*第一話の裏側 ひとりのメイドが見た神さまの話
ある日突然、勤め先である城が『魔王』を名乗る青年に乗っ取られるということを、メイドのルーシーはその日まで一度も想像したことがなかった。
もちろんそれはルーシーだけではなく、それまで仕えていた者の誰も想像していなかったことだろう。
『魔王』は、一見しただけでは人間の青年のように見えた。
しかし、それはあくまで見かけだけだけだ。
『魔王』はそれまでルーシーが見たことも聞いたこともない術を使う者だった。
城の中庭に降り立った『魔王』は、まず彼に近づいた警備の者たちの動きを封じた。
中途半端な体勢で固まる者たちを見て、ルーシーたちは震え上がった。
耳に届いた『あれは魂を抜き取られてしまったのか……?』という呟きも本当だと思った。
『魔王』はその後周囲を一瞥したものの、ルーシーたちには話しかけることなく、城の内部へと入っていった。
呆然とするルーシーたちは、誰も彼を止められなかった。
その後、謁見の間の方角からとんでもない音がした。
窓が破れ、物品が破壊され、城主の怒号が聞こえる。
しかしそれも長い時間ではなく、しばらくすると静寂が戻ってきた。
(……もしかして、城主様は殺されてしまったの?)
規格外の魔法を使う相手に城主が対抗できるわけがない。
早くこの場から逃げなくてはいけないとルーシーは思うものの、足がすくんで動かない。
それはルーシーだけではなく、周囲の者たちも同じようなものだった。
(これから、どうなるんだろう)
薄情だと思うものの、ルーシーにとってすでに城主の安否の答えはどちらでもよかった。そもそも城主は雇い主だが、個人的にはあまり近づきたくないと思うタイプだった。仕事に関してもすぐに怒鳴り散らしたり急激な変更ばかり告げるので好きではなかったが、とにかく女癖が悪いほうがルーシーにとっては問題だった。だからこそ、ルーシーも野暮ったい化粧をし、ギリギリアウトにならない程度の装いを心掛けていたくらいだ。
(こんなことになるなら無一文でも逃げ出せば良かった)
しかしそうは思っても、今までルーシーが出て行かなかったことには理由があった。
それは、単純にそのための資金がなかったのだ。
メイドの募集時には書いていなかった必要な初期費用……お仕着せや掃除用具品、それから寝具などの費用でそれまでに持っていた金がほとんどなくなってしまい、挙句見習い期間中は給金がでなかったことで、手持ちの金が既にゼロだ。
実家に帰るにしても、孤児であるルーシーには実家がない。養護院で育ったため、たとえ帰っても荷物にしかならないのはわかっている。
街で働くにしても都合よく住み込みの仕事があるとは限らないし、新たな住まいを借りるにしても費用がいる。手っ取り早いのが再びメイドになることだが、紹介状のないメイドを雇ってもらえる場所はない。あったとしても、それはそれで怪しすぎた。
せめて、いままで普通に仕事ができていればこのような場においても後悔よりも、驚きや恐怖が先だったことだろう。
しかしルーシーの心にあるのは『なぜ、この職場を選んでしまったのだろう』ということばかりだった。さらに『どうして私の人生って、こんなことばかりなんだろう』とも思ってしまう。
やがて、そうして後悔していたルーシーや、同じく動けずにいた同僚たちのもとに執事のスティーブンスがやってきた。
「先程城主様が……いえ、訂正しましょう。元城主様が、本日をもって一般市民になると宣言なさいました。そして、かの方に城主の座をお譲りになる、と……」
「それは、あの恐ろしい者が城主になるということですか?」
誰かの乾いた声に、スティーブンスは深く頷いた。
「私たちの新しいご主人様である魔王クロウ様が、謁見室でお待ちです。皆、向かうように」
その言葉を聞いた瞬間、ほとんどの者が項垂れていた。
ただ、魔王の命を無視するわけにはいかない。
そして諦めて皆が動き始めたと同時に、『魔王』が侵入してきた際に動きを封じられていた兵士たちが急に元通り動き始めた。
「あれ?」
「あの侵入者は……?」
固まっていた者たちの意識は止められたときに止まったままだったらしく、戸惑っている。周囲はそれを見てさらに恐れおののいた雰囲気である。それは、動くことさえも『魔王』のさじ加減だからなのだろう。
しかし、このことを見たルーシーは先程よりは怖くないと思ってしまった。
(兵士さん、殺されていなかったんだ。城主様も……平民になるということは、殺されていないんだよね)
どうやら魔王は簡単に人を殺める者ではないらしい。
ただ、完全に不安が取り除けたわけではない。
なにせ相手は規格外の魔法を使う者で、乱暴でないわけではない。
その証拠にいろんな物が壊れる音を庭で聞いていた。おそらく、相当派手なことになっている。
そして実際に謁見の間で見た現場は、思っていた以上に惨状だった。
(これで城主様が死ななかったということは、わざと攻撃を外されたのよね)
しかし、それは言い換えれば『いつでも殺せる』と言うことだ。
集まった使用人や兵士たちを一瞥した『魔王』は口を開いた。
「私はクロウ。招集への対応、ご苦労」
その言葉にルーシーを含め、身構えていた使用人たちは戸惑った。
まさか呼ばれて自己紹介とねぎらいの言葉をかけられるなど、誰も考えていなかった。
しかしクロウがそのようなことを気にかけることはなく、彼は言葉を続けた。
「わけあって、この城を前城主から諸々の権利とともに譲り受けた。その中には貴様等の雇用の権利も含まれているようだがーー私としてはどちらでも構わん」
そもそも、ルーシーを含め勤めていた者たちのほとんどは、辞められないからここにいた。
