ソロキャン男と猫憑き少女 後編
くろをテントに連れてくると随分気に入ったようで、周りをうろうろ歩き回った後テントの中で丸まって眠ってしまった。
俺はと言うと晩飯の準備で飯盒に持ってきた米とペットボトルの水を入れて白だしを加え、鱗を取ってぶつ切りにしたチヌの半身を入れてコンロの火にかけ、炊き上がるのを待つ間、くろが釣ったメバルも下処理しておいた。
飯盒から立ち上る湯気が減って美味そうな匂いが漂い始めると、テントからくろがごそごそと這い出してきて何も言わずに俺の膝の上に座ってくる。
傍から見れば犯罪だが、こいつは人間じゃない。見た目はコスプレをした女子中学生でも正体は黒猫の妖怪的な何かだ。料理をするのに邪魔なんで「あっちいけ」と頭をぽんぽんするとちょっと嫌そうに耳を倒して向かいにある流木に移っていった。
暫くして湯気が出なくなった飯盒を火から下ろし、代わりに網を乗せて塩を振っておいたメバルを焼くと、夕焼け空を写したくろの瞳がキラキラと輝き始める。
それからメバルがこんがり焼きあがってチヌの半身も焼いている間、くろは皿に置いたメバルを前にそわそわしている。
「もう少しの我慢だぞ、くろ」
「にゃっ!?」
大人しくしているかと思ったらこっそり手を伸ばそうとするから油断ならない。声を掛けるとビクッと背筋を伸ばして尻尾を太くする。
間もなくチヌも焼きあがって半分ずつ皿にとりわけ、飯盒の中のチヌの鯛めしもしゃもじでかき混ぜ、紙皿に盛ってくろに渡す。
「熱いから気をつけろよ」
「ふにぃ」
言ったそばから渡した鯛めしに鼻をつけて匂いをかぎ、耳を後ろに倒して情けない声を出している。そんなくろは放って置いて、ほんのりおこげの付いた鯛めしを頬張る。
美味い。
ただでさえ美味いのに、しょんぼりしているくろの目の前で食うとなお美味い。ワンカップの瓶を開けて一口呑んでメバルの塩焼きにも箸をつけると恨めしそうに睨みつけてくる。
「ははは、そろそろ食えるんじゃないか?」
「にゃーん」
くろは恐る恐るメバルの匂いをかいで、はぐはぐと端の方からかじり始めて目を細める。
太陽が海に沈みはじめ、西の空が紅く染まる中、幸せそうに食事しているくろを見ながら呑む酒も格別に美味かった。
「なぁ、お前、ずっとここにいるのか?」
「にゃ?」
一心不乱に魚をかじっているくろに話しかけると、ちらりと視線を上げて金色の瞳で俺を見つめて首を傾げ、チリンと左手首の首輪についた鈴が鳴る。そしてすぐにまた魚をかじり始めた。
「ま、猫だからしゃあないか」
適当に後片付けを終え、砂浜に寝転んで満天の星空をしばらくぼんやり眺めて過ごす。空気がひんやりしてきたのでテントに戻ってみると、くろが大の字になっていびきをかいていた。本当にこいつ、いつまでこうしている気なんだろう?
とりあえず邪魔だったから足でちょいと横に転がしてスペースを開け、寝袋を広げて潜り込むと、すぐに眠りの世界に落ちていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おーい、寧々子。父さんはここで釣ってるから、危ないとこには行くんじゃないぞ」
釣り竿を持った父娘が防波堤を歩いている。
「はーい、わかってるって!」
釣り竿とキャリーケースを持ったショートボブの女の子が元気よく返事をする。
「くろ、出てきていいよ。危ないとこには行っちゃダメだからね」
赤い首輪をつけた金色の瞳を持つ黒猫がコンクリートの上に置かれたキャリーケースから出てにゃーんと返事をする。
「ふっふっふー、ここがよく釣れるんだよね。お父さんをびっくりさせてやろ」
女の子がテトラポットの上に立って釣り竿を振る。
「もー! 今日は小アジばっかり。くろー、全然大物がかからないよー」
黒猫は女の子の言葉を無視するように防波堤の上で丸まっている。
「あっちの方が釣れるかな? 行ってみよ」
少女が隣のテトラポットに飛び移ろうとした瞬間、足を滑らせ、海面に水しぶきが上がる。
「にゃおーん! にゃおーん! にゃおーん!」
飛び起きた黒猫が女の子がしがみつくテトラポットに跳び移り、大きな鳴き声を上げる。
「くろ! どうした!? 寧々子はどこだ!?」
鳴き声に気づいた父親が黒猫のもとに駆け寄る。
