*第九話 魔王様の湯煙紀行
夜、一人になった執務室でクロウは低く笑った後、呟いた。
「温泉、か。実に素晴らしいな」
予想外だったローズの襲来からこのような行事がねじ込まれるなど、想像していなかった。これはきっと、日頃の行いに対する報いなのだろう。
クロウは商業に関係するため地理はだいたい把握したつもりではいるものの、地図に記載されてない温泉が湧き出る位置までは把握し切れていない。
(もっとも、私物の施設であれば記載の必要性はなかったのかもしれんが……ローズとルーシーには感謝せねばならんな)
ローズが暴走していなければ、ルーシーが温泉の情報を伝えることはなかった。
ルーシーも隠しているわけではなかっただろうが、偶然が重ならなければクロウの前でその話をすることもなかっただろう。ローズの暴走自体は少々派手であったが、クロウとしては慣れているのであまり思うことはない。
ただ、ひとつだけ知らなかったことがあるとするならーー彼女がクロウの想像以上に熱い忠誠心を抱いていたらしいことであるのだが。
(もっとも、あの言葉の大半は錯乱ゆえだろうが)
一応、現魔王に愛想を尽かしたのは本当なのだろう。
ただしクロウに対する想いは恐らく寝不足によるストレスが原因の勘違いでもあるだろう。
なにせ、ローズは自分のことが大好きだ。
それは嫌みや呆れからではなく、純粋に素晴らしいと思えるほどに自分好きだ。
理想の自分を保つために魔界に単身乗り込む……いや、乗り込もうと考え実現した人間など、千年間でほかに見たこともない。
それほど彼女は自分自身が完璧であることに邁進している。
(養生すれば誤解だったと本人も気付くだろう)
そんなローズが他人に惚れ込むことなどそうそうなく、ましてや去った男を追いかけることはしないはずだ。むしろ完璧な女を置いて行くなど見る目がないと一蹴するはずだ。もっともクロウは声は掛けたので置いていったという表現も少し違うのだが。
いずれにしてもそれをしないのは、おそらくローズが通常の状況ではないからだろう。
(まぁ、持ち上げられて悪い気はせんが)
ローズもそれだけ苦労をしたのだろうと思うと、強い同情心が生まれてくる。
もともと魔界でもその力のみならず、事務系等においては右にでる者がいなかったローズだ。養生しながらでも存分に腕を振るってもらえればクロウも助かる。
ただ、今はローズのことよりも温泉、そして温泉卵のほうが大事だ。
「温泉卵が温泉で作れると我に告げるとは……スティーブンスもいい仕事をしてくれる」
前城主が怠惰であったため、クロウにはまだやるべき仕事が山積みだ。
そのためクロウがただ温泉を優先させて仕事を放り出すなどすれば、周囲から怠惰な王だと見えかねない恐れがあった。
しかしスティーブンスの提案で視察という名目が建てられるのであれば、悪くはない。
(主人の意を汲み、進言する執事というのはなかなかありがたないな)
ならばこの機会を逃さず、身体を癒す文化を最大限楽しもうとクロウは決意した。
だが、だ。
ひとつクロウは大きく誤解していたことがあった。
しかし、まだこのときはまだ問題が潜んでいることに気づいていなかった。
***
数日後。
クロウはスティーブンス、ルーシー、ローズ、リリーを伴い温泉へ向かった。
しかし案内役が足を止めても、まだクロウが想像していた『温泉』は現れない。
目にしているのは小振りな滝から流れる水を受けている、湯気が上る人工溜池だった。
嫌な予感がしたクロウの前で、スティーブンスが恭しく礼を取った。
「お疲れ様でした、クロウ様。到着でございます」
「……スティーブンスよ。ここが前城主が保有していたという『温泉』か?」
「はい。魔王様には物足りないかもしれませんが、我々共にとってはなかなかのものです」
「そうか。ずいぶん開放的な施設だな」
そう口にしたものの、クロウはそれを『施設』と呼んでいいのかどうかも躊躇われた。人工溜池の周囲には僅かに木製の衝立はあるものの、そのほとんどが自然のままだ。
「これは露天風呂という文化でございます。森林浴も存分に楽しめます」
「ほう。露天か」
「はい、露天にございます」
そんなやりとりをしながらクロウは引きつりそうになる表情になるを必死で堪えていた。
(……やはり、スティーブンスはこれを立派なものだと思っている様子だ。つまり人間たちにとってこれは何ら警戒するものではないのだろうが……)
だが、クロウはここで入浴するという行為が不用心極まりないと思われた。
(裸体で相手から観察されかねない状況など、不意打ちしてくれと言わんばかりではないか。いや、人間界に不意打ちでも我に怪我を負わせるような輩がいるとは思わんが……室外でもだと?)
