*第三話の裏側 料理人の独り言。
料理人のジェフには目に入れても痛くないほど可愛がっている妹がいる。
兄妹の年齢差は十一歳。両親は妹が生まれた直後に病死したため、ジェフは兄であると同時に妹にとっての親でもあった。
ジェフは唯一の家族である妹を大事に育てていたが、一つだけ大きな問題を抱えていた。——それは、借金だ。
ジェフの妹は病弱であったため、もともと薬を頻繁に使用していた。
薬は一般市民には高額なものだ。ジェフは城下町の高級料理店の有名シェフとして働いていたが、その給金でも家計は常に綱渡り状態だった。
しかしそれでも贅沢をしなければ暮らせるため、満足していたのだが――三年前、両親の命を奪った病に妹が罹ったことで事態は急変する。
必死に奔走した結果、なんとか薬は融通してもらうことはできた。お陰で、両親の時とは違い妹の病は回復した。
だが、その薬を入手する代償としてジェフは城に仕える料理人へと転身することになった。
ジェフの料理人としての腕前は高い。
ジェフが薬を入手できたのも、彼を支配下に置きたいと願った城主が融通したからだったのだ。
しかし仕えた城主の性格は最悪だった。
この国の貴族の悪いところを切り取って、すべて張り付けたような人間だった。
ジェフの給金は下働きの者と同額に設定された。さらに薬代として背負った借金も天引きされるため、住まいはさらに狭いところへ引っ越すことを余儀なくされ、生活も更に苦しくなった。
だからだろう。
ある日突然城主が追い払われ、魔王が統治をおこなうという状況に陥っても、周囲よりは大して驚きはしなかった。
もとよりジェフには前城主は悪魔にしか見えなかったのだ。
悪魔が魔王に変わったところで、一体何があるのだろうか。
むしろ逆に前城主が逃げたお陰でジェフに対する借金の取り立てはなくなったので、若干感謝をしないわけでもない。
ただ、相手はあくまで魔王である。
城主を殺さなかったことから無益な殺生は好まないようにも思えるが、様子を探る必要がある。
この街には妹も住んでいるのだ。
仮に街の外へ逃げたところで、魔王の手がいつこの世界のどこに伸びてくるのかわかったものではない。
ならば、まずは近くで様子を探る。
そうジェフは決めたのだが――正直魔王のことは数日経ってもわからないままだった。
何が目的で人間界にきたのか、まったくもってわからない。ジェフはただただ以前と同じく、毎日食事を用意するだけだった。強いて言うなら、魔王が前城主とは違い食事に文句を言わない分、突然の作り直しがなくなり楽にはなったのだが。
しかしそうして過ごしているうちに、ジェフは魔王から呼びつけられた。
ちょうど朝食時であったので、『ああ、文句か』くらいのつもりでジェフは魔王のもとに向かった。
文句を言われることには既に慣れてしまった。前城主は『こんなことが分かる私は天才だ』と常に思いたいようだった。だからどんなことにも文句を言いたがった。
ただし中途半端に舌が肥えており、手を抜けばバレて余計に面倒なことになるのでいつも丁寧な料理を作らざるを得なかったのだが……ジェフにはすでに自分の料理の味がどんなものなのかよくわからなくなっていた。
『おいしい、満足』というものを目指すのではなく、単に仕事を終わらせるために作るだけだ。
そんなことを考えながらジェフは魔王の元に向かったのだが……魔王から投げられた言葉は想像と正反対のものだった。
「味に不満はない。むしろ素晴らしいものだと思っている」
「……ありがとうございます」
まさか褒められるとは思ってもいなかった。昔ならいざ知らず、この城で褒められたことなど一度もなかった。
魔王なら、きっと贅の限りを尽くした食事に慣れているだろうと思っていたが、その舌が肥えているだろう相手から賞賛されるとなればどう反応をするべきかわからなくもなる。
さらに魔王はジェフの想定外の言葉を続けた。
「だが、私が思うに……これでは贅を尽くしすぎているのではないか」
「と、申しますと」
「まずは食事の量だ。これをすべて食えば太ると思わんか?」
「……すべて平らげられていらっしゃったので、むしろ足りないのではないかと懸念しておりましたが」
だから足りないと言われれば、追加ですぐに用意する手はずも整えていた。
しかし、魔王はきっぱりと言い放った。
「手間暇かけられた料理を残すなど許されん」
その言葉にジェフは驚かされた。
前城主に限らず、この国の貴族には料理に限らず自分が消費しきれないほどのモノを用意させることをステータスとして誇る者が多い。そしてその『モノ』を尊重する心などない。
しかし魔王は、その料理に対する価値をしっかりと認めていた。
魔王は前領主が大半の食事を残していた事実に対しては『……あの畜生、切り捨てればよかったか』とまで言っていた。これが、先の言葉が本当だと裏付けていた。
魔王の提案で、魔王の食事は人間の成人男性と同程度の量になった。
それで足りるのであれば、今までどれほど無茶をして食べていたのかとさらに驚かざるを得なかった。
さらには、普段の食事をもっと簡略化して構わないと言う。
それは、魔王が料理に対し繊細さを評価し、調理場の人数を考慮した上での気遣いだった。素朴な料理でも問題ないと言う魔王の提案は、魔王にとって利益となることはないはずだ。ならば、純粋に使用人のことを想っての言葉に違いない。
(人間より魔王のほうが人を思いやるとはな)
皮肉なものだとジェフは思った。
昔聞いた、世の中最も人間が恐ろしいというのはあながち間違いではないのかもしれない。御伽噺では必ず悪とされる魔王のほうが、よほど使用人に対する気遣いがある。
ジェフもメイドたちが魔王のことを賞賛していたときは、侵略者相手に何をバカなことを言っているのかと思ったものだ。
しかしバカだったのは自分かとジェフは思った。
相手のことを知ろうともせず判断していたのだから。
「ああ、それから我の食事は減らせと言ったが、お前たち使用人の食事は増やせ。費用は特に制限しない。必要だと思う量を用意せよ」
「私に……お任せくださるとのことですか」
「構わん。好きにせよ」
先入観で魔王に否定的だったジェフだが、逆に魔王は不用意に人を信用しすぎではないかと思った。
ただし、魔王には多少の裏切りに遭ったとしても取り戻せるだけの力がある。だから、それも強者ゆえの余裕なのかもしれない。
「最後に、調理場の人員が不足しているようであれば追加で雇用して構わない。その権限をお前に与える」
「よろしいのですか」
「存分に励め」
さらに魔王は人を好きに雇って構わないと言った。
前城主は人件費を削ることに躍起になり、ジェフのような訳ありでなければこの職場は続かないという状態であっただけに、驚きだ。
魔王は、ジェフに向かって一度も笑いかけてはいない。しかし、その言葉は暖かさに満ちている気がした。
さらにジェフとジェフの妹に気遣い、勤務時間や家賃補助を申し出る魔王に、もはやジェフが言えることは一つだけだ。
「ありがたき幸せ」
時折皮肉な言葉も聞こえるが、それも使用人たちを思ってのこと。
そう思えば、この新たなる主、クロウに誠心誠意仕えたいとジェフは強く思った。




