*第一話 体調管理は最優先。
(人間界を支配すれば楽が出来る……そう信じて人間界の一部を乗っ取ったというのに、これはどういうことなのか)
そんなことを思いながら、クロウ・クロフォードは盛大なため息をついた。
彼は元は魔界の王の一人……いわゆる魔王という存在だった。
そして近い将来、魔神になるのではとさえ噂されていた者である。
そんな元魔王が魔界を離れ、魔界の住人にとっては『大した魅力もない片田舎』である人間界を支配したのには理由がある。
地位への羨望が強い世界で『魔王』は常にその身を狙われている。
忠臣を装う配下が反旗を翻すのも珍しくなく、熟睡などできはしない。
しかし千年近く休みなく働いていれば、たまにはサボりたい、休みたいと思ったこともある。
ついでに辞書でしか見たことがない『昼寝』というものも経験してしてみたい。
しかし暗殺上等な世界のお陰で心休まる暇がない。
だからこそ、クロウは決意した。
『そうだ、別の安全な世界を支配しよう。そして誰かに世話を焼かせて、楽に暮らそう』
そもそも安全に暮らせるように魔王を目指したが、魔王でも安全に暮らせないなら未練はない。
(新たに住む場所はほかの魔王がいないところだな。そして、そこでのんびりするとしょう)
そう考えたときに真っ先に思い浮かんだのが人間界だった。
人間という種族は魔族と違い、挨拶代わりに喧嘩をふっかけることは基本的にはしないと聞いている。無論個体差もあるとはクロウも思っているが、戦闘力を考えるとさほど問題にならないと思われる。
ゆるりと暮らすなら、栄えすぎる必要もない。
のんびりと暮らしさえできれば、きっと素晴らしい日々になる。
そんな希望を抱いたクロウは早速人間界の一角を支配下に置いた。
土地と領民を貰うのだから、この支配者であったらしい人間から口汚く罵られても広い心で見逃すことにした。多少は黙らせるために魔王らしく直撃ギリギリの攻撃を放ったが、問題はないはずだ。
人間界は噂通り魔力の薄い世界ではあるが、文化は聞いていた以上に育っていた。特になにが優れているかと問われると答えることは難しいが、領主の居城は魔界にあったクロウの別邸と比べても外見上はさほど大差がなかった。
(領土はあまり広くはないが、我にとってはちょうどよい)
ただ広さを求めるならば、魔界に留まっておけばよい。だが、クロウはそこに楽しみを見いだせなかったのだ。
無駄に広い所領など、問題がくすぶるだけである。適度が大事だ。
そう、過去の経験からクロウは判断したのだがーー彼は現在、少々自分の判断が甘かったのではないかと頭を抱えていた。
(人間が我の要求水準を初めから完璧に満たすとは思っていなかったが……これは見過ごせないほどに酷いな)
クロウの目の前では、一人のメイドが青白い顔で控えている。
クロウがこのメイドを見るのは今日が初めてなのだが、その状態でこの場所にくるあたり、自分では状況に気づいてはいないらしい。
だから面倒だと思いながらも、クロウは口を開いた。
「おい、そこのお前」
「は、はい!」
「顔色が悪い。そんなことで我の世話が務まると思っているのか?」
「も、申し訳ございませ……」
「貴様はさっさと帰って休め。そんな体たらくでこなす仕事など大した成果にならん」
クロウの言葉にメイドは涙を浮かべた。
「お、お待ち下さい……! 私は……仕事がなくなったら……生きていけません!」
「なに馬鹿なことを言っている? 今の働きの方が問題だ。次の出勤までにその目元のクマを消していなければ、さらに三日休ませると知れ」
魔王であった頃、少なくとも体調不良のまま出仕する者など稀であった。
ほとんどの者はそもそも体調不良になる前に「疲れたので休みます」で、魔王よりも自分ファーストを貫いていた。
クロウとしてもそれを問題だとは思っていなかった……むしろそれに対して何かを言おうものなら乱戦になりかねなかったので、面倒くささ故にほとんど放置していたのだが……使用人の生産性が下がる状況は問題だ。
(まったく、自己管理もできんとは……休むためにここにきた我がなぜ気遣わねばならんのだ。さっさと覚えてほしいものだ)
魔族ほど主張が強いのも面倒だが、それを放置されるのもまた面倒である。
しかし『休むべきときは休む』などという教養をわざわざ自ら施す必要に駆られるなど、クロウもここにくるまで想像だにしていなかった。
「……あ、あの」
「まだ何かあるというのか?」
「次の出勤ということは……クビでは、ないのですか?」
「誰がそんなことを言った。我が命じているのは有給だ」
体力や精神力の消耗によりメイドの生産性は落ちているが、もともとの能力が悪い訳ではないようだから、解雇などする予定はさらさらない。
倒れられて新たな人材を育成するくらいなら休ませた方がよほどマシである。幸いにも余分な仕事さえしなければ、休ませたところで致命的な不足が生じるほど人員が不足している訳でもないはずだ。
(もとより無駄な仕事を減らせばまだまだ人的余裕も生み出せ、このような疲労も溜めなかったはずだろうに……)
面倒であるが、ゆるりと休むためには多少采配を考えなければいけないかとクロウは思った。
そう、あと少し働けばゆっくりと休むことができるのだ。
しかしそんなことをクロウが考えている間もメイドはまだそこに佇んでいた。
「貴様、早く帰れ」
「も、申し訳ございません!! し、しかしながら……お尋ね申し上げます。有給、とはいかようなものでしょうか」
「……給金が支払われる休暇のことだ。まさか人間はそのような制度すら確立していないのか?」
クロウは常に言語が自動的に翻訳される魔法を使っているので、同様の概念があれば伝わるはずなのだが、そのような問い返しをされクロウは心の中でさらに頭抱えた。
ただ、わからないなら説明しなければならない。察しろというこは、よほど相手を知り尽くしているときにしか使えないカードである。
「あ、あの、伝説ではなかったのですか?」
「……は?」
「お休みをいただけるだけではなく……給金が、そのままというのは……その、本当に……」
こいつは何を言っているのだ。
クロウは本気でそう思った。
反応できずになんの表情も浮かべられずにいると、メイドはその場に跪いた。
「ありがとうございます、クロウ様。私は、クロウ様の寛大な御心に振れ、今後は一層ご満足いただけるよう尽くす所存にございます」
「なにを言っている……?」
「初めはお一人で兵を制圧なさり、この地の長となられたこと『もしや魔王では……』などと失礼なことを考えておりました」
失礼もなにも、それはクロウが自ら名乗ったので間違いないことである。
「ですが、魔王ではなく……神だったのですね……」
「わかった、お前は相当疲れている。早く休め。ほかの者にも順次休むようあとで触れを出す」
「ありがたき幸せ」
なぜか変な状況になってる。
ただ単に最高の休息を得るために命じたことであるのに、なぜここまで有り難がられている……いや、崇拝されはじめているのかクロウには納得できる解釈が思いつかなかった。
しかし、それもきっとメイドが疲れていることが原因だったのだろう。それなら深く考えても仕方がない。
いま必要なことがあるとすれば、それは使用人たちのシフトを見直すことである。このまま放置していればほかの使用人たちも妙な言動を起こすかも知れない。
そう思ったクロウは憧れの昼寝をすることなく、さっそく屋敷内の状況を調査した。
面倒だとは思うものの、魔界のように殴り合うわけではない。まだ、ましだ。
なによりこれも至極の休息をとるためだと思えば、しないわけにはいかないのだからーー。