ソロキャン男と猫憑き少女 前編
心地よい潮風に吹かれながら海岸沿いの街道をキャンプ道具満載のチャリンコで走る。快晴の真っ青な空、陽の光をキラキラと反射させる穏やかな海、久々の連休が絶好のアウトドア日和になって幸運だ。
辺鄙な田舎の小さな港町から離れて海沿いを走ってそろそろ二時間、ぐぅと腹が鳴ったところで丁度良さげな防波堤のある砂浜が見えてきた。明日も晴れの予報でキャンプするには持って来いといったところか。
「ここにすっかな」
チャリンコを路肩に停めて荷物を背負い、防潮堤を超えて降りてみると、防波堤と岩場に挟まれた三百メートル位の間に朽ちた漁業用倉庫が建つだけの小さな浜辺だった。
「おー、良い感じ。やっぱ今日はツイてるわ」
聞くやつなんて誰も居ないのに、嬉しくなってつい声に出してしまう。悪かったな、俺は外に出るタイプのインドア派なんだ。何をするにも一人で十分だぜ。畜生。
背負った荷物のうちテントと寝袋だけを砂浜に投げ出して防波堤に登り、先端まで歩いて界面を覗き込む。深さは五メートルくらい、海底の砂紋まではっきり見えるほど水は澄み、小魚の群れがキラリと光り、大きめの魚の魚影まで見える。
「さてっと、まずは火からだな」
リュックの中から小型の折りたたみコンロを出して組み立て、着火剤のパックを置いた上に豆炭を適当に並べてマッチ擦って放り込む。後は放っておけば良い。
それから釣り竿を組み立て、仕掛けを付けて、防波堤の端に座って足を投げ出す。スーパーの半額のシールが張ってある魚肉ソーセージの袋を破り、ビニールを剥がして一口かじり、一センチほどちぎって針に付け、水面に落とす。
釣りは好きだが、釣り方にこだわりなんてない。金をかけずにうまい魚が釣れりゃそれでいい。釣り方にこだわって結局釣れないんじゃ意味がないからな。
「ほれほれ、お前らの成れの果てだぞ」
魚肉ソーセージの原料なんて知ったこっちゃないが、魚だということだけはわかる。
そしてコンクリートの上に寝転んで雲一つない青空を見ながら、欠伸なんかしたりして、ぼんやりアタリを待つ。
五月の風が最高に気持ちよく、ウトウトしはじめた頃に一発目のヒット。軽い手応え、竿の先が小さくしなって揺れ、浮きが沈み水面に吸い込まれる糸がランダムに曲線を描く。
「あー、小アジか」
力を入れることもなく竿を上げると、案の定手のひらサイズの小アジが海中から姿を現す。
「お前の食った魚肉ソーセージは出世払いで返せよ」
衣でもつけて油で揚げれば美味いんだろうが、生憎そんな面倒なことはしない。針を外してポイと海に投げて帰してやり、もう一度魚肉ソーセージをちぎって針につけ、水面に落とす。傍らを見ると、コンロの着火剤は燃え尽き、豆炭がぱちぱちと音を立て、ほんのり赤く輝いている。
また寝転がって暫くアタリを待っていると、防波堤の外海側から微かに何か聞こえてくる。
――にゃおーん、にゃおーん
ウミネコ、じゃないな。この鳴き声はオカネコだ。ただの猫ともいう。どうせ釣り人のおこぼれ狙いの野良猫だろう。
――にゃおーん、にゃおーん
めっちゃ鳴いてるな。なんかさっきより鳴き声がでかくなってるし、しょうがないから相手しにいってやるか。
針を水から出して竿を置いて一段高くなった防波堤の向こう側を見に行くと、防波堤沿いに並ぶテトラポットに打ち付ける波の音が一層大きくなる。
「あれ? いないな……」
端から端までコンクリートの灰色でまっ平らな面に影一つなく、いつの間にか鳴き声も聞こえなくなっている。
「おーい、どこいったー?」
確かに聞こえたんだけど、呼びかけてみても波の音が返ってくるだけだ。気のせいだったかと釣りに戻ろうとすると、テトラポットにくすんだ赤い輪っかみたいな何かが引っかかっているのを見つけた。
どうせゴミなんだろうけど、ちょっと気になって釣り竿を取りに行き、海に落とさないように気をつけながら先に引っ掛けて拾い上げる。
見てみると赤い合皮でできた細いベルトに錆びた鈴と金具。ベルトの内側を見ると何か書かれていて、かろうじて読めるのは子供の筆致で一際大きく書かれた『くろ』という文字だけだった。
