契約の泉
「さあ、俺と契約するか、しないか。契約するなら、今からあんたを殺すのをやめてやるよ」
シーズはジュリアの首筋で、ナタの刃を滑らせる。さりさりと、産毛が切られる音がした。
「ちょっと、うっかり髪の毛が切れたらどうするのよ」
思わずジュリアは声を上げた。
「どんな女の子だって、髪の毛は特別大事にしてるのよ」
「軍人でもか?」
「ええ。軍人に必要なくても、作戦には必要かもしれないわ」
「へえ。そんなもんか。で、どうする?」
楽しそうなカオ。微妙にイラッとする。
ジュリアは思った。
今こんなことで死ぬ必要はないでしょう。
悪魔と契約をしたって、契約書を破れば契約は破棄されるわ。
それに、私は軍人になるのよ。『一生無敵』、素敵じゃない。
「いいわ。あなたと契約する」
シーズは、ジュリアの首からナタを離した。
「そうくると思ってたぜ」
嬉しそうにナタを腰にぶら下げると、ぶつぶつと何かつぶやいた。
足下に、光の模様が浮かび上がる。
「……魔法陣……?」
「そうだ。女子が大好きなオマジナイにも出てくるだろ」
シーズの声が聞こえた。姿が見えない。
足下が、ざわっとうごめいた。
「!?」
周りの景色が違う。
部屋の中じゃない。
ジュリアは、森の中の小さな泉の前に立っていた。
「契約するなら、その泉の中に入れよ。服は着たままで良い」
上の方からシーズの声がする。泉からは湯気が立つ。前に言っていた温泉のことだろうか。
「これ温泉?」
「ああ、そうだ」
「服のまま入ったら、ぬれるわ。帰りはどうするの」
「それくらい一瞬で乾かしてやるよ。生きるか死ぬかなのに、そんなこと気にしてんのか、あんた」
悪かったわね、とは口にしなかった。
やっぱりイラッとする。
「さっさと入れよ」
ジュリアは泉に背を向けて歩き出した。
「え、ちょ……契約はどうすんだよ、おい!」
「契約?」
ジュリアは泉の方を振り返った。
「あんなに美味しい契約だもの」
裾を持ち上げると、自慢の俊足で走り出す。
「するに決まってるでしょ!」
泉の手前で踏み切る。黒い影が宙を舞い、泉がしぶきを上げる。
「飛び込むかよ、フツー……」
あきれたシーズの声が、波紋の広がる泉の上に響いていた。
泉の中は、驚くほど奇麗だった。
上を見上げれば、日の光が揺らめいて、水草は優雅に水の流れに身を任せ、ジュリアの息は大きな真珠のように、上へと昇ってゆく。
奇麗。
体を動かしたくない。
このあたたかさの中に、ずっとずっと身を置いていたい。
動かさなければ沈んでしまう。
どうしようか。
ジュリアは抗いもせず、ただあるがまま、泉の底へと沈んでいった。