28.魔王、いつもと違うキスに戸惑う
「は? 自分が『まほキス』の世界に馴染みすぎている気がする?」
サンドイッチなど、あらかたの食べ物がなくなったころ。芝生に寝転んだり、近くの森を散策に出たりと銘々が好きに過ごしている中。
シートの上に座り、同じく隣に残るメリフェトスに相談を持ち掛ければ、メリフェトスはきょとんと瞬きした。
それに頷き、アリギュラは難しい顔をする。
「わらわ、魔王ぞ? アーク・ゴルドでは、人間相手にぶいぶい言わせていた魔族の王ぞ? いくら世界が違うからといって、穏やかな昼下がりに人間どもと楽しくピクニックとは。いくらなんでも、キャラ崩壊がすぎないか?」
「幸せそうにサンドイッチを頬張っていたくせに、随分今更なこと仰いますね……。あ、マフィン食べます? 今朝焼いてきたんですが、なかなか美味しく仕上がりましたよ」
「おぬしはおぬしで、その適応能力の高さはなんなのじゃ……」
美味しそうなマフィンが入ったバスケットを差し出してくる四天王の一人を、アリギュラは半目になってまじまじと見る。
とはいえ、せっかくなので一つもらって食べてみる。ふんわりと香るバターに、滑らかに舌に伝わる甘味。加えて、ほんのりと混じる苦みがいいアクセントになっている。どうやら、生地にオレンジピールが混ぜてあるようだ。
(アーク・ゴルドにいたときは、菓子作りなどしたこともなかったろうにな)
やたらと完成度の高いメリフェトス作のマフィンに、アリギュラは思わず感心する。エプロンを付けてうろうろしている姿を初めて見たときは気でも狂ったかと思ったが、着実に腕を上げているらしい。
さっきお腹いっぱいサンドイッチを食べたのに、甘いものはやはり別腹だ。ぱくぱくと夢中になってマフィンを食べるアリギュラに、ふっとメリフェトスが優しい笑みを浮かべる。
クリスが魔法で沸かした湯を使い、紅茶を淹れる。それをアリギュラに渡してやりながら、メリフェトスは小さく肩を竦めた。
「いいではありませんか。郷に入っては郷に従え、です。新しい世界にうまく溶け込むのは、必要なことではございませんか?」
「メリフェトス……」
なんともなさそうに言う腹心の部下に、アリギュラは食べる手を止めて彼を見上げる。その美しい横顔は、声と同じく穏やかだ。
それでも腑に落ちないものがあって、アリギュラは躊躇いつつも尋ねた。
「良いのか? おぬしはそれで」
「と、いいますと?」
「おぬしは、人間にいろいろと思うところがあるだろう?」
ぴたりと。メリフェトスが動きを止める。モノクルの奥でそっと伏せられた切長の目を、アリギュラは静かに見つめる。
はじめて会ったとき、メリフェトスは死にかけていた。大型ギルドに襲われてひどい手傷を負ったところを、運悪く別のギルドに遭遇して殺されかかっていたのだ。
なんとなく見ていられなくて彼をそばに置くようにしたが、それからもメリフェトスは何度か人間に狙われていた。アリギュラが共にいたから死にかけることはなかったが、反撃するメリフェトスからは、人間への強い憎しみが見て取れた。
「そう、ですね」
紅茶を一口飲んで、ティーカップを置く。そうやって気を取り直してから、メリフェトスは小さく首を振った。
「人間が好きかと言われれば、いまだに嫌いです。ですが、私が憎いのはアーク・ゴルドの人間です。どうやらこちらの世界には、ステータスや、ステータスを上げるための魔族狩りといった概念が存在しないようですし」
「それはまあ、そうだが」
「もちろん、それはそれとして、我が君が連中とつるむことに、思うところがないわけではありませんが」
軽く茶化したように、メリフェトスが笑う。たったそれだけのことなのに、パーティの夜の、赤面して黙りこくってしまった彼の姿を、アリギュラに思い出させてしまう。
とくんと、心臓が跳ねる。動揺を悟られないように、アリギュラはあえてにまにまと笑い――探りを入れた。
「それはあれか。嫉妬してしまうからか?」
「さあ。どうでしょうね」
対して、メリフェトスの反応はカラッとしたものである。平然と肩を竦めて見せる腹心の部下に、アリギュラは人知れず唇を尖らせる。
……あの夜以来、メリフェトスの態度は至って普通である。あの時の動揺も慌てぶりも何もかもが幻だったかのようだ。
だからアリギュラも、踏み込んで問いただすことが出来ずにいる。けれども、だからといって気にならないわけでは当然なくて。
(あの日のアレは、なんだったんじゃ)
細い眉をむすりとよせ、八つ当たりのようにメリフェトスを睨む。
あの時、これまでの自分達とは違う、何か特別な空気が流れた。そんな予感が、そこはかとなくしている。けれどもそれが何であるか、具体的にはわからない。わからない上に、確かめる勇気もない。
だって仕方ないだろう。姿かたちが変わっても、アリギュラはアリギュラのままだし、メリフェトスはメリフェトスだ。共に戦い、共に支え、共に笑いあう。そんな膨大な歴史が、二人の間にはある。
誰よりも信頼する臣下であり、友であり。それ以上に、口うるさい兄のようでありながら、時折放っておけない弟のようでもある。血よりも深い絆で結ばれた、唯一無二の絶対的相棒。
それが揺らぐ日が来るなんて、どうして想像できるだろう。
――不意に黙り込んでしまった主を、メリフェトスは不思議そうに眺めている。けれども軽く肩を竦めた彼は、切長の目を原っぱでめいめいに寛ぐ人間たちへと向けた。
そして彼は、明るい調子でこう続けた。
