25.在りし日の出会い(前半)
もはや、これまでかもしれないな。
腹に打ち込まれる鈍痛と、頭を揺さぶる衝撃。その両方を交互に与えられながら、『彼』は霞む思考のなかでそんなことを考えた。
すでに抵抗する力も、気力もない。けれども人間たちは、そんな『彼』を解放してはくれない。
「おら、起きろよ!!」
一際強く腹を蹴られ、息が詰まった。ついで襲うのは迫り上がる吐き気。身体を二つ折りにし、げほごほと咳き込むと、三人の人間のうちひとりが「うげえ」と顔を顰めた。
「汚ねえな。こいつ吐きやがったぞ」
「おいおい、見てみろよ! ステータス上昇、ハンパないって!」
別のひとりが宙に浮かぶ半透明のガラスのようなものをみて、声を弾ませる。それにつられて、他の人間たちの関心もしばし『彼』から離れた。
クソどもが。口の中に滲む血の味に顔を歪めつつ、内心で吐き捨てる。
ステータス。人間、とりわけ冒険者と呼ばれる者たちは、その数値に非常に重きを置いている。
冒険者たちが気にするのは戦闘力や魔法力だ。それらは経験値を積めば積むほど上昇するらしく、彼らは躍起になってレベルアップに勤しむ。
そんな彼らが、経験値を集める方法。それは、魔族狩りである。
意識が逸れている間に逃げなくては。そう、『彼』は既に折れて力の入らない腕をなんとか伸ばし、地を這おうとする。
けれども、そんな『彼』の背を、無情にも人間が踏みつける。中で骨が折れる気配があって、『彼』は苦痛に悲鳴をあげた。
「かっ………、はっ……!」
「やっぱいいよな。高位魔族は効率が良くて」
痛みに呻くメリフェトスを気に求めず、人間はぐりぐりと背中を抉りながら呑気に話を続ける。
「スライムだのプチプチやってるより、よっぽど経験値とれるもんな」
「回復力も高いからなかなか死なないし。長くいたぶれるのもポイント高いよ」
「どこのギルドだか知らないけど、仕留め損ねてくれて有難いぜ。おかげで、俺たちがおこぼれに預かれるってもんだ」
苦痛と、憎悪と、悔しさと。様々な感情がぐちゃぐちゃに澱んで、熱い雫となって目から零れ落ちる。
どうして魔族というだけで狩られる。どうして魔族というだけで殺されなくてはならない。
我らはただ、静かに暮らしているだけなのに。
「ねえ。いい加減殺しちゃおうよ」
ずっと黙っていた最後の一人が、面倒くさそうにそう言った。憎しみに身を焦がして睨みあげる『彼』をつまらなそうに見ながら、その人間はため息をついた。
「そいつの鱗、なんだか気持ち悪いしさ」
まるで虫の死骸を眺めるかのような、無感情の瞳。その眼差しに、『彼』は己の死を覚悟した。
だが。
「どぉりゃっしゃああああああ!!」
凄まじい旋風と、緊張感の欠けた雄叫び。何事かと『彼』があたりを確認する間も無く、人間たちの悲鳴が響き渡った。
「あ、悪魔だ! こいつ仲間がいやがった!」
「小さいくせになんてパワーだ!?」
「や、やめろ、はなせ! はなして!」
「黙れ! 手負いに鞭打つ腐れ外道どもがー!」
逃げ惑う人間たちを相手に、乱入してきた誰かが暴れ回る気配がある。視界を奪う土煙と、響き渡る怒声と悲鳴。かと思えば、不意にあたりは静かになる。
やがて、ふわりと風が待って土煙が晴れ、仁王立ちする小さな背中が豪快に笑った。
「は、は、は! 連中を投げ飛ばしてやったわ! せいぜい、ぺちゃんこにならないよう頑張るんじゃな!」
--聞こえた声に、『彼』は軋む身体に鞭を打って、どうにか僅かに顔を上げた。
まだ子供の悪魔だ。小さな身体に、腰まで届くかという長い髪。豪快なセリフに反して声は幼く、手足も華奢だ。けれども、全身から滲み出る高い魔力量は、間違いなく『彼』よりも上だ。
なんにせよ彼女に助けられた。起き上がることも叶わないまま、『彼』は掠れる声で小さな背中に話しかける。
「……たすかり、ました。あなたは、いのちの」
恩人。そう言おうとした『彼』だったが、その先は続かなかった。
