雪の春
カーテンを開けると一面の銀世界が広がっていた。
「初雪だ!」
聞いている人は誰もいないのに、私は思わず叫んでしまう。
窓辺で雪景色を眺めていると、台所から「チン」という音が聞こえてきた。
トースターから飛び出したパンは不均一に焼き目が付いていて決して綺麗とはいえない。
でも、私はこのトースターでパンを焼くのが好きだった。
トースターは一人暮らしを始める時に実家から持ってきたものだ。
物心ついた頃にはもう家にあったから、ずいぶんと年季ものなのだと思う。
でもまだまだ使えるし、小さい頃から苦楽を共にしてきた相棒という感じがして愛着があった。
いつも通りの日曜日だった。
トーストを食べて、洗濯をして、掃除をして。
でも普段よりちょっぴり楽しく感じてしまうのは、やっぱり雪が降っているからだろう。
―・―・―
外はとても静かだった。
まるで、すべての音が雪に吸い込まれていくように。
いつもならテレビを点けながらアイロン掛けをするのだけれど、今日はこの静寂を楽しむことにした。
エンジンの音が静寂を破った。
宅急便だろうか?こんな日まで大変だ、と思う。
しばらくすると、隣の部屋から何やら慌ただしい音が聞こえてきた。
確か隣は空き部屋だったはずだけど。
気になってドアを開け様子を伺うと、どうも引越しの荷物が運ばれてきているみたいだった。
そうか、最近誰かが入居したんだ。
どんなお隣さんなんだろう。
早くお会いしてみたい。
と思っていたら、ちょうどそのお隣さんらしき人が部屋から出てきた。
二十歳前後だろうか。私と同い年かちょっと年下くらいの女の子だった。
「あのっ、騒がしくしてごめんなさい!」
彼女は、私を見た途端ずいぶんと恐縮してぺこりと頭を下げた。
そんなに低姿勢だと逆にこっちが恐縮してしまう。
「違うの。ぜんぜん平気だから!ただ少し気になって様子を見てただけ」
「なら良かったです。でも、迷惑に感じたら遠慮なく言ってくださいね」
彼女はもう一度お辞儀をした。
ずいぶん礼儀正しい子みたいだ。
「迷惑なんてことないよ。それより引越しの準備大変じゃない?手伝おうか?」
私がそう言うと、彼女はそれこそ恐縮したように手をブンブンと降って
「そんな、とんでもないです!お忙しいでしょうし、そこまでご迷惑をお掛けするのは……」
と言った。
慌てる彼女の姿が何だか可笑しくて、私はつい笑ってしまった。
「遠慮しないの!むしろ暇でこれからどうしようか考えてたとこ」
実際暇だった。
掃除も洗濯もすべて終わってしまっている。
「そこまで仰るならお言葉に甘えてしまってもよろしいでしょうか?」
と彼女が言うので、私は一度自室に戻って身支度をしてから隣人の部屋にお邪魔した。
大きめの家具やなんかは引越し屋さんがセットしてくれていたのであとは残りの段ボールを広げるだけだったけど、そんなに荷物も無いようで昼過ぎにはすべて片付いてしまった。
「お腹空かない?せっかくだし何か食べに行こうか」
と提案してみると、彼女は
「いえ、私が作ります」
と言う。
折角なのでご馳走になることにした。
「あ、でもその前に買い出しに行かないといけませんね。すぐに済みますので待っていてください」
彼女がさっさと立ち上がろうとしたので私はそれを制した。
「私も手伝うって」
「えっ?そんなっ、さっきまでもあれだけ手伝ってもらったのに、これ以上は申し訳ないです!」
「気にしないで、何もしないで待ってる方が退屈だから」
そう言って、私は軽快に立ち上がった。
―・―・―
こんな雪の日でも駅前の商店街はそこそこの賑わいを見せていた。
年末とあってあちらこちらに飾られたクリスマスツリーがちょっぴり眩しい。
「そういえばもうすぐクリスマスかぁ」
ただの世間話のつもりだったが、彼女は不思議そうに私を見た。
あれ、何か変なことを言ってしまったかな?と首を傾げていると、彼女がこんなことを言う。
「もうすぐっていうか、今日がクリスマスイブですよ?」
ああ、すっかり忘れていた。
とりわけ誰かと過ごす予定も無かったから準備も何も無かったし仕方ない。
とはいえ、そうと分かったら目の前の彼女にプレゼントの一つくらいは買ってあげたくなった。
ちょうど雰囲気の良さげな小物屋さんを見つけたので後で寄ろうと脳内メモに書き留める。
「寒いですし、お鍋にしましょうか」
「いいね」
白菜、お豆腐、ネギ、シイタケに豚肉、その他もろもろ目に付いた食材を次々とカゴの中に放り込んでいく。
お醤油や砂糖、みりんなんかの普段から使う調味料も一緒に買っておいた方が良い。
加えてティッシュやトイレットペーパーにサランラップ、アルミ箔といった日用品までまとめて買い込むからあっという間に大荷物になった。
