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第71話 飛び込みと帰還

 浮遊感ふゆうかんがあったのはほんの一瞬だった。

 全身をびくっとふるわせてから、僕はそのふるえによって生じた激痛にしばし全力で耐えなければならなかった。

 そして、気を失いかねないその激痛で僕は今の自分の状況を思い知る。

 とんでもない力を使って、まぶたを開く。

 かすむ目で自分の体を見下ろしてみると医療器具の見本市みほんいちのような状態だ。

 言い値でかまわないから一個残らず売り払ってしまいたい。

 そんな気分になった。

 僕からは見えない位置にある扉ががちゃりと開く音がした。

 室外の喧騒けんそうがダイレクトに伝わってくる。

 まるで死人が生き返ったかのような大騒ぎだ。

 ――まあ、実際にそれに近しいことが起きたのだから無理もあるまい。

 それよりも痛みと痺れとで思うようにならない体をどうにか起こそうと奮闘ふんとうしていると、

「おはよう。どう、お目覚めの気分は?」

と声をかけられた。

 問いかけに答えないのははなはだ失礼な所作しょさであり、「敵を作らない、敵に回さない、結局戦わない」という全方位的微笑(ほほえみ)外交主義者としては避けたい行為であったが、残念ながらとてもではないが声なんて出せる病状ではないのだった。

 相手もそれを知っているようで、

「ああ、無理無理。そんな体で急に起きあがれるわけないよ。もうちょっとおとなしくしてなさい。大丈夫、突然の出来事なんで少しばかりてんやわんやしてるけど、先生がすぐに来てくれると思うから」

と僕の肩に手を置く。

「でも、まさか、本当に帰ってきてくれるとは、正直ちょっぴりおどろいたよ」

 あそこまでけておいて、それはあんまりではないかと思った。

 皮肉の一つでも返してくれようかと試みたが、胸が染みるように痛み、あえぐようなうめき声がでるばかりでまともな発声などできそうもなかった。

「今日は6月21日で、時間は午前10時30分になるところだよ。僕が目覚めたのは9時前だから、およそ1時間半のタイムラグがあったことになる。ああ、もちろん、『10年後』の――ね。ところで、僕のことは憶えてくれているのかな?」

 僕はその問いにゆっくり首をたてに振る。

 当然である。

 彼女の柔らかい表情は、目覚める前と寸分の違いもなかったのだから。

「そうかい。それはよかった。ひょっとしたら、目覚めたショックで君の心の中であったことをすべて忘れてしまう、なんて可能性も指摘されていたのもあって、少しばかり不安だったの。まあ、何よりだ」

 僕はもう一度首を縦に振った。

 実に、何よりだ、と思った。

「あそこでバイスと描いた漫画のことも、しっかり憶えているかい?」

 一度目を閉じる。

 苦心惨憺くしんさんたん、激突してまで作り上げた2作目はこの現実世界には存在しない僕とバイスのオリジナル作品だ。

 主にバイスが心血を注いで作り上げた逸品いっぴんだ。

 一コマたりとも、一筆たりとも、忘れるわけがない。

 僕は目を開いて、三度首を縦に振った。

 それを見て、彼女もうなずき返してきた。

 そして、僕の額にそっと手を置いた。

 それは、小さく、温かく、柔らかかった。

 触れた部分から痛みが消えていくような錯覚さっかくにおちいってしまうほど、心地ここちよかった。

 ほどなく、ガシャガシャとやかましい音を立てながら、おそらく医薬品がごまんと乗ったワゴンと数名の医師と看護師の皆様が入室してきた。

 それを合図に彼女は僕の額から手をはなし、もう一度うなずくと僕の視界から消えた。

 代わりに、白衣を身に着けた男女が僕の視界をめてしまう。

 一刻でも早くここを出てしまいたかったが、現実世界はやみくもにわずらわしく、思いのままにならないのが特徴だ。

 物理的科学的医学的見地から僕の現実はようやくわずかに奇跡が起こり始めたレベルなのだ。

 唯々諾々《いいだくだく》と彼らの加療を受け入れる以外に、僕には取れる手はなかった。

 そういった状況を実に深く理解して納得し、僕はすべての努力をいさぎよく、かつ手際てぎわよく放棄ほうきした。

 もちろん、これらは僕の得意とする分野の行動であることは言うまでもない。

 それにしても、バイスに早く会いたいものだ。

 万難ばんなん忘却ぼうきゃくして、僕はそう思った。

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