はじめて、あなたと。 -午後9時過ぎの焼肉店で-
――誰にだって、はじめてはあるもので。
『はじめて、あなたと。 -午後9時過ぎの焼肉店で-』/未来屋 環
――じゅう、と音が鳴る。
私はトングを手に肉の焼き加減を見つめていた。
「……すみません、何から何まで」
向かい側から投げかけられた低い声に、ちろりと視線を上げる。
そこにはワイシャツ姿の男性が座っていた。
もう夏だというのに長袖を欠かさないその姿が涼しげに見えるのは、白地を縦に走るネイビーのなせる業だろうか。
眼鏡を直す手元の袖口にシルバーのカフスボタンが光る。
「――いえ、私が焼肉誘ったんですから、別に」
ちょうどタン塩に火が通ったのでひっくり返した。
高級店の分厚いものよりこのくらい薄い方が私は好きだ。
「松阪さんすみません、すぐ火通っちゃうのでお皿のご用意を」
「あ、はい」
松阪さんが少しもたついてから小皿を持ち上げる。
職場での冷静な様子からは考えられない姿だ。
内心意外に感じつつ、肉の色が変わったところで素早く松阪さんの皿の上に肉を置いた。
「タン塩です、どうぞ」
「……これがタン塩」
松阪さんがしげしげと肉を見つめる。
その様子に、自分がはじめて焼肉屋に行った時もこうだったろうかと幼少期に思いを馳せた。
――そう、はじめて。
松坂さんは、はじめてなのだ。
事の発端は定時間際に飛び込んできた一本の電話だった。
「――えっ、今からですか?」
応対する課長の驚いた声に皆の肩がぴくりと反応する。
どう考えてもろくな話でないことは明らかだ。
瞬時に隣の席の先輩は「あたしトイレ」と席を立ち、前の席の係長は「俺タバコ」と姿を消す。
――さて、私はどうしよう。
トイレはさっき行ったばかりだし、タバコは吸わないし……なんて余計なことを考えていたら完全に出遅れた。
「近江、ちょっといいか?」
まったくよくはないが、上司の指示には従わざるを得ないのが会社員の悲しき性である。
逃げ遅れた私は「……はい」とゆっくり返事することでせめてもの抵抗を見せる。
結果ものの見事に残業が確定し、私はディスプレイを睨みつけながら急ぎの資料を作っていた。
先輩も係長も「今日用事があって……」と一応申し訳なさそうな体で去っていく。
それはそうだろう、何といっても今日は花の金曜日。
私だって今頃は家に帰って……まぁ予定はないのでゴロゴロしながらTVを観るのが関の山だけれど。
――しかし、その時思いもよらないことが起きた。
「近江さん、手伝います」
そう声をかけてきたのは隣の係の係長、松阪さんだった。
「え、松阪さんいいんですか?」
「はい、こういうのは分担した方が早いでしょう」
正直なところ松阪さんとはそこまで話したことがない。
仕事のできる真面目なひと――そのくらいの印象しかないけれど、ありがたい申し出であることには変わりない。
結局ふたりで資料を作り終え、課長にメールを送ったのは午後9時を回る頃だった。
「はー、やっと終わった……松阪さん本当にありがとうございました。私ひとりだったら終電だったかも知れません」
「いえ、近江さんこそ急なお仕事おつかれさまでした」
松阪さんがぺこりと頭を下げる。
なんていいひとなんだろう、完全な巻き込まれ事故だというのに。
それにしても、おなかがすいたなぁ……お昼も軽めだったし、こんな日はがっつり焼肉でも食べたい気分だ。
そう思った瞬間、ぐぅとおなかが鳴る。
あまりにも正直な腹の虫に思わず赤面すると、松阪さんが「……あの」と口を開いた。
「何か軽く食べて帰りますか? もちろん近江さんがよろしければ、ですが」
「えっ、あ――はい、軽くと言わずしっかり食べたいです。例えば焼肉とか……」
「――焼肉?」
松阪さんが即座に問い返す。
……さすがに焼肉はないか。
匂いも付くし、この時間に食べるのはあまり胃によくなさそうだ。
慌てて「すみません、やっぱり別のお店に」と言いかけたところで、松阪さんが立ち上がる。
「実は私、焼肉屋さんに行ったことがないので行ってみたいです」
「――えっ……」
***
「タン塩、おいしいです。レモンとねぎでさっぱりしていて」
松阪さんがタン塩を食べ終えてからそう感想を述べた。
私もレモンを絞り、刻んだねぎをたっぷり巻いて口に運ぶ。
お肉のぎゅっとした噛み応えと、ねぎとレモンの爽やかさは実に相性がいい。
「この野菜もごま油の風味がいいですね」
「あぁ、ナムルですね。きのこは私も初めて食べました」
ナムルの盛り合わせを頼んだら、もやし、青菜、にんじんの他にきのこがついてきた。
もやしと合わせて口に入れるとしゃきしゃきくにくにと食感が楽しい。
ほのかなごま油の香りとにんにくの味に誘われ、またお肉が食べたくなった。
「それにしても、焼肉屋さんに行ったことがないなんて珍しいですね」
カルビを焼き始めると網からにぎやかな音が奏でられる。
それをBGMにジョッキをあおれば、ビールがよりおいしく感じるから不思議だ。
