『バールのようなモノ』〜最強工具とツンデレ悪魔王とボロ古民家のリノベ奮闘記〜
俺の名前は佐藤光一。三十歳。
四年間、都心のブラック企業で心をすり減らし続け、気づけば胸の奥から何かがぽっきり折れていた。
残ったのは、拭いきれない空虚さと、その空白を埋めるように膨れ上がっていく「何かを創りたい」という衝動だけだった。
自分の手で何かを作りたい。
誰かの指示や理不尽な数字でなく、俺自身の痕跡で世界に触れたい。
その欲求は、逃避であり、治療であり、生き直すための唯一の道だった。
そうして俺が辿り着いたのが、県境の山奥にひっそりと佇む、築六十年を優に超える古民家だった。
玄関を開けると、湿った土の匂いと、長い間誰にも触れられなかった木の匂いが胸に広がった。
畳は沈み、壁はひび割れ、天井には雨の痕跡がある。それでも、この廃れかけた家は、なぜか俺の心をそっと包んだ。
「ここでやり直す。全部、俺の手で」
そう呟いた瞬間、古民家の奥でふっと風が通り、返事のような音がした。
この家を再生できたら……俺も少しは再生できる気がした。
梅雨の気配が濃くなり始めた頃、山の斜面を下りながら吹き込む風には、青い土の匂いと、まだ乾ききらない雨の残り香が混じっていた。
俺の新しい住処として選んだ古民家は、県境の山道を二つ越えた先の、集落からさらに外れた場所にひっそりと建っている。築六十年以上と聞いていたが、窓枠の木の痩せ方や梁の黒ずみ方を見るかぎり、もっと長くそこに佇んでいたようにも思えた。
玄関の戸を引くと、湿った空気がゆっくりと流れ出し、鼻の奥に古い木材の匂いが重く残った。
この匂いが好きだった。
人の手が遠ざかった家特有の寂しさがありながら、どこか「生きよう」としている力が残っている。そんな風に感じられる匂いだ。
「よし、今日からここが俺の家だ」
声に出してみると、少しだけ照れくさい。
だが、こうして言葉にしないと、この静かすぎる世界の中で自分の存在が溶けてしまいそうな気がしていた。
畳はところどころ柔らかく沈み、壁は手で触れると薄く崩れ落ちる部分が多い。天井板は湿気でしなり、梁の一部には古いネズミの齧り跡が残っていた。
しかし、嫌な気分にはならなかった。むしろ、これだけ直すべき場所があるという事実が、空虚だった胸の奥をじんわりと温めた。
都会での四年間は、心が削れる音すら聞こえなかった。
何も生み出せず、何も自分の手を通らず、ただ消耗していくだけの毎日だった。
だからこそ、壊れたものを直すという行為が、胸の深いところに沁みる。
「……全部、直してやるからな」
そう呟いた瞬間、古民家の奥で風がふっと通り抜けた。
誰かが返事をしたような錯覚を覚えるほど、優しい音だった。
一日目は偵察で終わった。
二日目の朝、俺は古びた工具箱を開け、木槌を握りしめた。
最初に取り掛かったのは、土壁のはがれかけた部分の除去だった。表面は指で押すと簡単に砕ける。だが、古い民家特有の“芯”の部分は、とてつもなく硬い。
木槌を振るうたび、乾いた音が空気の中に散り、反動が肘の奥まで響く。
「……なんでこんなに硬いんだよ」
額から汗が落ち、視界の端で埃が舞った。
一時間もすれば、腕はだるくなり、腰も痛み始めた。
だが、壁はほとんど変わっていない。
まるで、家そのものが俺を試しているようだった。
「最強の道具がほしい……」
その言葉を独り言のようにつぶやいた瞬間、胸の奥を何かざわつくものが掠めた。
衝動に任せてスマホを取り出し、検索窓に打ち込んだ。
最強 バール
半ば冗談だった。だが、画面の一番下に、ひとつだけ奇妙なリンクが現れた。
終焉の工房
黒い背景。
古代語に似た細い文字。
ページを開いた瞬間、画面には一枚の写真だけが大きく表示された。
漆黒の鉄の棒。
表面の紋様が光の角度でゆっくりと揺れる。
先端は獣の爪のように鋭く湾曲し、人間が扱う道具とは思えない威圧感を放っている。