「ですが、ホッとしている面もあります」
「ホッと? それはなぜじゃ」
「我が君はここで、生きていかなければなりませんから」
柔らかな風が、二人の間を駆け抜ける。ヘーゼルナッツ色の髪を揺らすメリフェトスを、アリギュラはまじまじと見上げた。その視線に気づいていないのか、メリフェトスはのんびりと目を細める。
「『まほキス』のエンディングを迎えれば、我が君は晴れてこの世界に迎え入れられます。この先も人間として、聖女として、エルノア国で過ごすのです。その時に、味方と呼べる人間がひとりでも多い方が、私も安心ですから」
「なにを、言っているのだ?」
ほんの少し、声が震えてしまった。主人の異変に気づいたメリフェトスが、こちらに視線を向ける。青紫色と、赤い瞳。ふたつが交わる中、アリギュラはどうにか笑おうとした。
「ここで生きていくのはおぬしも同じだろうが。何を、他人事みたいに言っている」
「…………」
「味方がいようがいまいが、われらが手を合わせば何も恐れることはない。アーク・ゴルドでも、最初はわらわとおぬしだけだった。あの時と一緒じゃ。なあ。そうだろう?」
メリフェトスは答えない。ただ、困ったような顔でこちらを見返すだけ。焦れたアリギュラは、白い装束に包まれたメリフェトスの腕を掴み、身を乗り出して彼を見上げた。
「メリフェトス。おぬしは、これからもわらわの隣にいるんだろう? ずっと、わらわの一の臣下であろう?」
なぜだろう。何か重要なことを見逃している気がする。このままでは永遠に、メリフェトスを失ってしまうかのような――。
その時だった。
掴まれているのとは反対の手で、メリフェトスがアリギュラの顎に手を添える。わずかに上向かせたアリギュラを包み込むように、メリフェトスが静かに覆い被さる。
そうやって、優しく、愛しく、まるで壊れ物に触れるかのように慎重に、メリフェトスの唇がアリギュラに触れた。
――どれぐらいそうしていただろうか。永遠のような一瞬の後、触れた時と同じく、メリフェトスが静かに離れていく。
初めてのときの悪戯っぽい感じとも、それ以降の作業じみた口付けとも違う。大事に大切に慈しむような、想いのこもったキス。
なにが起こったのか分からず、ぽかんとアリギュラはほうける。そんな主人を静かに見下ろし、メリフェトスはゆっくりと瞬きをする。
ようやく事を理解したアリギュラは、ぽんっと顔を沸騰させた。
「な、ななななな、なっ!?」
唇を震わせて後ずさるアリギュラを、相変わらずメリフェトスは、憎らしくなるほど美しい顔でじっと見つめている。
なんで、そんなに普通なんだとか。どうしてお前は慌てないんだとか。矢継ぎ早に文句が頭の中を飛び交う。だが、どれひとつとしてまともに口に出来ないまま、ようやくアリギュラはこれだけを抗議した。
「な、なんで。なんでいま、口付けをした!?」
メリフェトスがアリギュラの唇を奪うのは、聖女の力が必要なとき。聖剣の預かり手として、必要に迫られた時だけだ。
しかし今は、その時ではない。癒さなければならない民もいなければ、聖剣で追い返さなくてはならない魔獣もいない。
口付けをする理由など、ひとつもなかったはずなのに。
真っ赤になって、抗議の目を向けるアリギュラ。そんな主人に、メリフェトスはぽつりと、しかしながら確かに聞こえる声で答えた。
「そうしたいと思ったから」
「っ!?」
ただでさえ忙しなく胸を打つ鼓動が、いっそう強く跳ねる。ぎゅっと手で胸を押さえるアリギュラに、メリフェトスはなぜか、ほんの少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「そう言ったらきっと、あなたを困らせてしまいますね」
ざあっと、一際強い風が丘を駆け抜けた。
どういう、意味だ。そのたった一言が、喉に詰まって上手く出てこない。赤い瞳を揺らすアリギュラを、凪いだ青紫色の瞳が射抜く。
しばらくして、メリフェトスはそっと目を伏せた。
「忘れてください。私はただ――……」
言葉は最後まで続かなかった。突如、メリフェトスの座るシートから、無数の触手が伸びるように影が吹き出したからだ。
「……は?」
「んなっ!?」
虚をつかれたようなメリフェトスの声と、アリギュラの短い悲鳴。魔王とその腹心の部下、その二人をもってしても、とっさのことに動くことが出来なかった。
純粋な驚きに染まった、切長の目と視線が交わる。次の瞬間、メリフェトスの身体は地面から伸びる無数の影に呑まれた。
「っ、メリフェトス!!」
我に返ったアリギュラは、弾かれたように立ち上がる。おそらく無意識だろう。声に応えて、影の隙間でメリフェトスの手がぴくりと動く。それに飛び付こうとして、アリギュラは地を蹴った。
「手を伸ばせ!! はやく、わらわに」
掴まれ。その声は、届かなかった。
蕾がしぼむように、影が地面に沈む。ドプリと音がして、メリフェトスもろとも、影は跡形もなく消失してしまう。
後に残されたのは、コロンと転がる黒い水晶。そして、こちらの世界に来てからメリフェトスがいつもつけていた、ヒビの入ったモノクルだけだ。
「どこだ、どこにいった」
ひとり呆然と、彼の消えた場所をアリギュラは見つめる。異変に気づいた何人かが、野原を駆けてこちらに戻ってくる。けれども他の攻略対象たちを気にしてやる余裕もなく、アリギュラはもう一度叫んだ。
「返事をしろ、メリフェトス!! どこにいる――!」




