第70話 一人ぼっちと飛び込み
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一人ぼっちになる。
そのことに対してこれほど恐怖を感じたのはいつ以来だろう?
正直、いくら孤独を強いられたところで本当の意味で一人ぼっちになることは――まず、ないだろう。
一歩外に出れば、犬に食わせるほどに人に出会うことはできるのだから。
人はいてもコミュニケーションがなければ孤独と同じだ、という反論もあるだろうけれども、しかしそれもしょせんは真の孤独とはかけ離れたほのあたたかいものなのだ、とも思える。
真の孤独とは――今の僕の状況に他ならない。
内なる世界に完全に閉じ込められた状況こそが真に孤独だ。
ああつらい、と嘆く半面、ああ気楽だとも思える僕はやっぱり少しばかりおかしいのだろう。
だが、物語的にはこの状況を破って僕は現実世界へと帰還せねばならない。
コミュニケーションとエモーションが交錯するカオスな世界へと。
苦痛と痛痒と汗水と汚泥にまみれた世界へと。
仮想の校舎から飛び降りて向かわねばならないのだ。
ご免こうむりたいのは山々だが、約束を違えて平気を気取れるほどに豪胆な人間でもない。
僕は、自らを顧みるまでもなくどうしようもない、自分で自分のことも決断できないレベルのダメ人間なのだ。
ため息をつき、それから先ほど彼女がそうしたように金網を登る。
彼女のように手慣れた感じには登ることはできない。
すぐに額に汗が吹き出し、金網が指の関節に食い込みシリシリと痛む。
彼女は今までもこうして毎度金網を越えていたのだろうか?
そのような描写はこれまで一文字たりともなかったような気もするし、僕の主観から見てもそういった状況が類推されるような描写もなかったと思われる。
だが――まあ、それはどうでもいいことと言えばどうでもいい。
終わってしまったことをぐじぐじといつまでも言い募るような狭量さは僕の得意分野ではあるが、この恐るべき孤独の中でその恐ろしさを再確認するような作業に従事するなんてまっぴらだ。
だから、僕はすでに脱出していなくなってしまった彼女とバイスのことを考えることにした。
先ほどまで、漫画を描くために集結していた我々3人はひょんなことからはなればなれになってしまった。
何もかもが虚構だと判明してしまったためだ。
しかし、本当にそうだろうか?
はたして、すべてが虚構だったのか?
そうではないのなら、どこまでどこからが虚構で、どこからが真実なのか?
そして、僕らは本当にはなればなれになってしまったのだろうか?
もしそうだというのなら、もう会うことはできないのか?
僕は金網をまたがって乗り越え、ビクビクと高所におびえながらそんなことを考えていた。
そして、考えのまとまらぬまま、ようやく飛び降りることが可能な体勢に至った。
なに、少しばかりの手間ひまを惜しまなければ造作もないことだ。
僕のような鈍重な人間にも可能なくらいに単純な作業なのだから。
5回ほど、すべての肺胞がつぶれるほどにため息をついてから、僕は目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、他の何物でもなくバイスの姿であった。
「下らん」
バイスは僕の妄想の中で腕組みをしながらそう毒づいた。
「時間の無駄だよ。タケオ。熟慮の末に最良の結論が出ているのに、それを実行しないメリットが存在するのかを逆に聞きたいくらいだ」
「簡単に言うけどね、バイス」
僕は自分の中に向かって反論を試みる。
「僕は非常に臆病で心が狭くて頑固な唐変木でしかも天邪鬼なんだ。簡単なことを複雑にして複雑なことから逃避しているような人間なんだ。しかも、今現在、頭とお腹が痛くて猛烈に眠たい。コンディションまで最悪なんだ。できっこないよ。こんなこと不可能だ。ありえないし、成しえない」
「タケオ、それはすべて、徹頭徹尾、お前の思い違いだ」
「えっ」
「えっ、じゃない。お前は自分が無知であることを自覚していないだけだ」
「無知――」
おっしゃるとおりで、僕にははっきりと確かな事実など何ひとつわからなかった。
「じゃ、バイスは、僕がダメ人間なのはただ単に僕が自分自身のこともよくわかっていないからだというのかい?」
「そうさ。恥じるべきは貧相な心根ではなく、自らの認識の至らなさだ。私のほうがタケオのことを一番よくわかっているとさえ言えるほどだ」
「バイスが?」
「君をパートナーに選んで、実際に共同作業をこなした僕だけが知っている。君はそんな人間じゃあないよ」
「にわかには信じられませんね」
「君が信じていなくとも、事実と言うものは存在する。残念だったな。そんなことより、さっさと終わらせないか? いや、始めないか、といったほうがいいのかな?」
バイスはそう言いながらちらりと足下を見やった。
黒い雲が渦を巻いている。
眺めていると目を回しそうになる。
これからここに飛び込まなくてはならず、しかも飛び込むのは自分なのだと思うと頭がズキズキと痛む。
「でもやらなくちゃあな」
「でもやらなくてはですね」
鏡面に向かって僕はつぶやいていた。
バイスに会いに行こう。
彼女に会いに行こう。
もう一度、一緒に漫画を描こう。
今度はきっと3人で。
「さっさとしないか。もうすでに時間は使い切っているぞ。タケオ。君はあいかわらず時間管理にルーズなところがある。パートナーとして忠告しておく」
バイスのいつものお小言を耳にする。
まぶたの裏にいつもの光景がよみがえる。
簡単だ。
いつだってどこでだって思い出せる。
それから僕はゆっくりと足を踏み出して校舎から離れた。
「えいっ★」
もちろん、かけ声ととびっきりかわいいポーズを忘れることはなかった。