説明文はたった数行。
古代鍛造バール
破壊と創造の理を宿す依代
現世保証・王印刻印済
胡散臭いにもほどがある。
だが、写真からただならぬ気配を感じたのは事実だった。
「……なんだよ、これ」
指先が勝手に動き、注文ボタンを押していた。
三日後、山道を軽トラックがうねるように走ってきた。
配達員は異様に青ざめていて、荷台から木箱を降ろすとき手が震えている。
「あ、あの……運んでるあいだ、中でなんかガチャガチャ動いて……誰かが文句言ってるみたいな……」
「気のせいですよ。部品が動いてただけです」
そう言うと、配達員は「ですよね」と言いつつ、走るように去っていった。
残された木箱は、棺桶のように異様に重く、外側には見たこともない幾何学紋様が刻まれていた。
手で触れると、ほんの一瞬、箱そのものが呼吸したような気がして、思わず手を引いた。
だが、胸の奥はなぜかワクワクと熱を帯びていた。
「開けるか……」
木箱の蓋を外したその瞬間、
赤黒い閃光が弾けた。
土間が揺れ、畳が震え、空気が一瞬だけ灼ける。
視界が光に飲まれ、俺は腕で目を覆った。
それが収まったとき。
少女が立っていた。
黒と深紅の甲冑。
肩までの銀髪が淡い光を返し、冷たく美しい。
王冠の意匠を持つ兜。
幼い顔立ちなのに、瞳だけが千年の孤独を背負ったような深さを持っている。
その瞳が、ゆっくり俺を映した。
言葉が出なかった。
少女は静かに胸に手を当てた。
その仕草は王の儀礼のように優雅で、なぜか寂しさが滲んでいた。
「我はソロモン七十二柱の大王、バアル。現世ではバエルとも呼ばれる。貴様の呼びかけに応じ、此処に姿を成した」
震える喉で、俺は呟いた。
「……バールじゃなくて、バエル……?」
少女は眉をひそめ、足元の木箱をちらりと見た。
「その材質の鉄棒……バールとやらは、我の力を封じていた依代にすぎぬ。貴様が触れた瞬間、契約が成立したのだ」
箱の中には、注文した漆黒のバールが転がっていた。
少女は少し不機嫌そうに続けた。
「狭い箱だ。三日も閉じ込められた。王たる我に対する仕打ちとしては最悪だ」
俺は言葉も出せずに彼女を見つめていた。
恐怖ではない。
圧倒や困惑とも違う。
美しかった。
ただその一言が胸の奥を占めていた。
見たこともないのに、どこか懐かしいような、それでいて手を伸ばすのが怖いような存在感だった。
少女が土間に一歩踏み出すと、古民家の空気が変わった。
ひび割れた壁、軋む床、すべてが彼女を中心に呼吸を始めたように感じられた。
そしてゆっくりと俺に近づき、
胸元を甲冑の指で軽く突いた。
「さて、人間。貴様は何を望む。破壊か。創造か」
俺は息を吸い込み、素直に言った。
「両方だ。俺はこの家を全部、生き返らせたい。お前の力が必要だ」
少女の琥珀色の瞳が揺れた。
ほんの一瞬だけ、そこに別の色が映った気がした。
寂しさか、期待か、安堵か。
そのどれでもあって、そのどれでもないような、不思議な光だった。
「ほう……よく言ったな、人間」
その声には、わずかに笑みが溶けていた。
こうして、俺とバエルの奇妙な共同生活が始まった。
その日、家の窓から吹き込んだ風は、どこか祝福のように優しかった。
バエルが現れた翌日、古民家は昨日までとは違う空気をまとっていた。
山の朝は早い。まだ陽が畑に落ちきらない頃、白んでいく空気の中で鳥たちが鳴き始め、木々の間を抜けて冷たい風が吹き込んでくる。
俺が目を覚ますと、土間の奥でカン、と金属を軽く叩くような音がした。
「……起きたか、人間」
土間から現れたバエルは、昨日と同じ甲冑姿だった。
完全武装の少女が朝の光を受けて静かに立っている。その姿は異様なはずなのに、不思議とこの家に馴染んでしまっている。
「おはよう、バエル」
「我は眠らぬ。王に休息は不要だ」
そう言いながら、わずかに目をそらす仕草がある。
眠らないというより、眠れないのだろう。