持って返っても仕方ないし、海にゴミを捨てるのは良くない。とりあえずその辺に置いといて再び釣りを続けることにした。
「お、きたきた。結構でかいぞ」
水面に針を落として暫く待つと、次のアタリはすぐに来た。強い手応え、竿の先端が大きくしなり、ピンと糸が張って水面で暴れている。今度はどうやら大物だ。
バレないように力を加減しながら竿を引いてリールを巻くと、すぐに海面下にキラキラ光を反射しながら暴れる魚影が現れる。二十五センチオーバーのアジだ。
「よし、昼飯ゲット」
水から上げて暴れる魚体を掴み針を外す。それからキッチンハサミをエラから差し込んで頭を落とし、ワタを抜いて海に捨てる。実にエコだ。
コンロに赤々と燃える豆炭を並べなおして網を敷いた上に惨殺死体になったアジを乗せる。これは絶対美味いやつだわ。
晩飯用にあと二匹は欲しいところ。時間も惜しいので焼いてる間にも釣りを続け、しばらくすると小さなアタリがあって引き揚げる。また小アジだ。針を外して海に投げると、コンロから香ばしい匂いが漂い、火に脂が落ちるジュージューいう音が微かに聴こえてくる。
丁度良い頃合いかと振り向くと、気配もなく女の子がしゃがみこんで網の上のアジを見つめていた。
「うわっ! びっくりした!」
「にゃ?」
思わず出た声に女の子がこちらを向き、目をまんまるにして首を傾げる。
艶やかなショートボブの黒髪、赤いラインの入った黒いセーラー服に黒い靴下、ちなみにパンツは白だ。
背格好からは中学校一・二年生といったところだが、明らかに中学生ではない。と言うか人間ですら無いだろう。
頭の上にはとんがった黒い三角の耳、楕円形の瞳孔を持つ金色に光る瞳、スカートの裾から覗く耳とおそろいの長くしなやかな尻尾。そして左手首には金色に光る小さな鈴がついた赤い首輪。どう見てもさっき拾ったのと同じやつだ。
女の子はすぐに俺への興味を失い、香ばしい匂いを放つアジを見つめて目を細める。
黒猫の耳と尻尾を持つその女の子は妖怪や幽霊と言うよりは妖か妖精といった感じで、邪悪な存在ではなさそうだ。まぁ、悪事を働くとすれば魚泥棒くらいか。
「くろ」
「にゃ?」
試しに呼びかけてみると、こちらを向くことなく返事をする。やっぱりそうか。
そうしている間にもアジの尻尾の先が黒くなって煙が立ち始めた。竿を置いてコンロを挟んだ向かい側に立つと、くろは逃げることなくじっとこちらの様子を観察し、危険がないことを理解すると興味を失ったように再びアジを見つめる。
アジをトングで挟んで裏返してやると、こんがりときつね色の焦げ目の付いた皮からじゅわっと脂が滲み出す。
くろはまんまるにした目を輝かせながらその様子を眺め、何かを訴えるように顔を上げて俺の目を見つめてくる。猫らしいというかなんというか、さっきまで俺に興味を示していなかったくせに、現金なやつだ。
アジがすっかり焼きあがり、こんがりきつね色の表面から白い湯気が立ち、辺りには香ばしい匂いが漂う。ちらりと視線を上げると黒猫の女の子が物欲しそうな目でこちらを見つめている。
「うん、うまそう。さて、食うか」
「にゃーん」
くろは耳をぴんと立て、尻尾をゆっくり左右に振り、目をまんまるくして、文字通り猫なで声で俺に訴えかけてくる。
「さて、食うか」
「にゃーん」
「やらんぞ」
「にゅーん」
割り箸を割ってアジを紙皿に移し、視界から隠すように背後に置くと、くろは耳を寝かして尻尾をだらんと地面に垂らす。
俺は知っている。これは人間を良いように操るための演技だ。猫というのはそういうふうに進化した生き物なのだ。こいつは生き物じゃないけど。
しかし、まぁ、いちいち反応が面白いから、ちょっとからかってやるとするか。
「しょうがないな。ほれ」
「うにゃ」
手元の魚肉ソーセージのビニールを半分剥いて渡そうとすると、ふいっとそっぽを向く。猫のくせに贅沢なやつだ。
「はいはい、半分やるからちょっと待ってろ」
「にゃあ!」
まぁ、元々そのつもりだったんだけど。
くろは耳と尻尾をピンと立ててお行儀よく座ってじっと待っている。人間の言葉は喋らないみたいだが理解はできるらしい。
