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第53話 時間稼ぎと涙

「なななななな」

 あわてた口調をつくろうこともできず、彼女は不明瞭な発声を行う。

「ななななな何をおしゃっているのかわかりませんのことなのだよ」

 わかりやすすぎる動揺をしつつ彼女は作業を継続しようとする。

 するも、結局半端(はんぱ)ないうろたえぶりの結果、それはうまくいかなかった。

 手にしていたスケッチブックなどの物品のうちほとんどが床へと落ちていく。

「たたた確かに戻りが遅いなー。道草を食うようなタイプではないからどこかで先生にでも声をかけられてるのかもなー」

 確かにその可能性もゼロではない。

「あっ! もしかしたらひょっとして、唐突におなかを下して個室でうなってるのかもしれないし!」

 そうそう、だからあれほど拾い食いはやめろと忠告したのだ。

「それか、きっと! なにか! ――なにかがあったんだ。すぐに戻ってくるさ。簡単に約束をたがえる男じゃない。準備をしておかないと」

 緩慢かんまんな動作でうつろな目で震える声で彼女は、

「バイスに怒られちゃうよ」

 とつぶやきながら立ち上がって、そして――動きを止めた。

 僕はとうに作業を止めていたので、ついに美術準備室には動くものはいなくなってしまった。

 場に沈黙が訪れた。

 そして、ついに沈黙に耐え切れず動き出したのは。

 彼女のほほをつたう一筋の涙だった。

「――もうすぐ、バイスは帰ってくるよ。当たり前じゃないか! 消えてなくなったりなんかするものか! これから作品を仕上げるってときにそんなことがあるものか! あいつは、そんな男じゃない!!」

 手に残っていたスケッチブックをぎゅっと握りしめながら彼女は言った。

 確かに、そのとおりだ。

 すべては僕の妄想である可能性のほうが断然に高い。

 しかし、ならばどうして、彼女は泣いているのだろう。

 どうして、僕は彼女を泣かせてしまったのだろう。

 遠くで春雷しゅんらいが鳴っていた。

「すぐだ、早く、準備を、しないと!」

「もういいでしょう」

 耐え切れなくなったのは――おそらく僕のほうだった。

「もう、終わりにしましょう」

「そんなことできるわけがない!」

 彼女はまだ、あきらめてはいなかった。

「バイスを消すなんてできるわけがない!」

「……なら、待ちますか。時間ならいくらでもあるでしょう?」

 彼女は僕をにらんだが、特に言葉を継がなかった。

 そうだろう。

 議論など大して意味はない。

 結果はあの扉が開くか、開かないか、ただそれだけのことなのだ。

 僕の妄想か。

 それとも僕のバイスへの干渉が功を奏したか。

 僕らはただ待つだけでいいのだ。

 次に彼女が口を開くまでに、長い時が流れた。

「――お願いだ」

 彼女は肩を落として、僕とこの世界に向かって、とても小さく叫んだ。

「バイスを、返してくれないか――」

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