そのことに気づいてはいけない気がして、何も言わなかった。
土間の奥には昨日整えた木材と工具が置かれている。
バエルはそこに近づき、指先で古い梁をなぞった。
「この家は……悪くない。長い時を経ても崩れず、誰かを待ち続けていた。まるで……」
そこで言葉が途切れた。
彼女の瞳に、一瞬だけ寂しげな色が灯る。
「まるで……?」
「何でもない」
言い捨てるように立ち上がったものの、その声はどこか柔らかかった。
その変化に胸が温かくなる。
「さあ、人間。作業の続きをするぞ」
「うん」
並んで土壁を削り始めると、昨日とはまるで違うほど軽く作業が進んだ。
俺が大きな木槌を振り上げた瞬間、バエルが指先でそっと壁に触れる。
黒い魔力が糸のように壁に染み込み、芯の部分を柔らかくする。
「今だ」
その一言で叩くと、さっきまでびくともしなかった壁が信じられないほど綺麗に崩れた。
粉塵が舞い、空気が白く濁る。
その粉塵の中で、バエルの銀髪が柔らかく光を返した。
「すごいな……」
「貴様の腕が未熟なだけだ」
そう言いながら、バエルは少しだけ胸を張る。
褒め言葉を素直に受け取れない性格なのだろう。
作業を続けていくうち、ふと気づいた。
バエルの動きには無駄がない。
壁のどこが歪み、どこが生きているかを正確に見抜いている。
「お前……家のこと詳しいのか?」
「建造物は世界の理の結晶。魔の王として当然の知識だ」
そう言う声の奥に、小さな誇りが聞こえた。
「なら、頼りにするよ」
「ふん……当然だ」
口では尊大なことを言っているが、甲冑の肩がわずかに揺れ、嬉しさを隠せていない。
その変化が、胸に小さな灯りをともす。
昼になり、作業を一旦止める。
縁側に座り、山から吹く風を受けながら二つのカップ麺を並べた。
「光一。献上を忘れておる」
「忘れてないよ。今お湯入れた」
「よし」
バエルは湯気の向こうで器を大事そうに持ち上げ、甲冑の隙間からゆっくり麺を啜った。
姿はどう見ても悪魔王ではなく、ただの食いしん坊の少女だ。
「美味いか?」
「良い香りだ。この湯気が鼻をくすぐるのも悪くない」
「感想が細かいな」
「食事とは大切な儀式だ。この世界の食は……ふむ……悪くない」
少し誇らしげに言う。
俺はふと、彼女の甲冑の隙間から見える白い指に視線が吸い寄せられた。
華奢で、子どものように小さくて、触れたら壊れてしまいそうだった。
「そんなに見るな」
急にバエルが顔を赤くし、器を隠すように持ち上げた。
「見てない。いや、見たけど……」
「ならば正直に言え。何だ、人間」
「可愛いなって思った」
バエルの表情が固まった。
その後、鮮やかなほど真っ赤になり、甲冑の縁まで染まりそうだった。
「か、か、か……可愛いなどと軽々しく言うな!!」
「悪い、思っただけで……」
「思うな! いや……思ってもいいが……今は言うな!」
よく分からない論理で怒られた。
だが、本気で怒っているというより、照れ隠しだとすぐ分かった。
その事実に、胸の奥が温かくなる。
昼からの作業は、午前よりも静かだった。
風の音、道具の音、どこか遠くで鳴く鳥の声。
そのどれもが、バエルと俺の間に流れる時間をゆっくりと満たしていく。
次第に、彼女が隣にいることが当たり前のように感じられた。
夕方。
雨が降り出し、屋根の上で水音が連続して響いた。
古い天井からぽたりと一滴落ち、バエルが顔を上げる。
「雨漏りだな」
「だな。屋根やらないと」
「今からでは暗い。明日にしろ」
ぽつりぽつりと落ちる滴の中で、バエルは黙って天井を眺めていた。
銀髪が湿気で少しだけ重くなり、光が鈍く揺れる。
「なあ、寒くないか?」
「我は魔の王だ。寒さなど……」
そこで言葉を切り、眉を寄せた。
甲冑の隙間から、小さな震えが伝わってくる。
「……寒いのか?」
「違う。これは……湿気だ」
「湿気で震える魔王がいるかよ」
「黙れ! 寒いわけでは……」