「お蕎麦も買わないといけませんね」
そう言って彼女はお蕎麦の箱をいくつかまとめてカゴに入れた。
「それ引っ越し蕎麦?」
と聞くと彼女はコクリと頷く。
「でもこんなにまとめ買いしたらちょっと申し訳ないですね」
「どうして?」
「年越し蕎麦の時期ですから。まるでお蕎麦が品薄になる時期に合わせて買い占めてるみたいで悪いです」
なるほど、遠慮がちな彼女らしい発想だ。
「そんなこと気にしなくていいんだよ」
と私が言うと、彼女は安心したように笑った。
―・―・―
買い物帰り、私は行きに目をつけていた小物屋さんの前で足を止める。
「ごめん、悪いけどちょっとここで待っててくれるかな?」
「あっ、ぜんぜん構わないですよ」
寒い中彼女を待たせるのは申し訳ない。
なるべく早く買い物を済ませよう。
狭い店内には店主の趣味が雑多に詰め込まれていた。
小さな宝石が埋め込まれた指輪、カモシカを象ったガラスの置物、蓋に綺麗な絵画が描かれたオルゴール、端の方に赤い花の細工がついた髪留め。
本当にいろいろなものがあって見ているだけで飽きない。
どれもプレゼントにはぴったりに思えて困ってしまう。
でもやっぱり、折角プレゼントにするなら普段から使ってもらえるものがいいなと思った。
迷った末、私はお店の片隅にまとめて置かれていた食器たちの中からマグカップを手に取った。
側面に大きく羽を広げたカモメが描かれたマグカップだ。
レジでプレゼント用の梱包をしてもらい、しっかりとバッグにしまってから店を出る。
商店街を出る間際、私は思い立ってもう一度彼女を呼び止めた。
「折角だしクリスマスケーキ買っていかない?一緒に食べようよ」
「いいですね!定番ですけどイチゴのショートケーキが食べたいです」
「私イチオシの洋菓子店があるから案内するよ」
「ぜひぜひ!」
引っ越してきたばかりの人に地元のお店を紹介するのはなかなかに気分がいい。
彼女は彼女でどんなお店なのか相当に気になっているようで、二人とも軽快な足取りで粉雪の舞う商店街を進んだ。
店内には甘い香りが満ちていた。
「いいですね。甘いものって、匂いだけでも幸せになれちゃいます」
そう言う彼女は本当に幸せそうだ。
「こんなお店知っちゃったら、毎日通っちゃいそうで怖いです」
「甘いもの好きなの?」
「はい、それはもう大好きです!」
それは何より。
尚更このお店を紹介した甲斐があった。
結局、イチゴのショートケーキをホールで買うことにした。
私が奢ると言っても、彼女は
「ダメです。私もちゃんと払いますよ!」
と言い張る。
本当に遠慮深い子だ。
「本当にいらないって。その代わり後でお昼ご飯作ってもらうんだし」
と言って何とか説得した。
―・―・―
買い物やら何やらで時間はあっという間に過ぎ去り、昼ご飯を食べる頃には午後3時を回っていた。
外出で冷えた体にお鍋の熱さが染み渡る。
「すごく美味しい」
私が言うと彼女は心から嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいです!」
「料理はよくするの?」
「そうですね。実家にいた時は3日に1度くらいのペースで作ってました」
「偉いなあ。私なんて一人暮らしになってからもほとんど自炊してないよ」
平日は仕事帰りで料理を作る気力が湧かないというのもあるけど、休みの日は休みの日で出来合いのものを買ってくればいいや、となってしまうのだ。
私も目の前の少女のように女子力を身につけた方が良いんだろうか。
「それなら、毎日私が作りましょうか?自分1人の分だけ作るより、他に食べてくれる人がいた方が私も嬉しいですし」
「本当に!?私の分も作ってくれるの?」
「任せてください!」
なんということか。引っ越してきたお隣さんは天使でした。
「本当に嬉しい。あ、もちろん食費はちゃんと払うからね」
「申し訳ないんですけどお願いします。本当はいらないって言いたいけど、私も学生で親から仕送りをしてもらっている身分ですから」
「学生なんだ。しっかりしてるね」
「大学生です。実家からも通えるんですけど、片道で2時間くらいかかってたので引っ越すことにしました」
「へえ」
私は感心しきりだった。
まだ大学生なのにこんなにしっかりしていて性格も良くて、おまけに料理が上手だなんて反則すぎる。
将来彼女をお嫁にもらう人は間違いなく幸せ者だ。
そんなことを思いついてしまったから、私はつい勢いで言ってしまった。
「うちにお嫁に来ない?」
もちろんただの冗談だ。それは彼女も分かっているはずだけど、
「おおお嫁さん!?あのあの、それはあの、でもでもっ……はわわ!?」
あ、あれ?思った以上に動転してる?
