諏訪零司の場合
平凡な日常。
誰もが当たり前に享受し、しかしどこかでそれを拒絶する。
誰もが心の何処かで、それが終わることを望んでいる。この退屈な灰色の時間の終わりを告げる、ドキドキする様なスペクタクルを。
それはこの男子高校生―― 諏訪 零司も同じであった。
だが殆どの人間は、万が一にでもそんな事態に巻き込まれたなら、確実にこう言うだろう。
「冗談じゃない、平和な日常を返してくれ」と。
彼らが望むのは主役ではない。大スクリーンで映画でも観るかのように、安全なところからそれを見る傍観者。
「冗談じゃねぇ……! 何なんだよ、これはぁっ!?」
目の前に広がる光景に零司は叫ぶ。それが何の解決にならないと分かっていても、それ以外に出来る事が何一つ無かったのだ。
砂埃が風に舞い、狂乱が零司を包みこむ。足元にはジュースと菓子の入ったコンビニ袋が落ちていて、零司の後ろには膝を付いて息を荒げる少女。そして零司の正面には三つの、まるで巨人のような―― 否、実際にそれは巨人であった。
一つは筋骨隆々という言葉が生易しく思える程に、とんでもない体躯をした一つ目の巨人。
一つは、巨大な岩を粗雑に削り出したかのような姿をした寸胴な巨人。パラパラと欠片が落ちていく様に恐怖を感じてしまう。
最後の一つはゴーレムと同じ姿ながら、しかしその体が金属で出来ていた。
三体の巨人の瞳は零司を捉え、今にも動き出さんとしている。零司は思わず息を呑んだ。その身を支配する恐怖の前に、周囲から響く狂気のような熱気の叫びも耳には届かない。
平和で退屈な日常は、無くしてからその価値が分かる。逆に言えば、無くさなければその価値に気付く事はないのかも知れない。
何故、どうしてこうなったのか。零司はひたすらに誰かに問い続けた。
運命の日は木曜日。何時ものように寝坊寸前で跳ね起きて、学ランに袖を通すや、マウンテンバイクで全力疾走。
滑りこむようにして駐輪場にイン。昇降口に飛び込んで、一気に階段を駆け上がる。
教室に駆け込んだ瞬間、担任の出席簿の一撃。ズキズキと痛む頭をさすりながら、午前の授業を消化。昼休みは学食で、デラックス天ぷらうどん大盛りを食いながら、弁当を掻っ込む。
午後の授業は睡魔と闘いつつ、結局は敗戦。気が付けば放課後、ヨダレの海と化した自分の机に驚愕。慌てて拭きとって、顔を洗いにトイレへ。
そうして、駐輪場に着いたところで気が付く。自転車のカギが無いのだ。
幸いにして自宅に帰れば予備の鍵はあるが、しかしこれでは帰りはバスだ。本来使われる筈のないバス代は、財布に地味に痛い。
「はぁ……ツイてねぇなぁ……」
などと溜め息を吐きつつ、テクテクと歩く。夕暮れの街は帰宅する人の流れで、歩き難い程度に混雑していた。
途中のコンビニで炭酸飲料とポテトチップスを買い、再び帰宅を再開。大通りの信号待ちの最中に、今の時間を携帯を開いて確認する。
「この時間だと、次は……38分か?」
うろ覚えのバスの時刻を思い出しながら、独り言ちる。信号が青になったので、零司も携帯をしまって周囲に合わせて歩み出した。
―― ……こ……者………わ……えを聞………え――
「っ……!?」
突然、脳内に声が響いた。そうとしか表現できない現象だった。キョロキョロと辺りを見回すが、誰も零司を見ていない。
何故なら、零司以外の人間、車、鳥、向こうを走る野良猫に至るまで全てが静止していたのだ―― 白黒に変わった世界で。
「な……何だよ、これは……っ?」
零司はふと、自分の足元が光っている事に気が付いた。
淡く光る二重真円。その間には、見た事の無い文字が羅列している。そして円の内側には、菱形を十字になるように置いたみたいな物が描かれていた。
―― この…えを聞く者よ、我が……を聞き………けに……えたまえ――
更に脳内に声が響く。先程よりもハッキリと聞こえるそれは、少女のもののようであった。
「クソッ、一体誰だよ!? これも、全部お前がやってんのか!? 意味分かんねえよ! もっとハッキリ喋りやがれ!!」
理解出来ない現象に苛立って、ついに怒鳴り散らす。怖いと思う気持ちよりも、理不尽なこの状況に対する怒りの方が上回ったのだ。
その瞬間、異変が更に起こった。足元の魔方陣―― 少なくともそう表現するのが妥当であろう―― が、強く輝きを放ったのだ。
「なっ……!?」
目も眩む輝きに、零司は目を閉じる。瞼の向こうからでも分かるほどの輝きに、それでは足りないと手で顔を覆い隠した。
「うわっ!?」
直後、全身を襲う浮遊感。ガクン、と落ちる感覚。あれ程に眩しかったものが消え失せ、全身に突風がぶち当たるのが分かる。