言いかけて、ふっと視線を落とした。
土間の冷たい空気が流れる中、少女の顔がほんの少しだけ不安げに歪んだ。
その小さな揺らぎが、胸を掴んだ。
「部屋に戻るか」
「……うむ」
バエルは俺の隣を歩きながら、小さく息を漏らした。
その姿は、王でも悪魔でもなく、ただ寒さに弱い一人の少女だった。
その夜、俺は確信した。
この少女を守りたい、と。
ただの工具でも、契約の相手でもなく。
この古民家のように、朽ちかけていても守りたいと思える存在として。
雨脚が強くなった夜、古民家の屋根は静かに泣いているようだった。
ぽつり、ぽつりと障子に落ちる滴の音が、家全体を柔らかく震わせている。
俺はちゃぶ台の前で湯気をあげるマグカップを手にしていた。
隣には、甲冑姿のまま正座しているバエル。
銀髪の梳かれた strands が、湿気でゆるく波打ち、灯りに淡い影を落とす。
「コーヒー……というのだな、それは」
「飲んでみるか?」
「い、いや。これは……人間の飲み物だろう」
そう言いながら視線はマグに釘付けだった。
甲冑の指が微妙に動き、じっとこちらを伺っている。
俺は笑って隣に一つ置いた。
「こっちも熱くないように作ったから」
「……仕方ない。献上されたものを拒むのも、王としての仁義に反する」
言い訳が長い。
だが、甲冑の指先がそっとマグに触れたとき、ほんのわずかに震えていた。
一口啜った瞬間、バエルは目を丸くした。
「……あ……これは……」
「飲めるか?」
「……悪くはない。少し、胸の奥が温かくなる味だ」
照れ隠しのように目を逸らす。
たったそれだけなのに、胸が広がるように温かくなる。
今日一日の疲れがゆっくり抜けていくような感覚がした。
雨音がさらに強まり、障子の向こうを通る風の影がゆらりと揺れる。
灯りの橙が、バエルの横顔を柔らかく照らした。
幼い輪郭。
なのに瞳の奥には深い孤独。
甲冑に覆われた身体は威厳をまとっているのに、わずかな隙に覗く仕草はどこか危うい。
俺は思わず口を開いた。
「バエル。寒くないか?」
「寒くはない。だが……この家の空気は、少し冷たいな」
「誰もいなかったからな」
その言葉に、彼女がわずかに肩を震わせた。
「我は……長い間、独りであった。封印された依代の中に、声も届かぬ場所で……」
バエルが自分から孤独を語ったのは、これが初めてだった。
そして俺は感じた。
この家を修繕することと同じように、
彼女にも“壊れた部分”があるのだと。
「バエル。ここはもう、お前の居場所でもあるんだぞ」
「……居場所……?」
「そうだ。俺だけの家じゃない。お前も一緒に生きていい場所だ」
言った途端、バエルの瞳が揺れた。
雨音よりも静かに、心に触れるように震えた。
「……光一。貴様、軽々しくそういうことを……言うな」
声は怒りに似ていて、それでもどこかに震えがあった。
彼女はマグを両手で包み、湯気に紛れるように小さく息を吐いた。
その瞬間、天井の奥から嫌な音がした。
ギシ……ギ。
次の瞬間、天井裏の古い梁が悲鳴をあげた。
「……危ない!」
俺が叫ぶと同時に、バエルが立ち上がり、甲冑の指先を天井に向けて突き上げた。
黒い魔力が弾け、梁が落ちる直前に空中で押し止める。
しかし、その魔力は……弱かった。
昨日と違い、光が断続的に揺れ、まるで今にも消えそうな火種のようだった。
「バエル、無理すんな!」
「黙れ……! これしき……!」
声に切迫が混じっていた。
雨の音を押し流すほどの魔力の奔流が一瞬巻き起こり、梁は反転して天井裏に押し戻された。
そして、すとん、と音を立てて、黒い光が消えた。
バエルの膝がかすかに揺れ、その場に手をついた。
「バエル!」
「……問題ない。魔力を少し使いすぎただけだ」
問題、大ありだ。
近づいて手を取ると、その指先は驚くほど冷たかった。
バエルは必死に強がりながら顔を上げたが、額には汗が浮かび、呼吸も浅い。