ただ、千年以上続けてきた意識を今更変えろというのも困難だ。
この状況では癒されるどころか、落ち着かない。
安心できるようにしようと思えば認識阻害の術式を張ることもできる。
だが、他の者たちがこの露天風呂を当たり前のもの……恐るべきものに含まれないと考えているのであれば、クロウのことを大袈裟で臆病だと捉えるかもしれない。だから、奇特にみられることだろう。たとえ認識阻害の術式を使用したと人間にわからずとも、ローズには間違いなく把握される。
(用心と恥は異なるが、石橋を叩いて渡るような行為だと思われるのは用心とは言い切れぬ)
魔界の住人にとって侮られることは余計な手間が増えることにほかならない。
だから絶対に避けなければいけないことだった。
そんな習慣が染み付いた状態で認識阻害の術式を今使うことは憚られた。
(かといって、抵抗感を和らげる方法など思いつかぬ)
いったいどう解決していくべきか。
そうクロウが次の手段を考えていると、スティーブンスが深々と頭を下げた。
「……クロウ様。誠に申し訳ございません」
「どうした」
「彼女らはクロウ様のお世話をさせていただきたいと強い希望がありましたので同行をさせましたが……お気になりますでしょうか」
そうしてスティーブンスが目をやった先にはルーシー、ローズ、リリーがいた。
なんのことだと思うクロウに、スティーブンスは言葉を続けた。
「御入浴中はもとよりご準備の最中も決して不敬な行為はさせません。しかしお気になさるようでしたら屋敷へ帰しますので、お申し付けください」
「ああ、そのことか。よい、気にするな」
スティーブンスの申し出にクロウは軽く返事をした。
クロウとしてはそのようなことは気にしていない……という以前に、わざわざ自分の裸など見たいものでもないだろうからと気にしていない。気にするのなら、出発前に来るなと命じていた。
だが、この勘違いは好都合だとクロウは思った。
「風呂に浸からずとも、我は温泉卵の実食ができればそれで気にはせん」
むしろ露天風呂に入らずに済む方法が見つかったと思えば嬉しいくらいだ。
しかしスティーブンスは申し訳なさそうにしていた。
だが、すぐに何かを閃いたようで表情を変えた。
「そうです、クロウ様。お心遣いは大変ありがたいのですが、せっかくですから足湯を体験されてはいかがでしょうか」
「足湯?」
「はい。膝より下を湯につける入浴法方です。血行の改善やリラックス効果は期待できます」
「ほう。それは興味深いな」
その程度であればクロウとしても抵抗感は薄い。
クロウは早速衣服がお湯に浸からないように準備し、足を浸けた。
すると湯から伝わるじんわりとした暖かさが広がってゆく。加えて、湯の感覚が心地よい。
「クロウお兄ちゃん、リリーもお隣いいですか?」
「リリーさん、それは少し……」
リリーの行為を無礼になると思ったのかルーシーがいったん制止したが、クロウは片手を軽く上げ、その発言を止めた。
「かまわん。好きにするといい」
「ありがとう、クロウお兄ちゃん!」
「温泉は広い。お前達も浸かりたいならそうすればよい」
「い、いえ! 恐れ多いです!」
恐縮しきったルーシーに、クロウは無理に勧めることはしなかった。
別に無理に入って欲しい訳ではないし、足を付ければ濡れるので不都合が生じることもあるかもしれない。だから強要もしない。
「ローズはどうする」
クロウの質問にローズは極上の笑みを浮かべた。
「ご配慮に感謝いたします、クロウ様。では、遠慮なく失礼いたします」
ロングブーツを魔法で消し去ったローズはクロウの隣に腰掛けて湯に足をつけた。
「なかなかよかろう?」
「はい。私は全身浸かるほうが好みではありますが、これも落ち着きますわ。なによりクロウ様の隣をお許しいただけることが至極幸せにございます」
その発言を聞いたクロウはローズを少し気の毒に思った。
どうやら彼女はまだ本調子ではないらしい。
「……ローズ、ゆるりと休め。命じた仕事は多少遅れても構わぬ」
「ありがとうございます。存分にお休みもいただいておりますので、お気になさらず。憎きクマもほとんど消えましたでしょう?」
たしかに目元はクロウが魔界にいたときと変わらない様子ではある。
しかし、まだ足りないはずだ。足りているなら魔界にいたときのような調子を取り戻しているはずだ。
