桜色と白色の思い出
昼過ぎ、農業技術なる謎の授業が始まった。全員が学校の外にある農地に出て、耕作の方法や農業用の機器の操作を勉強するらしい。教室で教師がそう説明した瞬間、結城はすでに嫌な予感しかしなかった。そして予感は的中する。生徒全員が白いつなぎに着替えた姿は、結城にとって天井知らずにシュールだった。東京じゃありえない光景だ。まるで何か怪しい集団みたいじゃないか、と内心毒づく。
授業が始まるなり、倉庫から一袋20キロある謎の袋を外に出す作業を命じられた。結城は早速苦労していた。他の男子生徒――特に酉城健司みたいなガタイの良い奴らがひょいひょいと3~4袋を軽々運んでいく中、結城は頑張っても2袋が限界だ。肩にずっしりくる重さと、慣れない動きで息が切れる。
「トーキョーモン、お前ひ弱だな!」
酉城のからかう声が響き、周りからゲラゲラと笑い声が上がった。ニヤニヤしながら4袋を肩に担ぐ姿がムカつく。
「頭脳担当だから体力しか使わない方は任せた」
そう言い返してから再度、袋を取りに戻った。歩きながら、不意に感じた臭気に顔をしかめる。鼻につく嫌な匂いの出元を探ると、どうやら自分の手のようだ。今まで運んでいた袋に書かれた文字を改めてよく見る。
鶏糞
運んでいたのは肥料、要するに鶏の糞だった。その瞬間、結城の心には「帰りたい」以外の言葉が浮かばなくなった。
「こんなの人力で運んでりゃ、そりゃ女の子には見向きもされないし、女性はこういう地域に来たくないってなるわな」
思わず出た声に、何人かがびくっと反応した。
「まーそうだ、日野、お前鋭いな」
鶏糞と土を混ぜていた担当教師が笑いながら言った。「最近じゃ就農人口も減っててな、このままじゃリンゴ畑もなくなるよ」と少し声を低くして警告する。
結城にとってはどうでもいい話だ。リンゴ畑がなくなろうが、東京に帰れれば関係ない。でも、近くで袋を運んでいたあの小柄な女子――薄い桜色の髪が揺れる彼女――は、少し顔を曇らせていた。
「先生、手ぇ動かして!」
近くの生徒が笑いながら止めると、教師は「はいはい」とスコップを握り直した。
その時、桜色の髪の彼女がこっちを見て、目を丸くした。
「ねえ、結城でしょ? 新入りじゃん! 手、臭いよ?」
彼女が笑いながら近づいてきた。薄い桜色の髪が陽に透けて、どこか懐かしい感じがする。結城は一瞬言葉に詰まり、「うるさい」とだけ返す。でも、彼女の笑顔が頭のどこかを疼かせた。
「なぁ、お前……えっと……」
名前が出てこないまま口を開くと、彼女が楽しそうに割り込んだ。
「あ~、藤原ね、藤原櫻!」
そう言って、Vサインを掲げる。色づいた記憶の中で、ワンピース水着の少女が同じVサインをして
「さくら、ね!」と笑う姿が重なった。あの時の声が、目の前の声と重なる。
「10年くらい前の……海岸? 海水浴場で……?」
結城がぼんやり言うと、櫻は首をかしげて答えた。
「モイレの? てかいきなり……あれ?」
二人で数秒、目を見合わせる。
「……さくら?」
結城が試しに呟くと、櫻の目がぱっと輝いた。
「ゆーき? え? あの、ゆーき?」
「うわ~! ほんとゆーきだ! ね! いつ来たの いつまで居るの!? 前は夏休みくらいだったよね!?」
突然、櫻が授業そっちのけで結城の手を取ってぶんぶん振り回した。その勢いに結城は驚くことしかできず、ただ目を白黒させる。鶏糞臭い手が彼女に触れてることに罪悪感が湧くが、櫻は気にしない様子だ。
「あの~、さくら? 知り合いだったの?」
近くの女子生徒が興味津々に声をかけると、櫻は笑顔で答えた。
「子供の頃遊びに来ててね! その時に遊んでた!」
「よく覚えてるねぇ」
クラスの女子が何人かで櫻を取り囲む中、結城はようやく解放された手首をさすった。正直、鶏糞臭い手で女子に握られてるのは罪悪感がすごい。
「そりゃ、大切な旦那様の思い出だからね~」