「寧々子! 大丈夫か!? すぐ助けるからな!」
父親がテトラポットを伝って女の子を引き上げる。それと同時に一際高い波が防波堤に押し寄せる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「くろ!」
自分の叫び声に驚いて目が覚めるのは初めてだ。ふぅと息を吐き、動悸を抑える。
ふと気づいて隣を見ると、くろが寝ていた場所には何もなく、がらんと小さなスペースが開いているだけだった。
そして胸の上に何か重たい物が乗っているかのような圧迫感。いや、乗っているかのようではなく、実際に乗っている。そっと寝袋を開いてみると、赤い首輪をつけた黒猫が寝袋に潜り込み、俺の胸の上で丸まって小さな寝息を立てていた。
「お前、飼い主を守って海に落ちちゃったんだな」
「ふにふに」
「……うん、えらかったな」
夜空のように黒くビロードのように柔らかい艶やかな毛で覆われた小さな背中を優しく撫でて頭をぽんぽんすると、くろは金色の瞳でこちらを見つめて「にゃ」と小さな鳴き声とともに首を傾げ、チリンと首輪の鈴が鳴る。
「ん? あぁ、そうか。お前の望みは……」
くろの首に手をかけ、首輪の金具を外してベルトを抜くと、真っ黒なくろの身体が闇に溶けていく。
「にゃーん」
くろは満足気に鳴いて暗闇に浮かんだ金色の瞳を閉じると、胸に乗っていた圧迫感と存在感がふっと消えていった。
目を瞑って胸に手を当て、くろがいなくなったのを確認し、起き上がってランタンのスイッチを入れて首輪のベルトをかざし、内側の面を確認する。
「やっぱりそうだ」
ベルトの裏には子供の文字で書かれた拙い『くろ』の文字。そして、拾ったときには読めなかった住所が大人の文字で小さくはっきりと書かれていた。
「ちゃんと飼い主さんに会わせてやるからな。くろ」
その時、返事をするように鈴がチリンと鳴った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝になって荷物を片付け、海岸沿いを自転車で走る。首輪に書かれていた住所は浜辺から三十分ほど走ったところにあった。
住所と表札を確認し、チャイムを押す。
「はーい! どちら様ですかー!」
元気な女の子の返事と、ぱたぱたと廊下を走るスリッパの音がドアの内側から響く。
「すみません。桜宮寧々子さん…… くろちゃんの飼い主の方にお届け物がありまして」
「えっ、なんで!?」
驚く声とともにドアが勢い良くバタンと開かれ、夢に出てきたくろにそっくりな女の子が飛び出してくる。
くろ違うのは背と髪が伸びて大人っぽくなり、耳も尻尾もなく瞳の色も真っ黒なところで、今は丁度高校生くらいか。
「あっ、ごめんなさい。くろって聞いてびっくりしちゃって。 ……お兄さんがなんでくろのことを?」
「実は、これを届けに来たんだ」
ポケットから首輪を取り出して寧々子ちゃんに見せ、はい、と渡すと、奪うように俺の手から受け取る。
「これっ!?」
寧々子ちゃんは首輪のベルトを指でなぞり、『くろ』の文字を確認すると、その大きな瞳が潤み出す。
そして、嗚咽を漏らしながら首輪を抱きしめ、後から後から溢れ出す涙がほんのり紅く染まった頬を伝って流れ落ちる。
「くろ…… おかえり……」
「君に、伝えることがあって…… 良いかな?」
そんな姿を見るのは辛く、心苦しいが、あの浜辺であった出来事をちゃんと伝えなくてはいけない。すぐにでも立ち去りたい気持ちを押し止め、寧々子ちゃんが泣き止むのをじっと見守る。
「ううっ…… ひっく…… お兄さん、待たせちゃってごめんなさい…… 中に、入ってもらえますか?」
「うん、お邪魔します」
泣いてる女の子に招かれて部屋に入るのは気がひけるけど、これは仕方がないんだ。と自分に言い聞かせつつ、初めて入る女子高生の部屋に鼓動が高鳴る。
「どうぞ、散らかっていてちょっと恥ずかしいですけれど……」
「いえいえ、お構いなく」
むしろ散らかってくれていたほうが嬉しいかもしれない。と思うのは不謹慎か。通された寧々子ちゃんの部屋は散らかっているというより、猫グッズで溢れかえっていた。
「えへへ、お別れが辛いから、もう飼えないけど、やっぱり猫はかわいいから……」