この温泉もローズの不調を治す遠因になればよいとクロウは思った。
「ローズ。お前は全身浴も希望しているのだろう。この場は好きに使うが良い」
「ありがとうございます、クロウ様。では遠慮なく利用させていただきます」
「ローズお姉ちゃん、いいなぁ。リリィも一緒に来てもいい?」
「もちろんよ。美容を大事にする子は大歓迎よ」
そうして次回の予定を立てている二人を尻目に、クロウはぼんやりと考える。
「……このように手軽に体験できるものはよいな。街中にでも作ることができれば、さぞかし良いだろうな」
「街中に、でございますか?」
クロウの言葉にスティーブンスが問い返した。
「ああ。公園などでもよい。温泉さえ引けるのであれば、湯の温度の調整・循環は……まぁ、なんとかなるだろう」
だんだん考えるのが面倒になってきたので、クロウも細かいことを考えるのは放棄した。ただ、魔法を使えば恒常的に湯を張ることくらいはできるはずだ。
道路整備のように人間が生活の上で必ず使うようなものであれば、クロウは自ら作るようなことはしない。そんなことをすれば自分が永遠にその担当から外れられなくなるからだ。
しかし足湯は日常生活に必須なものではない。
整備の人員は手配せねばいけないだろうが、もしも不具合が生じたところで困ることもないだろう。
(人間に魔法は使えんが、代替の手段を考えるのは得意なようだからな)
そう考えると、作った後も何とかなる気がしてきた。ついでに技術力も上がるかもしれない。
狙いは単なる街の人間の休息場所を作り働く英気を回復させることだが、もしも発展のきっかけとなれば一石二鳥だ。クロウが楽しめる街が仕上がれば諸手をあげて喜ぶしかない。もっとも、実際にはそこまでの期待は薄いのだが。
「ここで湯が吹き出るのだ。王都内でも出る場所もあるだろう」
「では、私が都合がよさそうな場所を探しご報告させていただきます」
クロウの言葉にローズが立候補した。
確かに地下深いところで、人間がすぐに見つけることは難しいだう。
「まあ、思いつきだ。急がぬ。ちょうど良い場所に湯がでるとは限らんしな。……ところで温泉卵というものはどこで作るのだ」
「この先に、ここより温度の高い温泉がございます。あちらの石積みの泉です。そこに半刻ほど浸しておけば、いい塩味のとろりとした卵が仕上がります」
「ほう。それは楽しみだが……こんなに近くでも温度が違うというのか?」
距離が離れていないのであれば、源泉は同じものだろう。
それにも関わらず温度が違うとなれば、その理由に興味がある。
「では、そこへ案内を頼もう」
「畏まりました」
クロウは湯から上がると、ルーシーからすぐに差し出されたタオルで足を拭い、スティーブンスの案内に続いた。
そして歩幅にすると二十歩程度の、本当に近いところで沸く小さな泉をみた。
湯気は先程クロウが足を浸していた場所よりも強く濃い。
だが、クロウはその湯気よりも泉の中に興味を惹かれた。
「ああ、魔石が湯の温度を上げているのか。ならば熱くもなるな」
「はい? 魔石があるのですか?」
「砂にわずかだが混ざっている。まあ、小石というより砂だがな。火竜の骨が長い時間を掛け魔石化したようだ」
いまでこそただの田舎扱いの人間界も、かつては……古代には多くの竜も住んでいたことがあるとは聞いている。そのころの名残なのだろう。
赤い化石の破片は装飾品にもできるほどの輝きを秘めている。
ただ、スティーブンスたちはまだピンときていない様子である。
(実物を見せた方が早いか)
そう考えながらクロウは周囲を見回した。
ここに魔石の欠片があるのなら、竜の化石の本体があってもあってもおかしくはない。
(あのあたりか)
少し離れたところにある、地層がむき出しになっている場所をクロウは見つめた。
そして、手に力を込める。
「クロウ様……?」
「少し喧しくする。いやなら耳を塞げ」
そういうと、むき出しの地層にクロウは光の弾を放った。
当たった箇所は爆発し、木々が飛び、土埃が舞う。唖然とするスティーブンス、ルーシー、リリィの横でローズは「あらあら」と、特に驚いた風ではなく声をだした。
そして指を軽く回し風を起こすと、その土埃を余所へと流していく。