櫻がその一言を言った瞬間、間違いなく世界が凍った。農地にいた全員の動きが止まり、結城の背中に冷や汗が流れる。
「待て、何言ってるんだ藤原?」
突然集まった視線に耐えつつ、結城が思いっきり素で尋ねた。
「え?……あ、秘密だった!」
櫻が慌てて口を押さえるが、もう遅い。
「待てそれ! 誰だ! 誰がンな質の悪い冗談仕込んだ!!?」
クラスの女子から湧き上がる黄色い歓声を背後に、結城は櫻の肩を掴んでがっくがくに揺らした。櫻は「冗談だよ~!」と笑うが、周囲の視線と騒ぎは収まる気配がない。結城は呆然と立ち尽くす。鶏糞の臭いも忘れて、薄い桜色の思い出がとんでもない形で現実になった瞬間だった。
農業実習が終わり、教室に戻った後も、藤原櫻の声が耳にこびりついていた。
「ねー、ゆーき、旦那様って呼んでいい?」
「いいわけないだろ、てかほんと誰なんだその質の悪い冗談教え込んだの」
からかい半分の櫻の声に、本気で機嫌の悪そうな結城の声が被さる。確かに結城が夏休みに祖母の家に来た時、櫻と、もう一人の少女が一緒に遊んでいたのを思い出した。あの時はただの子供同士の遊びだった。海辺でビニールボールを追いかけたり、砂浜に寝転がったり。そんな質の悪い冗談のネタにするような大層なもんじゃないはずだ。なのに櫻の「旦那様」発言で教室が騒然とし、女子たちの黄色い歓声がまだ頭の中で響いてる。
「過疎地だしなぁ、年頃の男女が親族に居るってなったら、そういう話も出てくるんだよ」
隣で酉城健司が笑いながら言った。「8割くらい冗談で終わるけどな」と付け加えて、暑苦しい笑い声を響かせる。結城はそれを追い払うように手を振った。
ふと目の端に白が映った。教室の窓際、きらりと光るような白い髪をロングにした眼鏡の女子――あの農業実習でも目立っていた子だ。彼女は手にしたノートに何かを書き込むと、じぃっとこっちを見つめてきた。冷たく整った顔に、どこか探るような視線が刺さる。でも、結城がその目を見返した瞬間、彼女はさっと視線をそらしてノートに目を落とした。
「あ、しずるちゃん、ゆーき見てる」
櫻が突然声を上げた。再度、ノートから目を上げた白い少女を見て、彼女は目を輝かせる。
「しずるちゃ~ん!」
結城が何か言う暇もあればこそ、櫻は止める間もなくその白い少女――しずるという名前らしい――の所へと駆け寄った。
「ほらほら! ゆーきだよゆーき! しずるちゃんも覚えてるでしょ!?」
子供っぽい体をさらに子供っぽく動かしながらはしゃぐ櫻の声が結城に届く。それと一緒に、白い少女が一つ頷くのが見えた。今度こそ明確に、彼女は結城を見ていた。眼鏡の奥の目が、静かに、でも確かにこっちを捉えている。
その瞬間、再び、10年前の記憶が薄く色づいた。
海辺にはあまり似つかわしくない、沢山の星が描かれた本を大事そうに抱えて座っていた少女。白いワンピースに、白く塗られた鍔広帽をかぶり、輝くような白い髪が印象的だった。彼女は本を抱えたまま、結城に手を伸ばす。
「……やくそく、ね? ゆびきり」
子供の頃の結城の指と、少女の指が絡まる。
「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんの~ます」
「指切った」と彼女は小さく笑って……。
「お、お前……」
現実に戻った結城の声が漏れた。あの少女だ。目の前の白い髪の少女――しずる――が、10年前の約束を交わしたもう一人だった。櫻と一緒にいた、あの星の本を抱えた子。
チャイムが鳴り響いた。授業が終わり、教室が一気に動き出す。しずるはノートを閉じて立ち上がり、さっと教室を出て行った。櫻が「しずるちゃん待って~!」と追いかける声が遠ざかる。
「結城、どうした? ボーっとしてんなよ」
酉城が肩を叩いてくる。結城は机に座ったまま、言葉を飲み込んだ。櫻だけじゃない。あの約束には、もう一人いた。そして、その白い少女――水鏡静流――が、間違いなくその一人だった。