「ちょっと落ち着いて!冗談だから!」
「あ、そ、そうですよね……」
何とか落ち着いてくれたのは良いけれど、今度はシュンとして俯いてしまった。
「もしかして、本気にしちゃった?」
「そうじゃないですけど、でも……」
続きを待っていたけれど、それきり彼女は口を閉ざしてしまった。
気まずい沈黙が訪れた。そのまま長い時間が過ぎて……。
そしてついに彼女が口を開いた。
「実は私、人を好きになったことがないんです。だから、好きってことがどういうことなのかがよく分からなくて……」
「そうなんだ……初恋の相手とかいなかったの?」
「はい、恋をしたことは一度もありません。だから時々思うんです。私はこれからどうなるんだろうって。このまま誰も好きになれないまま、ずっと一人で生きていくのかなって」
「……ごめん、何も考えずにあんなこと言っちゃって」
「謝らないで下さい。貴女が悪いわけではないです。悪いのは私の方。だって……最近よく思うんです。結局私は、自分を求めてくれる人の側にいられればそれで良いんじゃないかって。おかしいですよね。そんな私ばっかり愛を受け取るような関係じゃあまりに相手の方に申し訳ないです」
冗談とはいえ、軽率な発言をしてしまったことに今更ながら赤面した。
もっと真剣に彼女と向き合わなくちゃいけないと思った。
私は考えた。
もし私が本当に彼女のパートナーになったら。
きっと彼女はどこまでも私に尽くしてくれる。
その理由は愛でも恋でも打算でもなく。
好きという感情を知らない彼女は、ただ純粋に私に求められていることを生き甲斐にして。
私の気持ちは、いつまでも一方通行のままだ。
……いや、違う。
私の愛は決して一方通行なんかじゃない。
だって、彼女は自分を愛してくれる人のためにたったそれだけの理由でこんなにも尽くすことができる。
それが愛じゃなくて何だというのだろう?
「無理に誰かを好きになる必要なんてないんじゃないかな。そんなことしなくても、あなたには誰よりも深く人を愛する才能があるはずだから」
「え……この私が、ですか?」
「私が自信を持って保証する。さっきはあんな風に言ったけど、冗談抜きであなたがお嫁さんだったらきっと幸せだろうなって思うよ」
相手が女の子だとか、もうそんなこと関係ない。これが偽りのない私の本心だ。
少しの間があって、それから彼女は言った。
「嬉しい……そんな風に言ってくれる人初めてです。でも、貴女にはまだまだ長い人生があります。だから、もし10年経っても貴女が同じ気持ちでいてくれたなら、その時は私をもらってくれますか?」
健気な願い。切なく揺れる瞳。
こんなの反則だ。
キュンとするなという方が無理な話じゃないか。
「もちろん。10年と言わず今すぐだっていいんだからね!」
私は衝動的に彼女を抱きしめた。彼女の小さな体が私の腕の中で熱を帯びていた。
―・―・―
気づけば外はもう真っ暗になっていた。
夜闇にはらはらと舞う雪が幻想的だった。
「そういえばこれ。クリスマスプレゼント」
私は、包装紙で綺麗に包まれた箱を彼女に手渡した。
中には先ほど買ってきたカモメのマグカップが入っている。
「えっ、私に!?本当に良いんですか!?」
彼女は目を丸くした。
「実はさっき帰りに寄ったお店で買ったんだよ。開けてみて」
「そうだったんですね。すぐに開けてみます!」
よほどびっくりしたのか、彼女は何度も手を滑らせそうになりながら包みを開けた。そして、カップの面に描かれた絵柄を一目見た瞬間
「あ、これカモメですか?可愛い!」
と感嘆の声を上げた。
私は少し気取って
「気に入ってくれたなら何より」
なんて言ってみたけれど、内心はとても高揚していた。
―・―・―
その後は、ラジオから流れるクリスマスソングをBGMにまったりとケーキを食べた。
幸せそうにケーキを頬張る彼女の姿はまるで夢の世界のお姫様みたいだった。
「クリスマスケーキのイチゴって何でこんなに美味しいんでしょう?」
「イチゴは旬じゃなくても美味しいよね。ハウス栽培万歳」
「旬といえば、イチゴの旬って春ですよね。そっか……クリスマスって春みたいに暖かいから。だからイチゴも美味しく感じるのかも知れません」
春みたい、という喩えは雪の降るクリスマスイブには似つかわしくないようにも思えたけれど、私は頭の中で彼女の言葉を反芻してみた。すると、なんだか心の中から郷愁のようなものが湧いてきて……そして思い出した。
私もかつて春のように暖かいクリスマスを過ごしていたことを。
滅多に顔を合わせない父が、クリスマスの日だけは早く帰ってきて一緒に夕食の席を囲んだ。
それが枕元に置かれるクリスマスプレゼントよりも何よりも嬉しかったのだ。
「一人きりで寂しくなるなって思ってたんです」
と彼女は言った。
「だから、貴女といられて私は本当に幸せ者です」
「私も。あなたが引っ越して来てくれて本当に良かった」
私はもう一度彼女を抱きしめる。
彼女の熱が陽だまりのように私を包み込んだ。
―・―・―
彼女の部屋を出ると外は春だった。
枝葉に雪を纏った木々は咲き誇る夜桜で、降り注ぐ雪ははらはらと舞う花びらだ。
身体の中に灯った炎が吹きつける風に揺れる。
雪の春。
それはとても暖かくて、愛しくて、儚い。
私は、その温もりが決して消えないように心の奥に焼き付けた。