零司が目を開くと、そこは―― 何処なのだろうか、真っ暗な場所を、ひたすらに落ち続けていた。
時折、真っ暗な中に光の粒のような物が通り過ぎていくのが見える。
「な……なななななな~~~~~~~っ!?」
驚きと悲鳴と困惑とが混じり合った奇妙な声を上げて、零司はその空間を落ちて行く。
どれほど落ちていただろうか。何かが此方に向かって上がってきてるのに気が付いた。
「何だあれ……?」
豪く遠い筈なのに、その姿がはっきりと見える。物凄い速さで落ちている筈なのに、とてもゆっくり距離が縮んでいる。
緑と白を基調とした、どこかの民族衣装であろう服装。所々に金の装飾が施されてある。
「えぇっ!?」
ついに交差して通り過ぎる瞬間、零司は驚きに目を見開く。
その装束を纏った誰かは零司と同じ年頃の男性であった。黒髪の短髪、目は多少ながらツリ目気味で、精悍な顔つきとは言えない、幼さの残る顔立ち。
その顔を、零司はとても良く知っていた。生まれてからずっと、一日としてそれを見ない日など無かったからだ。
「……俺?」
思わず呟くと、向こうは何か可笑しそうに笑った。そしてそのまま、入れ替わるように上へと行ってしまった。
待ってくれ。そう言おうとするよりも早く、真っ暗な世界が終りを迎える。
「またっ……!? うわぁあああああっ!!」
この空間に来た時のように白い光が弾けて、世界を塗り替えた。
光が収まった瞬間、世界は一変していた。
どこまでも広がる地平線。連なる山々。広大な森と、そこを切り開いて作られたのであろう、巨大な街。街の奥にはまるでヨーロッパかファンタジー世界にあるような城。
何故そんな事が分かるのかといえば――。
「うわうわうわぁあああああああああああああああっ!?!?」
零司の体が空中―― 街どころか、周囲を見回せる程の高さに投げ出されていたからだ。
こんな高さからパラシュートも無しで落ちたなら、間違いなくミンチになるだろう。
だがしかし、奇妙な事が起こった。恐怖に顔を歪めながらも、しかし意識だけは無くさないでいる零司の体が、徐々に何かに引っ張られていくのだ。
「……!?」
これ以上何があるのかと、零司は恐らく引っ張られる先であろう場所に目を向けた。
そこにあったのは、歴史の教科書で見たことのある〈コロセウム〉に良く似た場所だった。
そこを認識した途端、零司を引く力が強まった。視界が歪み、まるで拡大鏡でも覗き込んだかのように、視界がグニャリと歪んでいく。
「――― ッ!?!?」
地面が、あっという間に近づく。悲鳴さえ上げられずに、零司は地面へと叩きつけられたのだった。
「……うぅ……ゴホゴホッ!」
いきなり埃っぽい空気を吸い込んでしまい、咳き込む。と、そこで零司は自分の体を慌てて確認した。
あれだけの高さから落ちたにも関わらず、その体には怪我一つなく、土煙で学ランが汚れた程度であった。
取り敢えずミンチになっていない事に安堵し、零司はズボンの汚れを叩いた。
一体、ここは何処なのだろうか。豪く賑やか―― というよりやかましい―― 場所のようだが、先程の〈コロセウム〉だろうか。
「あ……あなた、誰?」
「え?」
背後から掛かった声に、間の抜けた声と共に振り返る。そこにいたのは、真紅の宝石の付いたペンダントらしき物を握りしめた少女。
背中まであるハニーブロンドの髪と、エメラルドの瞳が印象的な、零司と同じ年頃であろう美少女。
銀色のガントレットや、チェストアーマーは欠けて、汚れて、ひび割れているし、晒された素肌には擦り傷や切り傷が、数え切れない程にあるのが分かった。
何でこの子はこんな格好をしているのか? 何でこんなに怪我をしているのか? そもそも、ここは何処なのか? などと考えていると、不意に地面が揺れ、背筋が寒くなった。
まるで巨大怪獣でも歩いているかのような―― 実際に、そんなのを体験した訳ではないが。
零司は恐る恐る振り返る。振り返りたくないという思いを捩じ伏せて、勇気を出して振り返った。危険に対して曖昧な認識のまま行動すれば必ず失敗する。だから、何がどう危険なのかをしっかり認識することが大事なのだ。
「冗談じゃねぇ……! 何なんだよ、これはぁっ!?」
そして零司は、振り返った事を激しく後悔した。そこにあったのはとても常識では考えられないような状況―― 壁のような三体の巨人が、自分を見ている光景だった。
「くっ……こうなったら仕方ないわ」
少女は立ち上がり、零司にその細い指先をビシィ、と突き付けて言った。
「クレア・トアデュヒターの名において命ずる。あれと戦い、殲滅しなさい!!」
「出来るかぁっ!!」
理不尽過ぎる言葉に、零司は思わず叫んでいた。