朝の準備に追われていた。結城が自転車を駐輪場に停めると、薄桜色の髪を揺らす櫻が「おはよ~、ゆーき!」と駆け寄ってきた。


「昨日は楽しかったね! 今日からずっと一緒だよ!」


と腕を絡めてくる彼女に、結城は「離れろって」と肩を引いたが、櫻は「え~、いいじゃん!」と笑いながらさらにくっついてきた。その騒がしさは、朝の苛立ちを一瞬忘れさせるほどだった。

教室の窓際では、静流がいつものようにノートを開いていた。彼女が結城を見つけると、静かに目を細めた。


「おはよう……自転車、大丈夫だった?」


と尋ねる声に、結城は「持つわけねぇだろ」と吐き捨てた。静流は小さく頷き、「この道、慣れるまでは大変だよね。でも、君がここにいるってだけで……少し嬉しい」と呟いた。その言葉に、結城は一瞬言葉に詰まったが、「夢じゃねぇ現実だからな」とそっけなく返した。

そこへ、酉城が「おい、結城! 朝から不機嫌すぎんだろ!」と肩を叩いてきた。


「田舎暮らしも悪くねぇぜ、リンゴ食えるしな!」


と笑う彼に、結城は「リンゴなんかどうでもいい」と言い返した。「ゴリラかお前は」という言葉はさすがに飲み込んだが、酉城の明るさはどこか憎めなかった。自称「180cm、77kg」と豪語する彼は、そんなことを言わなくてもゴリラ的な印象を十分に与えていた。

 櫻が「観光農園とかならリンゴだけじゃなくて、たっくさん果物育ててるけどね、ぶどうとか、イチゴとか、桃、梨、プラム……」と指を折って数え始めると、静流が「仁木や共和と一緒で果樹農家多いからね」と付け足した。結城は「へ~」とだけ返し、まるで興味がない様子だった。櫻が「ゆーきも果物好きでしょ? リンゴ畑で遊ぼうよ!」とさらに絡んできたが、彼は「別に」と肩をすくめた。それでも、櫻の笑顔と静流の静かな視線が、結城をこの果樹の街に少しずつ馴染ませ始めていた。


 農業系の授業は、結城にとって苦痛以外の何物でもなかった。余市星海高等学校では、農業に関する授業が時間割の多くのコマを埋め尽くしており、彼には逃げ場がなかった。特に1年生で学ぶ基礎知識を一切持たない結城にとって、授業内容は本気でちんぷんかんぷんだった。肥料の三要素――窒素、リン酸、カリ――や、種に土をかぶせて良いものとダメなものがあるという話は、テレビで耳にしたことがあったからなんとなく理解できなくもない。しかし、それらを含めて全体的には、まるで宇宙人の言語を聞いているような気分だった。特に実技系の授業は、東京の進学校から転校してきた彼にとって最大の敵だった。

 その日、結城はクワを手に、畑の畝きりの実習に取り組んでいた。土を掘り起こし、畝を作る作業は、彼の手には重く、汗が額を伝った。しかし、彼の頭の中は「そもそもウネってなんだよ!」とか「トラクターとかそういうのはどーした!」という思考でいっぱいだった。毎日のニュースで見るドローン化したトラックやスマート農業の話題は、まるで嘘だったのかと疑いたくなるほど、この学校の畑は原始的だった。そんな愚痴を、隣で同じくクワを握る酉城にこぼした。


「なぁ、酉城、スマート農業って何だよ? ドローンとかトラクターとか、ここじゃ見ねぇぞ」


と結城が舌打ち混じりに言うと、酉城は豪快に笑い声を上げた。「お前、東京じゃ畑が全部ハイテクだとでも思ってたのか? ここじゃ人力が基本だぜ。ゴリラの俺でも持つんだから、お前も慣れろよ!」と肩を叩いてきた。年齢の割に節くれだった彼の力強い手が、結城の肩に響いた。


 実際、トラクターには畑を起こした後に畝を作るためのアタッチメントもある。農家ではそれを使ってトラクターで畝を切るのが普通だろうと、結城はぼんやり考えていた。しかし、この学校の畑は狭く、トラクターが入れるような場所ばかりではない。しかも、トラクターでは微調整や精密な作業が難しく、結局人間の力がものを言う場面が多かった。農業、いや一次産業全体において、その範囲は結城が想像する以上に広かったのだ。

 そこへ、櫻が薄桜色の髪を揺らして近づいてきた。


「ゆーき、クワ持つの下手すぎ! こうやってさ!」


と彼の手を掴み、無理やり土を掘る動作をさせた。櫻の身体が密着した時、ふわりとどこかいい匂いが漂ってきた。花のような、果物のような柔らかな香りに、土と肥料の臭いにまみれた自分が気恥ずかしくなり、結城はさりげなく櫻から離れた。「離れろって!」と抵抗すると、櫻は「え~、いいじゃん! リンゴ畑守るなら畝くらい作れるようになってよ!」と笑いながらさらに絡んできた。「トラクター使えばいいじゃんって思ってるでしょ? でもさ、小さい畑じゃ人間がやった方が早いんだから!」と付け加え、彼をからかった。

 不意に、酉城が目のハイライトを消して呟いた。「それに、畝きる位で言ってたらさ……地獄だぞ、芋ほりとか」。結城が「は?」と思う間もなく、櫻や静流、さらには周りのクラスメイトや先生までもが似たような表情で頷いていた。その異様な雰囲気に、結城は思わず声を上げた。


「いや、それこそトラクターでがーっと収穫するんだろ?」


 静流が静かに首を振った。「……違うよ。おおよそはコンバインや何かで収穫できるけど、どうしても取りこぼしは出るの。そういうのって、別の機械でやっても零れ落ちるし、コンバインみたいな大きな機械は使えるタイミングも決まってるから」。櫻が腕を組んで頷き、「あーいうのって、何件かで共同購入だからねー」と付け加えた。結城は「へ~」とだけ返したが、内心では「芋ほり地獄って何だよ」と混乱が深まるばかりだった。

 静流はそう言った後、ノートに何かを書き込んでいた。彼女が顔を上げ、「畝は排水と根の成長を助ける。トラクターも便利だけど、果樹農家だと手作業が大事な場面も多い」と静かに補足した。結城は「へ~」とそっけなく返したが、静流は小さく微笑み


「昔の農家もこうやって畑を作ってた。君が苦労してるのも、歴史の一部かもね」


と呟いた。彼女のノートには、「発生場所: 学校農地」「時間: 2025年3月13日」「内容: 畝きり実習」「結論: 結城は不慣れだが努力中」「評価: 人力の重要性を学ぶ機会」と記録されていた。


「努力じゃねぇよ、苦痛だよ」


と結城がぼやくと、酉城が「トラクター入れる畑もあるけどな、芋ほりは別だぜ。都会育ちでも慣れるしかねぇよ」と笑った。櫻が「ゆーき、芋ほりも楽しいよ! リンゴもイチゴも芋も!」と絡み続け、静流がノートを閉じる中、結城はクワを握り直した。櫻の香りと土の臭いが混じる中、この果樹の街での苦労が、彼を少しずつ現実へと引き込んでいた。

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