割り箸で骨の付いてない半身を切り分けて紙皿に移して渡してやると、ちょっと匂いをかいで端っこからちょっとずつ齧っていく。やっぱり猫舌だったか。
はぐはぐと熱さを我慢しながら一所懸命食べる様子を見ながら、俺も骨の付いた方の半身から尻尾と背骨を外して身をほぐし、一口ほおばる。
美味い。
程よく脂がのって臭みもなく、炭火の香ばしい香りと潮の香りが口の中に広がり、淡白だけど味はしっかりしていて、まさに至福。
酒をキャンプ道具と一緒においてきてしまったのは失敗だったな。くろの方は程よく冷めたところを幸せそうに目を細めて皿の端からガツガツ食べている。
そうしてお互いあっという間に食べ終え、また釣りに戻る。くろはお腹がいっぱいになったようで、防波堤を行ったり来たりした後、俺の横の近くも遠くもない位置で丸まって寝息を立てている。
また小アジが釣れて、糸にぶら下がってピチピチ跳ねているのを寝ているくろの目の前に持っていってやったら迷惑そうに顔を背けて手で払う。どうやら雑魚には興味ないようだ。
幾つか小アジのアタリが続き、太陽は西に大きく傾き始める。ぐぅと腹が鳴り、アジを分けてやったことを後悔しながら魚肉ソーセージをコンロで炙って一口齧る。これはこれで美味い。気持ちよさそうに寝ているくろを睨んでも腹が立つだけだな。
「くろ、起きろ。お前も釣りしてみるか?」
「にゃあ?」
「こっちこい」
「うにゃーん」
くろは大きな欠伸をして起き上がり、もそもそと這い寄って隣にちょこんと座り、俺と同じように防波堤の端から足を投げ出す。こいつに人間的な動作がどのくらいできるのかは謎だが、とりあえず釣り竿を持たせてみよう。
「はい、これ、こうやって持って……」
「にゃ?」
「そうそう、そうやって持って、あのウキをしっかり見張ってるんだぞ」
釣り竿を渡して持ち方を教えてやると意外と様になっていて、耳をピンと立てて尻尾を左右にゆっくり振り、金色の瞳でじっとウキを見つめている。
「にゃ!」
「ん、来たか」
ウキが沈んで竿がしなると、くろが声をあげて尻尾を立てる。このアタリは小アジだな。手を取って一緒にリールを巻くと、すぐに自分から巻き始める。知性はよくわからんが釣りはできるらしい。
小アジが海面から上がると、糸にぶら下がってピチピチ跳ねているのを俺の目の前に持ってくる。自分で釣り上げても、やっぱり雑魚には興味ないようだ。
「はいはい、今外してやるからな」
小アジを外して海に投げて返し、針に魚肉ソーセージをつけて再び水面に落とす。
しばらくすると久しぶりの大きなアタリ。ウキが勢い良く沈んで糸が走り、竿が大きくしなる。
「ふぎゃーっ!」
「おっ、大物だな」
牙を剥き毛を逆立てて尻尾を太くしているくろから竿を奪い、一度鋭く竿を立てて合わせ、キリキリとリールを巻いていくと海面下にキラリと光る黒い影。
「おー、大当たり、チヌだぞ。良かったな、くろ」
「にゃーん!」
釣り上がった三十センチぐらいのチヌを見せると目を細めて喜んでいる。
アジと同じようにハサミで頭とワタを取りヒレも落として海に捨てて、残った身をレジ袋に放り込む。これは晩飯用だ。
「にゃ! にゃ!」
「わかってるよ。ちゃんと食わせてやるから安心しろ」
そろそろテントの準備をしないといけない。釣り竿はくろに任せておけば見張りくらいの役には立つだろう。
荷物を背負い、火の付いた炭を移した缶とコンロを持って防波堤を降り、ベンチ代わりになりそうな流木があるちょうど良い場所を見つけてテントを組み立てていると、そう遠くない距離に見える防波堤で釣り竿を持ったくろが大騒ぎしだした。
どうやらアタリがあったらしい。
急いでくろのところに戻ると、丁度中くらいのサイズのメバルを釣り上げたところだった。
「おっ、お前が釣ったのか? えらいえらい」
「ふにふに」
頭を撫でてやると満足気に目を細め、鼻を鳴らす。こうしているとなかなか可愛いやつだ。断っておくが、俺はロリコンではないので変な意味はない。
もう一匹ぐらい釣りたかったが、その後は小アジばかりが続き、日が沈む前に釣り道具を片付けてテントに引き上げた。