26.在りし日の出会い(後半)
「ていっ」
掛け声とともに、チビ悪魔が足をけり上げる。そのつま先は見事に『彼』の顎にクリーンヒット。まともに食らってしまった『彼』は、思い切り後ろに倒れこむ。ぎりぎり受け身をとって頭を地面に打ち付けずに済んだが、代わりに、再び頭をチビ悪魔に踏まれた。
「さっきから聞いていれば、おぬしはぐちぐち、ぐちぐちと。なんじゃ! 一回死にかけたくらいで湿っぽい! おぬしも悪魔なら、少しは根性みせぬか!」
「すびませんね」
ぐりぐりと地面に押し付けられながら、『彼』は口をへの字にする。これでも苦労してきたんだとか、だったらお前も一度死にかけてみろとか色々と言いたいことはあったが、通じる相手とも思えない。だから彼は、ふて腐れつつ文句をすべて呑みこんだ。
……すると、ふと、頭の上から足がなくなった。
「おぬし、わらわの手下になれ。わらわがおぬしを、人間どもから守ってやる」
「…………はい?」
突拍子もない提案に、思わず『彼』は痛む身体を引き摺り起き上がる。すると、らんらんと輝く真っ赤な瞳と視線が交わった。
「人間どもが徒党を組んで力を伸ばしているというなら、我ら悪魔も群れをつくればいい。悪魔だけじゃない。スライムもオークも鬼もアンデットも吸血鬼も。人間に狩られてきた魔族すべてが、手を組み反撃する! おぬしとわらわの協定は、その第一歩じゃ!」
ふふんと鼻を鳴らし、得意げにチビ悪魔は笑う。あまりに壮大すぎる未来図に、『彼』はしばし言葉を無くした。やがて我に返った『彼』は、戸惑いつつ首を振った。
「種を越えて魔族が手を組むなど不可能です。魔族は基本、同種以外の言葉には耳を傾けません。しかも、人間に対抗しうる大群を統率することなど……」
「王の言葉になら、耳を貸すだろう?」
けろりとした顔で、チビ悪魔がのたまう。
魔族の王。それは遠い昔。天界との全面戦争で滅亡の危機に立たされた魔界に彗星の如く現れ、すべての魔族の上に君臨し救ったと言われる伝説の存在。それになると、このちびっ子はのたまうのか。
唖然とする『彼』に、チビ悪魔はふふんと不敵に笑った。
「ただの軍団ではない。われらが目指すのは国じゃ。もう誰も人間に狩られない。もう誰も、魔族だからという理由で犠牲にならない。そのための国をわらわが作ってやる」
「そんな、無茶な……」
「無茶もへったくれもあるか。それに、おぬしも他人事ではないぞ。今日からおぬしはわらわの手下。記念すべき第一号の臣下だからな」
チビ悪魔の途方もない構想に、『彼』はぽかんと口を開けるしかない。けれどもなぜか、このチビ悪魔なら出来るかもしれない。根拠はないが、そこはかとなく予感がする。
目を丸くしてまじまじと眺めていると、チビ悪魔がしゃがんで『彼』と視線の高さを合わせた。
「して。おぬし、名は何と申す?」
「私は……」
返事に窮して、『彼』は目を泳がせた。ほかの悪魔に漏れず、もう長い間『彼』はひとりで行動してきた。かつて呼ばれた名も、もう覚えていない。仕方なく、襲ってきた人間たちが話していた、懸賞首としての名を『彼』は答える。
するとチビ悪魔は、くいと眉を上げた。
「そんな名前捨ててしまえ。仕方ないな。手下第一号の記念に、わらわがつけてやるか……」
腕を組んで、チビ悪魔は考え込む。真剣に熟考することしばらくのうち、チビ悪魔はぽんと手を叩いて表情を明るくした。
「そうじゃ。メリフェトス。メリフェトスはどうだ?」
「メリ、フェトス……?」
「伝説の魔王の参謀が、そんな名前だったはずじゃ。……いや、使い魔のカラスだったか? それともペットの犬??」
自信満々にうなづいたチビ悪魔だったが、途中から何やらごにょごにょと言葉を濁す。なんであれ『彼』に異存はない。
『彼』は--メリフェトスは、青紫色の目を細めて首を傾げた。
「我が君。では、私はあなたをなんとお呼びすれば?」
見上げれば、チビ悪魔はにっと笑う。赤い空を背負い、チビ悪魔は堂々と小さな胸を張った。
「我が名はアリギュラじゃ」
