ラグランジュポイントとシュレディンガーの猫
★ 微妙な三人
それから数日が経ち、リンゴの摘果作業が続く余市で、酉城は変な空気を肌で感じていた。櫻と静流は見た目いつも通り、笑顔でハサミを動かし、結城をからかう。だが、何かが違う。結城は明確に何か悩んでいるようで、時折視線が宙を飛び、ぼんやりとした表情を見せる。
三人がまるで三重惑星のようだと、酉城はふと思う。天体力学でいうラグランジュポイント――三つの天体が互いに引力を及ぼし合い、安定した均衡を保つ場所。櫻の太陽のような明るさ、静流の星のような穏やかさ、結城の重力で揺れる中心。それが今、微妙に揺らいでいる気がした。
ある日、道の駅で休憩中、酉城が結城に声をかける。
「なぁ、結城、何か悩み事か?」
汗を拭いながら、豪快に笑う酉城だが、目は真剣だ。悩みがあるなら相談してくれ、と伝えたかった。
結城は申し訳なさそうに首を振る。
「暫く考えさせてくれ」
小さく呟き、それ以上は何も言わず、リンゴの木の方へ歩いていく。
ほんの少しの不協和音。それが、酉城には不安に感じられた。いつも賑やかな仲間たちが、何かを隠しているような空気。結城の視線が宙を飛ぶたび、櫻と静流の笑顔に微かな影が見える気がした。
次に、酉城が声をかけたのは櫻だ。リンゴ畑で彼女が小さな実を摘む姿を見ながら、数日で変わりつつあることに気づいていた。以前より少しだけ何かを求めるようになった。以前より、自分をはっきりと見ているような様子もある。それは好ましい変化だと思っていたが、どこか無理をしているようにも見える。
「なぁ、櫻、少しいいか?」
酉城が木の陰で声をかける。
櫻が振り返り、笑顔で返す。
「どしたのさ? とり」
普段と変わらないように思える返事。でも、違う。
「なぁ、お前らに何があった? なんか雰囲気が違う気がするんだが」
酉城がストレートに尋ねる。
櫻が一瞬目を逸らし、すぐに朗らかに笑う。
「そかな? でもまぁ……ボクは、うじうじ考えるのやめたんだ、これだけは言えるよ」
彼女の声は明るいが、ほんの少し無理をしているように見えた。小さなりんごを手に持つ指が、微かに震えている。
酉城が「そっか」と頷き、それ以上は追及しない。櫻の決意が何かは分からないが、彼女の太陽のような光が揺らいでいないことを願った。
最後に、酉城は静流に声をかける。道の駅のベンチでノートに何かを書き込む彼女もまた、数日で変わってきていた。穏やかな笑顔はそのままなのに、どこか強い意志が感じられる。
「なぁ、静流、お前らどうしたんだ?」
酉城が隣に座り、汗だくの顔で尋ねる。
静流がノートを閉じ、穏やかに微笑む。
「……そうね、結城については、私も判らないけれど……私とさくらちゃんは、決めたから」
そう言って続ける。
「何についてかは、聞かないで? まだ答えられるだけの状況にないんだ」
酉城が「へい、了解」と豪快に笑う。静流の言葉に、星のような落ち着きと何か燃えるような決意を感じた。彼女が何を決めたのかは分からないが、櫻と同じく前に進もうとしているのは確かだった。
三重惑星のラグランジュポイント
酉城が三人を見るとき、彼らの関係はまるでラグランジュポイントのようだ。櫻が太陽として明るく輝き、静流が星として静かに支え、結城がその間で揺れる重心。だが、今、その均衡が微かに崩れ始めている。櫻と静流が互いに「負けない」と決意し、結城が答えを見つけられないまま悩む。三者の引力が強まりすぎて、安定点がずれてしまったかのようだ。
酉城がリンゴ畑を見上げる。夏の日差しが木々を照らし、さらさらと葉擦れの音が響く。