振り返った誰かが、ぺいっと『彼』の頭を蹴りつける。「へぶっ」と短く悲鳴をあげて、『彼』が倒れる。その頭を、相手は躊躇なく踏みつけた。
「して。なんじゃ、おぬし! わらわと同じ、悪魔じゃろう!? なんだ、その体たらくは。放っておくつもりだったのに、あんまり情けないから思わず出てきてしまったわ!」
「や、やめ……私、見ての通り、死にかけてるのですが……」
「知るか! 人間相手に死にかけるほうが悪いのだ!」
独裁者もびっくりな横暴発言をかまし、ぐりぐりと少女は『彼』を踏みつける。
(なんだ、このチビは)
べたりと頬を地面に押し付けられたまま、『彼』は閉口する。お礼を言って損をした。こいつはまた、とんでもない同族に出くわしてしまった。大きな赤い瞳が印象的な美魔族だが、それすら詐欺に思えるほどの無茶苦茶さだ。
……それから、しばらくして。
黒髪のチビ悪魔に座ることを許され、体の回復を待つ間。チビ悪魔はどこにいくでもなく、近くの倒木の上に座ってぷらぷらと足を揺らしていた。
一応、同族のよしみで『彼』がまた襲われないよう、見張ってくれているのだろう。とはいえ手持ち無沙汰なのか、あれこれと『彼』に尋ねてくる。おかげで『彼』は、こんなことになるに至った経緯のほとんどを、チビ悪魔に話すことになった。
「そうか。大型ギルドに住処を焼かれ、命からがら逃げ出してきたのか」
「そう、ですね。数えたわけではありませんが、50人はいたでしょうか」
だいぶマシにはなったが、まだ火傷が痛む。鈍く走った痛みに『彼』が顔をしかめていると、チビ悪魔は「ふーん」と頬杖をついた。
「50人とはなかなかだな。おぬし、災難じゃったな」
「……そう思うのなら、先程足蹴にしたことを謝っていただきたいのですが……」
「ん? 何か言ったか」
「いえ、何も」
これっぽっちも悪びれる様子のないチビ悪魔に、『彼』はふいと目を逸らす。けれどもチビ悪魔は、赤い瞳でじーっと『彼』を見つめた。
そして、尋ねた。
「して。なぜ、おぬしは目をつけられた」
「…………」
ざあと風が吹き抜け、木々を揺らす。その風の冷たさを頬に感じながら、『彼』は唇を噛み締めた。
「理由など、ないのでございます」
噛み締めるように、呪いを吐くように。唇を歪めて、『彼』は答える。
「自分たちと違うから。気持ち悪いから。得体が知れないから。恐ろしいから。……経験値を積むために殺す。そのことに良心を痛めないための理由をひとつ見つけられればそれでいい。どんな大義名分を掲げようが、連中の根底はその程度です」
ぎゅっと握りしめた手の、緑の鱗が視界に入る。
顔の半分と身体を覆う、蛇のような鱗。この見た目のせいで『彼』は何度も。何度も何度も何度も。命を狙われてきた。
幸い『彼』は強かった。おかげて生き延びてこれたが、そのために人間どもの間で目の敵にされている。『彼』に瀕死の傷を負わせたギルドの連中が言っていたが、いまや『彼』の首には懸賞金が掛かっているそうだ。笑わせるなという話だ。先に命を奪いにきたのはどっちだと思っている。
苦々しさに顔をしかめ、『彼』は吐き捨てる。
「……我ら悪魔は、人間よりはるかに強い。ですが奴らは、我らと異なり群れを成し協力し合います。群れが大きくなるほど連中は狡猾さを増し、いずれ悪魔をも滅ぼすでしょう」
「おぬしが、狩られそうになったのと同じにか」
「ええ。もっとも、私の命はそう長くは保たないでしょうね。連中に執拗に目をつけられていますから」
言いながら『彼』の口には自嘲の笑みが浮かんだ。
そうだ。どうせ、自分はもう長くない。今日はチビ悪魔の助けもありどうにか生き延びたが、次に襲われるとしたらもっと巨大なギルドが相手のはずだ。今日が50人なら、次は100人。それでダメなら次は200人。膨れ上がった大軍に、いつか自分は狩られることになるだろう。
人間どもの、くだらないステータスのために。
悔しさに、『彼』が眉根を寄せた、その時だった。