少し腫れた目を細めて照れ笑いを浮かべながら言い訳する寧々子ちゃんを直視できず部屋を見渡すと、棚の上にある写真立てに目が止まる。
傍らにはお香立てと未開封の猫缶がはいった餌皿、写真には笑顔の花咲く黒いセーラー服を着たショートボブの女の子と、女の子に抱かれる赤い首輪をつけた金色の目の黒猫の姿。
「大好きだったの。くろのこと。小さい頃からずっと一緒で…… 私の命の恩人、ん、恩猫かな?」
「うん…… 知ってる」
「……お兄さん、伝えたいことって?」
「信じられないかもしれないけど……」
写真を見つめながら、昨日浜辺で出会った猫耳の女の子の話をするうちに、寧々子ちゃんがまた嗚咽を漏らし始める。
「やっぱり、くろだ。あそこにはお父さんに連れられて、よく釣りに行ってたの。くろも一緒に。あれから、もう釣りはやめちゃったけど……」
「そっか……」
「ねぇ、お兄さんっ!」
「うわっ! どうしたの?」
「私を釣りに連れて行ってください! あの浜辺に!」
「えーと、キャンプはダメだけど、一緒に釣りするくらいなら……」
寧々子ちゃんの悲しみを隠した元気な声に気圧され、思わず返事をしてしまう。
「やった! えへへ、くろも一緒だよ!」
振り返ると寧々子ちゃんは小さく飛び跳ね。見ている前で持っていた首輪をブレスレットのように左手に巻き、金具を止めると、まんまるに開いた目が金色に光りだす。
「これでずっと一緒だにゃ ……にゃ?」
寧々子ちゃんの頭からとんがった三角の耳がぴょこんと飛び出し、スカートの裾から長い尻尾が伸びる。
「にゃーん!」
「なんじゃこりゃー!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから俺達は時々一緒にあの防波堤に釣りに行くようになり、寧々子はくろを死なせてしまった罪滅ぼしと助けてもらった恩返しをするために獣医になるんだと勉強に励んでいる。
そして――
「やった! 誰もいないよ。首輪つけちゃお!」
荷物を持たされた俺の前を行く寧々子が防波堤の上に登り、嬉しそうにぴょんと飛び跳ねてポケットから取り出したくろの首輪を腕に巻く。
「うにゃー! いい気持ちにゃ」
五月の清々しい青空の下、猫耳を後ろに倒して両手と尻尾を伸ばし、寧々子は気持ちよさそうに大きく伸びをする。
「それ、絶対呪われてるぞ」
「む、そんなわけ無いにゃあ! くろはそんな悪い子じゃないもん!」
「はいはい、知ってるよ」
例の猫耳と尻尾は首輪を身に着けている間だけ生えてきて、周りに誰もいないときはたいてい身につけるようになっている。どう見ても呪いのアイテムだが、寧々子的には気に入っているらしい。
「ほら、早く! お魚が逃げちゃうにゃー!」
青く穏やかな凪の海に伸びる防波堤の先に向かう寧々子に続いて防波堤に登ると、待ちかねたように振り返ってこちらに首輪を巻いた左腕を伸ばす。
「魚焼く準備してるから、先に釣ってていいぞ」
「にゃーん! どっちが多く釣れるか競争ね。私が勝ったらお魚一匹貰うにゃ」
「おー、俺が勝ったらその尻尾、もふらせてもらうからな」
「うにゅ、絶対負けられないにゃあ!」
張り切る寧々子を見送ってコンロを準備して火をおこし、俺も寧々子から少し離れた場所に腰を下ろして釣り糸を垂らす。
日が真上にくる頃、ぐぅとお腹がなるのを合図に針を水から上げて寧々子に声をかける。
「おーい! ねここー!」
「にゃ」
バケツを持って寧々子のところへ行くと、猫耳をピンと立て尻尾をゆっくりと左右に振り、ウキをじっと見つめながら返事をする。
「こっちはアジがとメバルが一匹ずつだ。ねここはどうだ?」
「うにゅ…… メバルが一匹…… 今日は小アジばっかりにゃ」
釣果を報告すると猫耳と尻尾をだらんと垂らす。わかりやすいやつだ。
「はっはっは! 今日は俺の勝ちだな! よし、もふらせてもらうから覚悟しろよ」
「むっすー!」
今度は怒って尻尾を太くする。かわいいやつだ。
「にゃっ! 来た! このアタリはチヌの大物かにゃ!?」
「なにーっ!?」
「ふっふっふー、今日は私の勝ちにゃあ!」
寧々子は大物のチヌを釣り上げると満面の笑みをこちらに向け、猫耳と尻尾を嬉しそうにピンと立て、金色の目を光らせた。