「クロウ様、いけませんわ。そのようなことをしては温泉も皆も汚れてしまいます」
「だが、それだけの価値はある」
「あら、火竜の化石ですか。ずいぶんよい状態で魔石化していますね」
ローズは少し感心した様子で、今し方クロウが露わにした地表を見た。
「欠片程度でも足湯施設に組み込めば、今後二百年は温度調整に使えるのでは?」
「ああ、そうだな」
「私としてはこれほどのものですから、ぜひとも宝石として扱いたいものですがーー」
そう、ローズが思案していたときだった。
「くくくくく、クロウ様!!」
あせるように声を出したのはルーシーだった。
「どうした」
「とうしたもこうしたも……その化石、本物の竜の化石ですか!? 宝石にも見えるんですが!!」
「偽物の竜の化石など知らん。火竜ならば、このようになっていても不思議はあるまい。長い時間をかけ、魔力が結晶化したのだろう」
クロウも詳しい訳ではないが、そのくらいであれば想定できる。
淡々と返事をすれば、スティーブンスが咳払いをした。
「旦那様、ルーシーが驚くのも無理はありませんので、御容赦ください。世界各地で化石は発掘され展示されていますが……これほど見事なものなど、ほかに聞いたことがありません」
「人間は化石を展示するのか?」
「はい。古の時代に思いを馳せる、未知に触れる、また珍しいという点で多くの者が魅せられております」
それはまたと、クロウは驚いた。
その思想に反対するつもりはいない。
だが、言われなければクロウにとって考えつかなかったことだ。なにせ、クロウにとっての魔石はただの燃料だ。
しかしー……。
「……ならば展示してもかまわんが。街の観光拠点にでもなるだろう」
活用できるのであれば、燃料以外に使っても良いと思っている。
クロウとしてはそれほど資材として以外の魅力は感じていないが、人を呼び寄せる資源となるならそうするべきだ。
なにせ人が集まれば金も集まる。
そうなれば税収も上がり、クロウの生活もより優雅になるはずだ。
そんなことを考えていたクロウにローズが尊敬のまなざしを向けた。
「クロウ様、すごいですわ。私、人間だった頃も……いえ、今も本質的には人間の構造をしていますが、人間がこのようなものを喜ぶという認識をもっていませんでしたわ」
もちろんそんな認識、クロウにもない。
ないからこそ、先程本当に人間はこのようなものを展示するのかと確認をとったのだ。
しかしどうとローズの中ではそれはなかったことににっているらしく、彼女は言葉を続けた。
「労を少なく稼ぐには人間の思考も把握しておく必要があると、私も肝に銘じておきます」
その認識は、もとよりクロウも持っている。
ただし未だクロウには人間がなにを考えているのかさっぱりわからないので、うまく言うことはできない。
だからこそ口にできたのはただ一つ。
「存分に励め」
何に励むのかは知らんが、との言葉は伏せた。いずれにしても励んでもらえばクロウも楽になるので、邁進してもらえるならそれに越したことはない。
そしてローズが理解したことを通じて、人間の思考を理解できたらなお自らの楽園作りが捗るのではないかと期待を抱いた。
「それより……そろそろ温泉卵やらの見学を行いたいが」
「はい、ただいま!」
勢いよくルーシーは卵を用意し、荒い目の麻袋にいれてお湯に浸けた。
「四半刻ほどたてば仕上がります。温泉卵に合う出汁もジェフが張り切って作りましたので、是非ご期待ください」
「うむ。ずいぶんたくさん卵があるが……お前たちの分も忘れず用意しておけ」
ここまで来て温泉卵の争奪戦になっては困る。何せ食べ物の恨みは深いのだ。
そう思って告げたクロウにルーシーは元気のよい返事をした。
「クロウ様。卵の仕上がりまで足湯を再度お楽しみください」
「ああ、そうするとしよう」
「屋敷に戻った後の話となりますが、足湯設計の職人と化石発掘の専門家をすぐに推薦させていただきます」
「仕事が早くて助かる」
足湯も戯れのつもりであったし、化石の件についてはクロウさえ想像していなかった。
だからクロウは『それほど楽しみなのか』『化石への人間の情熱はすごいな』程度にしか思っていなかったのだが、いつものように周囲から『クロウ様太っ腹!!』『クロウ様、心が広い』などと思われていることには気づかなかった。