第9話 ムニエルと少女の名前
レアさんは料理上手だ。
彼女と暮らし始めてから、提供された料理を不味いと思ったことは一度もない。
そこら辺の店で出される料理の100倍は美味しいと思う。
そして今テーブルの上に並べられたものからも、食欲をそそる良い匂いが放出している。
早く食べたい!
もう我慢の限界だ!
俺をそんな気持ちにさせた本日の料理は、「イウールのムニエル」。
この世界ではムニエルと呼ばないらしいが、作り方や完成品がムニエルそのものなので、俺はそう呼ぶことにしている。
「イウール」、この奇妙な言葉の正体は、今日レアさんが買った魚の名前である。
さっきから香ってくる良い匂いは「ラルー」だ。
この料理において、バターの役割を果たしている。
とまぁこんな感じで料理の説明も終えたことだし、後はあの言葉を合図に食べ始めるだけだ。
「じゃあ皆、準備は良い?」
「はい!」
レアさんの質問に、俺達2人は力強く答えた。
「それでは」
次に来る言葉が食事開始の合図。
「いただきます!」
声を合わせて言った俺達は、一斉に食事を始める。
まずは上品にナイフを使って食べやすいサイズに切り分けていく。
一口ぶんの大きさになったそれをフォークで刺して持ち上げる。
最後は口に入れるだけだ。
「うまい!」
ただ一言、それに尽きる。
「ラルー」のコクと「イウール」本来の味が手を取り合って、口いっぱいに広がっていく。
それをうまいと言わずして何と言えよう。
最高の一品だ。
「はぐっあむっ、はぐっ」
隣に座っている少女は、目にも止まらぬ速さでムニエルを口に運んでいる。
見る見るうちにムニエルの姿が消えていった。
「ごちそうさま!」
俺が3口目を食べようとしていたその時、少女は遂に完食してしまった。
いや速すぎるだろ。
「こんなに色々してもらっちゃって、今日は今までの人生で一番幸せな日です!」
「さすがに大袈裟すぎないか?」
俺がそう言うと、少女は首としっぽを横に振る。
「本当に、幸せな日です」
少女の目は輝いていた。
「そろそろ名前を教えてくれる気になったかい?」
レアさんが聞くと、彼女は首としっぽを縦に振ってくれた。
「お2人になら」
遠くを見つめながら答えるその姿は、どこか儚げである。
家に着くまでの間、俺達は何度か少女に名前を尋ねたが、その度にはぐらかされていたのだ。
もう教えてくれないのかと思っていた。
でも名前も知らないまま別れるのは名残惜しいし、レアさんがもう一度聞いてくれて良かった。
「私の名前は......」
そこまで言った少女は、耳を震わせながら固まってしまった。
やっぱり言いたくないのか。
「無理しなくても良いんだよ」
俺はそう言ったのだが、彼女はまた首としっぽを横に振った。
今度はちゃんと言うつもりらしい。
一呼吸おいてから、少女の口は開いた。
「私の名前は、セイラ・カル・リーシュです」
尚弥は気付いていた。
少女の名前を聞いた時、一瞬だけレアの顔が曇ったことを。