アリギュラ様。そう繰り返すメリフェトスに、アリギュラは嬉しそうに黒髪を揺らす。
「しかと覚えておけ。今日より、おぬしの主人となる者の名前じゃ!」
* * *
ちゃぷん、と。雫が水面を叩く音がする。
それで、沈んでいたメリフェトスの意識はゆっくりと浮上した。
長い睫毛をふるりと震わせ、静かに瞼を開く。視界に入るのは、ゆらゆらと立ち上る湯気と身体を包み込む湯。
水音をたて、メリフェトスは腕を持ち上げる。濡れた前髪をかきあげながら、彼はひとり嘆息する。身体があつく、すこしだけ気だるい。どうやら湯浴みの最中にうたた寝してしまったようだ。
両手で湯を掬い上げて、顔を洗う。そうすると、まだ半分寝ぼけていた頭がよりクリアになる。細く息を吐き出して、メリフェトスは後ろに寄りかかった。
随分と懐かしい夢だった。
敬愛する魔王、アリギュラと出会った記念すべきあの日。アーク・ゴルドでの計算で約130年ほど前だろうか。それは、自分がこの名を名乗り始めた日でもある。
思えば、随分遠くへきたものだ。天井を眺めながら、メリフェトスはそう目を細めた。
あの日を境に、自分の世界は一変した。身一つで「魔王になる」とのたまう無茶苦茶な主に振り回され、あちこちを駆け回る毎日。頭を抱えることも多かったが、振り返れば嫌なことはひとつもない。
ともに魔界をめぐり、ともに魔族を殴って味方に加えた。アリギュラの配下となる魔族はグングン膨らみ、気がつけば四天王なんてものもできた。
日増しに覇者としての風格を膨らませ、魔族の頂点として魔界に君臨するアリギュラ。そんな彼女と同じ夢を見て、ともに追いかける。
戦乱の世だった。たくさん血も流れた。けれどもメリフェトスは、アリギュラと駆ける夢の中でたしかに幸せだった。
(……なんて。俺は何を、センチメンタルに浸っているんだか)
苦笑を漏らして、首を振る。こんなところを主人にしられたら、また鼻で笑ってバカにされそうだ。
そんなことを思いながら、メリフェトスは湯殿から上がった。
冷えた夜風が、優しく頬を撫でる。長く湯に浸かって火照った体には、それがちょうどいい。
神官として与えられた自室のベッドにひとり腰掛けて、メリフェトスはぼんやりと窓の外--夜空に浮かぶ月を眺めている。
ぼうと輝く月を囲むように、白い光の輪が二重、三重に浮かんでいる。それを青紫色の瞳でなんとなしに眺めつつ、メリフェトスは無意識のうちに、ぽつりと呟いた。
「あとどれくらい、一緒にいられるんだろうな」
呟いてから後悔した。今更何を女々しいことを。アーク・ゴルドで、勇者カイバーンの放つ白い光に包まれたあの時、自分は既に終わっていたのだ。忌々しい人間の身体とはいえ、こうしてアリギュラの近くにいられるだけで奇跡。それ以上を望むなど、贅沢にもほどがあるというのに。
けれども。
人差し指で、そっと唇に触れる。触れ合ったあと、顔を真っ赤にしてすぐにそむけてしまう主の姿が瞼の裏に蘇り、メリフェトスの表情は自然と緩んでしまう。
長い時を一緒に過ごしていても、まだまだ知らない顔と言うものはあるものだ。そう、メリフェトスは笑みを漏らす。叶うなら、ほかにもいろんな顔ももっと見てみたかった。怒った顔。笑った顔。拗ねた顔。はにかんだ顔。
恋に落ちたとき、あなたはどんな顔を相手に向けるのだろう。
ずきりと、胸の奥底に痛みが走る。それには気づかなかったフリをして、メリフェトスはひとり壁に背をもたれる。
どれほどの時間が残されているのかはわからない。けれども、メリフェトスが終わるその日は、アリギュラがこの世界で生きていく資格を得る重要な日となる。だから感傷に浸っている暇はない。燃え尽きる最期の時まで、最初の――そして、最後の臣下として、魔王をお支えしていくのだ。
――願わくは、私が姿を消すその時、貴女がほんの少し、私の為に泣いてくれますように。それだけで自分は、思い残すことは何もない。
そんな小さな願いを胸に、メリフェトスはそっと、瞼を閉じたのだった。




