第63話 悲しい事実といつもの光景
「それでも、戻るのか?」
冷たい声がコンクリートの壁に反響する。
彼女の声か?
僕の心の声か?
わからなかったが、そんなことはどちらでもよかった。
それでも戻るのか?
戻っていいことなんてあるのだろうか?
あるだろう。
僕は自分の努力をスキップして名声だけを手に入れることが可能だ。
きっと現実世界の僕は何でも持っているのだ。
――バイス以外は。
かりそめの世界はその逆で、バイスしかいない。
そして、そのバイスも実態は僕の作り上げた虚構であるのだ。
しかし、虚構であることがどれだけ優しいことなのかは今の僕が一番身に染みてわかっている。
少なくとも、僕の世界にいるバイスは僕を妬んだり憎んだりすることはないのだから。
「けれどもね」
僕は先ほどの誰かの問いに答えてあげた。
「僕が会いたいと思うバイスは、現実のバイスだけなんですよ」
瞬間、僕の脳裏にいつもの光景がよみがえる。
背景の細々《こまごま》とした線を引き続ける作業に目をやられて顔を上げると、バイスは僕の向かいの席で一心に手を動かし続けている。
魂を刻み込むように、もしくはヘビーローテーションの一曲を鼻歌で歌うように、動き続けるペン先が紙面を削りそこに物語を生み出している。
僕の手がずっと先まで伸びると、バイスにつながっている。
それはきっと、これまでもそうだし、今もそうだ。
一度つながったらそう簡単に途切れてしまうものではないのだ。
そんな幻覚を眺めながら、僕はどうしたってバイスに会いたくなった。
もとより僕は、我慢ということができないような子供じみた人間なのだ。
まゆを下げて苦笑する僕に彼女も毒気を抜かれたような顔になった。
「そうか」
うんうんと彼女はうなずきながら言った。
「そうだよな。僕も会いたくなったよ。――本物のバイスに」
「いいやつなんですよ。熱く語り出すと長いし、人の言うことなんかぜんっぜん聞かないし、自分にだけでなく他人にも容赦なく厳しいし、取っ付きの悪さと付き合いにくさでは定評のあるような男だけど、とにかく、とっても、いいやつなんですよ」
「バイスがいいやつだなんてもちろん知ってるよ」
彼女は声に力と熱を込めてそう言ってくれた。
「君たちの仕事っぷりを見ていた僕に、それはいささか説明過剰じゃないか。言ったろう? 僕は君たちを見て、一緒に漫画が描きたいって思ったんだ。バイスも君もいいやつだなんて、僕にはもうとっくにわかってるんだよ」
僕はともかく、バイスをいいやつだと言ってくれて、お礼を述べたい気分になる。
笑顔になる彼女を見て、僕も自然笑顔になる。
そうだ、うれしいことがあると人は笑顔になるんだ、と思った。
ちりん、と音がして、部屋の天井についていた蛍光灯が明るさを取り戻した。