「まぁ、俺には分からんことだらけだが……お前らが笑ってりゃ、それでいいぜ」
小さく呟き、彼は仲間たちの不協和音がいつか調和に戻ることを願った。
だが、三重惑星の均衡がどうなるのかは、まだ誰にも分からない。櫻の太陽、静流の星、結城の迷いが、次の摘果の日々でどう動き出すのか――夏の余市が、その答えを待っていた。
★ 観測されたシュレディンガーの猫
シュレディンガーの猫――量子力学の思考実験だ。箱の中の猫が生きているか死んでいるか、観測するまではその両方の状態が重なり合っている。櫻と静流の結城に対する想いは、まさにそれだったのだろう。
互いに明確な意識と観測をしていなければ、いずれ消え去る運命にあったとしても、三重惑星のラグランジュポイントは存在していた。櫻の太陽のような明るさ、静流の星のような穏やかさ、結城の揺れる重心が、不安定ながらも均衡を保っていた。けれど、櫻も静流も、そして結城も、それを貫けるほどタフな人間ではなかった。自分の気持ちに蓋をして生きていける人間なんて、そもそも多くはない。
だから、櫻と静流はその想いを「観測」した。電話越しに「ゆーきが好き」と告げ合い、不安定なラグランジュポイントではなく、軌道が確立された関係性にすることを決めた。箱を開け、猫の状態を確定させたのだ。生きているか死んでいるか、二人の想いは結城の選択にかかっている。
結城も、そうするべきだと分かっている。櫻と静流が互いに「まけない」と決意した夜、彼は窓辺で星空を見上げながらその重さを感じていた。でも、傷つけたくないという気持ちが邪魔をする。
櫻を選べば静流が傷つき、静流を選べば櫻が傷つく。それが分かっているから、選べない。櫻の「ゆーき、余市好きになってよね!」と笑う顔を思い浮かべれば、静流の「なんぼか嬉しいよ」と穏やかに微笑む顔が浮かぶ。静流のノートに書かれた夢を思い出すと、櫻が小さなりんごを握り潰す姿が重なる。どちらかの笑顔を選べば、もう一人の悲しむ顔が胸を刺す。
その裏でもう一つ、結城は気づいている。どちらかを傷つけることは、自分も同じだけ傷つけるということだ。傷が浅く、涙を浮かべながら笑顔で別れられるなんて、昔の少女漫画だけに許された演出だ。現実はどこまでも冷徹で冷酷で、容赦ない。選ばれなかった方は笑顔を失い、選んだ自分もその重さに耐えきれなくなるだろう。
「悲劇のヒロイン症候群」
そんな言葉が脳裏に浮かび、結城は苦笑する。
(俺、そんなヌルい奴だったか?)
自問するが、答えは出ない。
東京で育った結城にとって、誰かに思いを伝えることは大博打だった。隣の人のことすら知らないのがデフォルトの都会では、自分のありとあらゆる全てを投げ打つ覚悟が必要だ。失敗すれば笑いもの程度のぬるい状況では済まない。人間は基本的に他人に無頓着で鈍感で興味がないくせに、そういう時だけは興味津々で、鋭敏で、機敏だ。結城が櫻と静流に感じる想いを言葉にすれば、彼女たちの人生だけでなく、自分の人生も変わってしまう。
リンゴ畑を眺める。月光に照らされた木々がさらさらと揺れ、星空が夏の夜を満たす。櫻と静流が「観測」した想いは、シュレディンガーの猫の箱を開けたように、もはや重ね合わせの状態ではない。結城が観測し、選択しなければ、二人の想いは宙に浮いたままだ。でも、その選択が冷たい現実を突きつけることを、彼は知っている。
(俺、どうしたいんだ? 二人とも笑っててほしいのに、選ばなきゃいけないなんて……)
結城が目を閉じる。櫻の太陽と静流の星が、彼の心の中で交錯する。観測された猫の運命は、彼の手にかかっていた。
次回より更新時間は午前10時10分となります