「えぇ、子どもの頃はあまり外食の機会がなくて。そのままずるずると焼肉屋に行く機会を逃してしまいました」
同じくぐびりとビールを飲む松阪さんの頬は心なしか赤い。
あまりお酒強くないんだろうか――今日は松阪さんの意外な一面ばかりが見えてくる。
「はい、カルビです。ごはんいります?」
「ありがとうございます、私は大丈夫です。近江さんよろしければ」
「では遠慮なく」
店員さんにごはんをひとつ頼んで向き直ると、松阪さんがちょうど口にカルビを入れたところだった。
そしてもぐもぐと肉を噛み締めたあと、驚いたように目を見開きビールを一口。
――うん、それ絶対おいしいやつ。
私は私で届いたごはんにタレをまぶしたカルビを軽くバウンドさせ、口に入れる。
甘辛いタレとともに肉のうまみと香ばしさが広がった。
すかさずごはんであとを追えば、口の中はしあわせでいっぱいだ。
「……おいしいです、本当に」
松阪さんがきゅうりのキムチをぽりぽりかじりながら、満足げに呟く。
「それはよかったです、まだまだ焼きますよ」
そう返しつつ、私も山芋キムチをしゃりしゃり食べた。
ホルモンを焼いたところで網が炎上し、松阪さんが少しのけぞる。
私が淡々と氷で消火活動をすると「近江さんはすごいですね」と声をかけられた。
「ただ肉焼いてるだけですよ」と笑うと、松阪さんが首を横に振る。
「以前から責任感があって真面目だと思っていました。今日の仕事だって断ることはできたはずなのに」
「単純に逃げ遅れただけですよ。昔から要領が悪いんです」
「いや――『僕』はそう思わないな」
ホルモンを並べ直したところで前を見ると、松阪さんが眼鏡を外していた。
これまでまじまじと顔を見たことはなかったけれど、思ったより切れ長の目をしている。
七輪から発せられる熱のせいか、いつもはきっちり締まっているシャツの襟が開き、胸元から鎖骨が覗いていた。
なんだかいつもと雰囲気が違う――そう思った瞬間、こちらを見つめ返した松阪さんと目が合う。
「!」
私は慌てて網の上に視線を戻した。
――びっくりした、一体なんだったのだろう。
高鳴る胸を抑えつつ、意味もなくホルモンをくるくるとひっくり返す。
「暑いな――近江さん、何か飲む?」
「あ……じゃあレモンサワーで」
「僕もそれをいただこう」
松阪さんが店員さんを呼びとめ注文する間、私は顔を上げられなかった。
脂が網の下へと滴り、炎がまた大きく燃えさかろうとしている。
そんな様子を見つつ、じわじわと焼き上がっていくホルモンを私はただ見つめていた。
「……焼けました」
中央でつややかに光る肉をつまんで松阪さんのお皿に載せる。
すると、カウンターパンチのようにレモンサワーを「はい」と手渡された。
「あ、ありがとうございます」
どぎまぎしつつホルモンを口に入れてひと噛みすると、脂がじゅわりとあふれ出す。
――うん、これぞホルモン。
十分に味わったあとでレモンサワーを流し込むと、しゅわしゅわとした炭酸とレモンの風味で口の中が一気にすっきりした。
「――近江さん」
名前を呼ばれて前を向くと、こちらを見つめる松阪さんともう一度目が合う。
いつの間にか眼鏡姿に戻っていたけれど、その奥の瞳はやはり職場で見せる色とは違った。
「お蔭さまで、はじめての焼肉すごく楽しめた。本当にありがとう」
そう言って微笑む松阪さん。
七輪の炎に照らされて、首筋をつうっと走る汗が見えた。
こんな風に見つめたら変に思われてしまうのでは――そう思いつつも何故だか目が離せない。
「――さて、このあとどうしようか」
「……あ、はい……えっと――」
炎とともに揺らめく瞳に促され、私はようやく口を開いた。
「よく考えたら、私もはじめてでした」
「……ん?」
「その――男性とふたりで、こうやってお酒飲むの」
私の唐突な告白に目の前の松阪さんが目を丸くする。
「……うそ」
「……いえ、ほんとに」
まるでにらめっこをするように目を逸らさずにいると、松阪さんがレモンサワーをごくりと飲み干した。
そしてグラスを置いたその頬は、さっきよりも明らかに赤くなっていて。
「――近江さんのはじめてにご一緒できて光栄です」
そうぼそりと呟く様子がおかしくて、思わず私は吹き出してしまった。
「――こちらこそ、松阪さんのはじめて、いただきました」
すると、松阪さんが微笑んで「おあいこだね」と言う。
私も笑顔で「おあいこです」と返した。
こんなやりとりを、今晩は一体何度繰り返すことだろう。
――そう、まだ始まったばかりだ。
ふたりで過ごす、この記念すべきはじめての夜は。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
焼肉企画に出す作品ということで、真正面から焼肉書くぞ!(`・ω・´)とがんばってみました。
実はバブル時代は大人な間柄でなければ焼肉デートに行かない? なんて噂もあったそうで……そんなわけで少し色っぽい雰囲気も伝わっていたらいいなと思います。
以上、あとがきまでお読みくださりありがとうございました。