「……光一。貴様が怪我すれば……この家の再生が滞る。だから……守っただけだ」
「違うだろ。俺を守りたかったんだろ」
「……違うと言っている……!」
そう言う割には、目が合った瞬間、彼女は視線を逸らし、胸元を押さえた。
その手は震えていて、嘘では隠しきれなかった。
「……お前、俺のこと……心配してくれてたんだろ」
「……黙れ……光一……」
小さく震えるその声は、雨音に溶けそうだった。
家が静まり返る。
雨の音だけが途切れずに落ちる。
俺はゆっくりと彼女に近づき、手を伸ばした。
触れた瞬間、バエルの肩がびくりと震えた。
甲冑の隙間から伝わる体温は、驚くほど弱かった。
「休め。もう限界だろ」
「……王に、休息は……」
「王じゃなくて、バエルだろ。今のは」
彼女の瞳が揺れた。
「……光一……貴様は……」
何かを言おうとした瞬間、表情が固まった。
その瞳の奥が、一瞬だけ黒く濁る。
胸の奥がざわついた。
これは……違う。
彼女の弱りではない。
別の“何か”だ。
「バエル……?」
「……下位の……魔が……寄ってきている……」
雨音の合間に、ウ、と低い唸りのような気配が混じった。
家の外だ。
見えない何かが近づいている。
「ここは……我の残滓が溢れておる。魔の匂いに……引き寄せられたのだ」
「どうすりゃいい」
「外へ出るな。貴様を守るには……我が……」
そう言ったまま、バエルの膝が崩れた。
支えようとすると、甲冑の重さとは裏腹に身体そのものは驚くほど軽い。
「バエル!」
「……大丈夫だ。我は、王だ。だが……魔力の……供給が……」
声が震え、意識が遠ざかっていく。
その瞬間、俺の胸の奥から焦燥が噴き上がった。
このままじゃ、バエルが消える。
外では、得体の知れない気配が家の周囲をうろついている。
雨の闇が、何かを隠しているように見えた。
「バエル……頼む、消えるな……!」
「……光一……」
少女は弱々しく手を伸ばし、俺の胸元を掴んだ。
「……呼ぶな……そんな声で……呼ばれると……困る……」
涙のような震えが、指先に伝わった。
王の威厳ではなく、ただの少女の弱さだった。
俺はその手を包み込み、強く抱きしめるように支えた。
「バエル……俺は、お前がいないと……嫌なんだよ……」
ここで、外の気配がはっきりとした形を取った。
壁の向こうで、何かがぬらりと動く音がした。
ただの動物とは思えない。
雨の闇を引きずり、土の上を滑るように移動する音だった。
バエルが意識を失いかけながら、小さく呟いた。
「……光一……離れるな……」
その瞬間、俺は覚悟を決めた。
守る。
どんな敵が来ようが、この少女を守る。
消えてしまいそうな魔王を。
温度を持つ生きた少女を。
外の雨は、まるで世界そのものが軋むような音を立てていた。
屋根を叩く無数のしずくが、黒い幕のように家を覆い、その向こう側で何かが蠢いている。
風ではない。
獣でもない。
雨の中を“滑る”ような、床の上を引きずるような音がしていた。
「……光一……離れるな……」
腕の中のバエルは、甲冑越しでも信じられないほど軽かった。
さっきまで威厳と気迫に満ちていた身体が、今は風一つで消えてしまいそうに弱っている。
俺は彼女を抱え、畳の上にゆっくり座らせた。
「バエル、意識は……?」
「……ある。だが……力が、足りぬ……」
震える指先が、俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。
その小さな手の震えが、胸に刺さった。
「どうすればいい。魔力って……その……どうすりゃ――」
「触れよ……」
かすれた声だった。
明かりの揺れる部屋で、彼女の琥珀の瞳が必死に俺を求めている。
「我の依代に触れれば……少しは……」
依代――玄関近くに置いた、あの漆黒のバール。
そこに宿っていた魔力が、まだわずかに残っているのだろう。
俺はすぐに立ち上がり、暗い玄関へ走りかけて――足を止めた。