ただ、皆が返答に困るのも道理である。
まさか、雇用されるかどうかの選択肢を委ねられるとは思っていなかった。
力あるものの言葉には絶対服従。
それが基本であったのに、魔王ともあろう者から『どうしたいか』と尋ねられることを想像していなければ、どう希望を伝えるものなのかも考えてはいなかった。
(仰る通り希望を伝えても、『魔王』の逆鱗に触れる可能性もある。失敗はできない問いだわ)
誰も答えないのは、皆、同じようなことを考えていたのだろう。
そもそも『魔王』がわざわざ異世界からやってきたのだ。
それはきっと、人間になんらかの不条理を与えるためであるはずだ。
しかし、それを聞くことができる者も、ここにはいない
だが、『魔王』も長くは待たなかった。
「待遇を悪くするつもりはない。まぁ、後々でも構わぬ。出て行きたい者は申し出よ。私からは以上だ。以降、通常通り働け」
『魔王』は謁見の間から出て行いった。
足音が聞こえなくなるまで皆硬直していたが、やがて息を吐き出した。
「ひとまず様子を見るしかない」
誰かが漏らした言葉に、全員が同意した。
***
しかし、翌日からの仕事は不思議なほどうまく回った。
まずは、予定通りに行動できる。
計画通りに行動しようとしても、これまでは大概唐突な思いつきによる要求で、大幅に仕事が増えることはよくあった。急に花見がしたい、大勢の来客を迎える、城内の模様替えを行うなどといったことから、曲芸を求められたり、柄の悪い商人をもてなせと命じられることもない。
城主が変わったことで執事のスティーブンスは相当大変そうではあったものの、ほとんどの使用人たちにとっては不気味だと思えるほどに『平穏』だった。
『魔王』は何も言わない。
だが、何を考えているのかわからないからこそ天変地異の前触れだとの噂も蔓延する。
そして五日が過ぎたが、未だ『魔王』は何が目的でこの場へやってきたのかを口にはしていない。ただ、人間が行うような生活を毎日送っているだけだ。
そんな中で、ついにルーシーが『魔王』に接触する機会がやってきた。
それは、『魔王』の世話係の当番だ。
前城主がいたときは上級メイドが一人でこなしていたことではあるが、彼女は緊張のあまり熱が下がらない状況だ。彼女は発熱している今も働いているが、魔王の御前で失敗など許されないし、万が一にも、その病が魔王に移ればどのようなお咎めが使用人たちに降りかかるかわからない。
幸い、『魔王』は上級メイドが一人で世話をしていたことなど知らない。
『これまで通り』とは言われているが、違っていても気づかれないはずだ。
(……これも仕事だとはいえ、緊張するな)
ルーシーの前に、既に四人が魔王のそば付きを経験している。
皆一様にいうのは緊張してほとんど覚えていないものの、『魔王』はよく本を読んでいるようだということだった。スティーブンスに渡された仕事の話もしているが、実に淡々としているようだ、とも聞いた。要求されたのは紅茶を一、二度欲しいといわれた程度だと。
なぜ様子について伝聞形の形かといえば、彼女らはほとんど隣室で待機し、呼ばれた時だけ向かったので、ほとんど『魔王』を見ていなかったらしいのだ。
(……隣室待機がメインなら、失礼を働いてしてしまう可能性も下がるわね)
ルーシーはそう自分に言い聞かせて緊張をほぐしながら、魔王の元へ向かった。
だが、魔王はルーシーのことを見るなり、厳しいこえをルーシーに向けた。
「顔色が悪い。そんなことで我の世話が務まると思っているのか?」
ルーシーにはそのような自覚はなかった。
即座に謝罪を申し入れるが、魔王の指摘は厳しい。
「貴様はさっさと帰って休め。そんな体たらくでこなす仕事など大した成果にならん」
油断をしていたのかもしれない、そうルーシーは思った。
しかし、ここでクビになるわけにはいかない。
その想いから弁明をしようと声をあげると、『魔王』がルーシーの目元のクマを指摘した。
「次の出勤までにその目元のクマを消していなければ、さらに三日休ませると知れ」
目元のクマは、メイドになってから常にあるものだ。
それを指摘されることなど、思っても見ないことだった。
呆然としながらもやりとりを続けていると、『魔王』は休暇を命じた上で、休暇の間も給金を払うと言っている。さらに、ほかの使用人たちにも順次休めと命じている。
『魔王』は当初、待遇を悪くするつもりはないと言っていた。
それどころか明らかに今までより良くなった待遇を、当たり前のように告げている。
それは、これが『魔王』にとっての標準なのだろう。
そう思えば、『魔王』の当初からの姿勢ーー一貫して相手を尊重することが、『魔王』にとって普通のことであるのだとルーシーは気づいた。たった今告げられた言葉は命令であったが、それは相手を思いやってのことだ。理不尽なことではない。
この『魔王』の根本には思いやりがある。
たとえ城主相手に少々の乱暴があったとしても、自ら平民に下るという決断する猶予は与えたのだろう。
(この方は、使用人にまで気を配ってくださる優しいお方なのだわ……。私たちが魔王様という存在を誤解していただけで、魔王様とは本来神さまなのかもしれない。皆に、導きを与えにきてくださったのかもしれない)
少し口調が荒いため、誤解されることも少なくないだろう。
だが、一度神のように見えてしまえばもはや本物の神かどうかはともかく、ルーシーの心は固まった。
(私はこの方にお仕えするの)
今まで抱いていなかった気持ちが、ルーシーの中で強く芽生えた。
もちろんそのような思いは、魔王には一切届いていなかったし、魔王にもそのようなつもりなど一切なかったのであるのだが。