第77話 手続きと再会
あまりにふいだったので、僕は思わず声をあげそうになった。
薄く開いた扉の隙間から音もなく部屋に入ってきたのは、バイスであった。
髪とヒゲがかなり伸びているし服装も違うし、何よりあの頃より10年という年月が経っているのだから、それ相応に年を経た男の顔と格好になっている。
しかし、鋭い瞳と茜色のフレームのメガネが変わっていなかった。
バイスは感情のこもっていない目で僕を見た後、静かに目を限界まで見開いた。
「なっ……!」
誰が来ると聞かされていたのかわからないが、まさか僕がそこにいるとは想定すらしていなかったであろう。
無理もない。
真っ当な精神ならそう考えるのも当然だ。
まさか、僕が記憶を失っていて轢き殺そうとした自分に会いに来るだなんて思わないだろう。
まったく自分の常識のなさに嫌気がさすが、一種の病気が原因のようなものなのだと思い直し、気丈にバイスに手などを振ってみた。
むろん、こんな僕の空気を読まない行動は事態を悪化させた。
「あ……ああああああああ!」
大声を上げるバイスを後から続いて部屋に入ろうとした刑務官が慌てて制止した。
しかし、パニックにおちいったバイスがそれに抵抗し手を挙げて振り払おうとする。
このままでは騒ぎになるだろう。
騒ぎになったらろくでもない結末にたどり着くに決まっている。
何とかしなくてはいけない。
少なくともここにやってきた目的を果たさなくては、死んでも死にきれない。
僕は持参した封筒から、紙の束を取り出した。
「バイス! これを」
透明の仕切りに僕はそのうちの何枚かを押し当てた。
バイスがそれを見て動きを止める。
目を細めてそこに何があるのかを見定めようとする。
錯乱しかけていてもそれに目を止めざるをえないのは、バイスの性質なのかもしれなかった。
僕が鉛筆で描きこんだ「ネーム」を見るバイスに僕は続けて声をかけた。
「実は、バイス! 僕は、ここ10年くらいの記憶がないんだ。それで、この前までちょっと夢を見ていてね、その夢の中で僕とバイスがこれを描いたんだ。僕の夢の中だから、僕が描いたんだけど、でも僕はバイスと二人で描いたと思っているんだ。ほら、ほら!」
僕はまとまらない内容を口にしながら次から次とネームを見せる。
「僕とバイスで作った「新作漫画」のネームだ。訳あって完成までには至らなかったんだけど、なんとかここまで思い出しながら描いたんだ」
それは、僕の内的世界で二人で描き上げた消力社に送るはずだった、あの作品であった。
もちろん、原稿や下描きなんかを脳内から現実には持って帰れないので僕が思い出しながら描き起こしたものだ。
細部についてまでその再現性には自信がある。
彼女からもよく再現できているとお墨付きをいただいた逸品である。
「知らん、知らねえよ、そんなものは!」
バイスは目は離さないままそう叫んで拒絶した。
「そりゃそうだよ! でも、僕はバイスとこいつを描きたいんだ!」
と言いながら僕は次々とネームを見せる。
手が二本しかないのがもどかしい。
たちまち、僕の足元が見せ終えたネームだらけになった。
「わけのわからないことをぬかすな! 俺がどんな気持ちでいたのか、お前にわかるのか?」
「《《そんなこと、僕が知ったこっちゃないだろう? バイス》》」
僕はバイスの眼前を紙で覆う。
まるで、彼の目の前に白い壁を作るかのように。
「バイスがどんな気持ちでいたのか? 知らないですよ、そんなこと。僕はパートナーではあるけれどもバイス本人じゃないんですから。だから、いつからそんなたわごとを言い始めたのかも僕はまったく興味がない!」
僕は顔を上げてバイスを見た。
バイスは僕と、そして眼前に広がる紙片に目線を走らせていた。
血走ったその目から感じられたのは、怒りと焦り、そして戸惑いだった。
「なあ、バイス! 僕は、16歳の2作目を描いていた頃の僕なんだ。《《10年前からやってきたんだよ。》》だから、そこから何があったかは知らない。でもね、もういいよ、過去のことは! どうでもいい! これからの話なんだけれどもさ、これを僕と一緒に描いてくれないか。パートナーとして、お願いするよ、バイス! もう一人、優秀なパートナーも見つけてあるんだ。すぐにでも紹介する。ほら。どうかな? とてもよくできたネームなんだ。きっと、すばらしい作品になる。お願いだよ、バイス。ここまで来てほっぽりだせないんだ! ほら、ほら! 頼むよ、バイス!」
そう言いながら僕はバイスにネームを見せ続ける。
また一枚、また一枚とページを繰り、仕切り越しに。
バイスは限界まで目を見開き激しい感情に体を震わせながらも身じろぎせずにいる。
そして、ついに僕はネームの最後の1枚を仕切りに押し付けた。
「――頼むよ、バイス。君とこれを描きたいんだ」
僕と、バイスと、それから刑務官の荒い息遣いだけが面談室に響いていた。
もう一度、僕はバイスの目を見た。
一瞬、目が合った。
もちろん、それはバイスの目なのだけれども、白目は血走りあの頃の輝きはほとんどが失われていた。
どれだけの絶望があのバイスの瞳をここまでにしてしまったのだろうか、と僕は思った。
そして、僕は自分のしたことがさらにバイスを追い込むだけでしかない、と思い知らされた。
10年は長い。
でも、きっと乗り越えることはできる、と思っていた。
でも、乗り越えるのは、記憶を失った僕だけではなくバイスもなのかもしれない。
僕はそれ以上何も言えなかった。
バイスもふっと目線をはずした。
体から力が抜けたのを感じた刑務官がようやくバイスの体から手を離した。
バイスはそれからおもむろに踵を返した。
それは彼が退室しようとしていることを意味していた。
何か言わなくてはそのままバイスは去ってしまう。
おそらく、二度と面談に応じることはないだろう。
でも、何を言えばいいのかさっぱり思いつかない。
自分が、アドリブのきかない機転の機の字もない人間であることに、僕はほとんど初めて憎悪した。
「バイス!」
それでも、僕はもう一度パートナーの名前を呼んだ。
彼女のために、僕のために、そして、ひょっとしたら、バイスのために。
これだけはやり遂げなくてはいけないのだ。
すると、バイスは扉をくぐる直前に足を止めた。
そして、下を向いたまま、
「《《そのネームなら》》」
と言いながら自らのこめかみに人差し指を突き立てた。
「《《もうここに入っている》》」
それから、バイスは扉の向こう側へ消えた。ガチャリ、と冷たい音を放って扉が閉まった。
僕は力が抜けてしまって、手にしていたたった一枚のラストページすら持っていることができず、カサリと床に落としてしまった。




