ヴァイオリンと舞踏会
弓が宙をきった。
「こんな曲、初めて弾いたわ」
一曲弾き終えて、ジュリアは満足そうに譜面から目を離した。
「まあまあだったと思うけど?」
「なんだか見慣れない記号や奏法も書いてあって、難しかったし」
「そりゃそうだろうな」
シーズは座っていた石段から腰を上げた。
ジュリアがヴァイオリンの腕を披露していた場所は、奇麗に手入れされた庭だ。バラやすみれやスズランが、季節に関係なく咲いている。奇妙でもあったけれど、殺伐とした他の庭を思えば何倍も良い。他の窓から見える庭は、北の山だからか暗い表情しか見せない。なぜこの庭は暖かいのだろうか。
「この庭は不思議な庭ね。暑くはないけれど、他の庭よりも暖かいわ」
「温泉が湧いてるからだ」
「温泉? 良いわね、今度場所を教えてよ」
「ただじゃ教えないね」
「交換条件?」
子どものいたずらのような、ささやかな楽しみ。日陰にいるシーズが、日向のジュリアを眩しそうに見た。
「気が向いたらな」
「何よ、ケチね」
「そんな挑発には乗らないぜ。また今度。俺は果樹園に行くから、あんたは早く城に戻れよ」
「もうすこし散歩をしていくわ」
「言うこと聞かねえ女だな。男みたいにごついし」
「男みたいで結構! 私は私の行きたい所へ行くわ」
ジュリアはヴァイオリンをシーズに押し付けると、城の方へ向かってずんずん歩いていった。
ふわりと、懐かしい香りがした。
「……こんな所に、レモンの木が植えてあるなんて」
湿っぽい土、イバラに絡めとられてレモンの木が弱々しく立っていた。
「今度シーズに分けてもらおうかしら。レモンパイが食べたくなっちゃった」
夕食前に、アルベルト達三人は戻ってきた。その少し後、ざあざあと激しい雨が降り出した。
「これは長く降りそうだね」
アルベルトはそう言って夕食の卓についた。シルヴィアは少し具合が悪いらしく、部屋にこもってしまった。そのせいで止める者がいないため、アンナはずっと大好きなマッシュポテトばかり食べている。
「もうすぐ舞踏会があるのに。道が塞がれなければいいんだけどね」
「アンナも行きたい!」
「アンナはもう少し背が高くなったらだね。パートナーも見つけなくてはならないし」
「舞踏会って、」
「山の向こうで開かれるんだ」
ジュリアの意を汲んだように、アルベルトは説明してくれた。
「ここは国境が曖昧でね。山の向こう側のルヴェンという城で毎年開かれている舞踏会に、今年も招かれたんだ。シルヴィアにいつも練習相手をしてもらっていたんだけど、体調がすぐれないらしいからね」
ゴブレットから水を口に含んで、アルベルトは残念そうに目を閉じた。
「シルヴィアの体調さえ良ければなぁ」
「ジュリアは踊らないの?」
「私? あんまり踊らないわね」
「でも、リセーナだとたくさんダンスパーティーあるんでしょ?」
「まあね。でも私はあんまり出席しないの。理由は秘密よ」
「なんでー」
「恥ずかしいから」
ジュリアは肩をすくめた。
ジュリアがダンスを人前で踊らない理由は、彼女にとっては深刻だった。ダンスの師範が言うには、ジュリアのダンスは出来すぎていて相手が大変、とのこと。背も高く、肩幅も広く、筋力のあるジュリアはどちらかというと男性パートの方が合っているらしい。
「アンナ、ポテトの他には食べないのかい」
「今日のは美味しくないんだもん」
「ジュリア、もうシーズには会ったかい?」
ジュリアは口に運ぼうとしていたサラダを、皿へと置いた。
「ええ。今日の昼くらいに。クロックムッシュを作ってもらったわ」
「へえ、そんなものも作れるのか。知らなかった」
「兄弟なのに?」
アルベルトは苦笑した。
「あいつについては知らないことの方が多いんだ」
ヴァイオリンはViolinですからヴァイオリンなのです、というちょっとした主張……というわけではなく、気分です(´∀`)