何かが、外の土間にぬるりと影を落とした。
人間の足音じゃない。
四足でもない。
地面を滑るように動く、長く、重く、湿った気配。
土間の奥で、雨の闇と同じ色の“影”が揺れた。
「バエル……来てる……」
「……分かっている……」
彼女は苦しげに息を吸った。
「我が……現世に顕現した残滓に……引き寄せられた下位の魔だ……人間には見えぬが……そこに……いる……」
「見えないのに……何で分かる……?」
「匂いがする……我を喰らおうとする匂いだ……」
その言葉が終わるより早く、土間に置いてあった壺が勝手に倒れ、ガシャーンと割れた。
見えない“何か”が通り抜けた。
畳まであと少し。
バエルは俺の腕を掴み、必死の力で引き寄せた。
「光一! 離れ――」
「いや、離れねぇ!」
俺は逆に彼女を抱き寄せた。
彼女の身体は驚くほど冷たかった。
まるで雨に打たれ続けた子どものように。
その瞬間、外の影が、はっきりと形を持ち始めた。
黒く、細長く、骨のような歪んだ手足。
人型のようで、そう見えないほど異様に曲がった輪郭。
雨水を吸った土の色をまとい、ぬめりながら這う。
それは音もなく、俺たちに向けてゆっくりと腕を伸ばした。
背筋が凍りつく。
「……っ!!」
反射的に俺は、土間に落ちていた鉄パイプを掴んで振り下ろした。
当たる感触はない。
しかし、影は嫌がるように揺れ、畳の縁を避けるように身をよじった。
「光一……無茶だ……貴様の力では……」
「うるさい! 守りたいんだよ!」
その瞬間、影が俺に向かって飛びかかろうとした。
「ダメだ……!」
バエルが俺の腕を掴む。
力は弱いのに、必死さは痛いほど伝わる。
「光一……バールに……触れろ……!」
「……!」
玄関に置いた漆黒のバールは、さっきより強い黒光を放ち始めていた。
まるでバエルの危機に反応するように。
影がにじり寄ってくる。
俺たちを喰らうために。
迷う暇などなかった。
俺は影の横を走り抜け、バールを掴んだ。
瞬間、身体の中に熱いものが駆け上がる。
胸の中心で、何かが爆ぜた感覚。
視界が一瞬赤く染まり――
そして……
影が“見えるようになった”。
黒い細い腕。
骨のような顔。
人の形をしているのに、人ではない。
まるで泥で作った死神のような、覆い隠された顔。
影が俺を見ていた。
喉の奥で、何かがカラカラと鳴る。
「来いよ……!!」
叫んで、バールを握りしめた手に力を込める。
影が飛びかかる。
黒く長い腕が俺の首を狙う。
瞬間、俺はバールを振り下ろした。
金属が空気を裂き、黒い影の腕に触れた瞬間――
深い、深い悲鳴のような音が土間に響き渡った。
影は一瞬で霧散し、黒い煙となって雨の闇に溶けていった。
息を吸った瞬間、肺が焼けるほど熱かった。
だが、影はいない。
勝った。
俺は震える手を見つめた。
そして振り返った。
畳に座り込んだバエルが、こちらを見ていた。
瞳が揺れ、信じられないものを見るように俺を見つめている。
「光一……貴様……なぜ……あんな……」
「お前が……守りたかった。理由なんて……それだけだよ」
バエルの甲冑の胸元が微かに上下する。
彼女はゆっくり手を伸ばし、俺の頬に指先を触れさせた。
冷たいはずなのに、その触れ方は驚くほど優しかった。
「……愚か者だ。人間は……すぐ死ぬのに……」
「死ぬのは……怖いさ。でも……お前を失うのは、もっと怖かった」
バエルの瞳が大きく震えた。
銀髪がふるふると揺れ、唇が小さく開く。
「なぜ……そこまで……」
「お前が……好きだからだよ」
言った瞬間、世界が止まったように感じた。
雨音が遠くなる。
自分の鼓動だけが、胸の奥で静かに響いた。
バエルは息を呑み、震える声で言った。
「……馬鹿者……そんな言葉……王に向けるな……」
そう言いながら、彼女の瞳には涙が滲んでいた。
「王には……届いてしまうのだ……」
震えながら。
押し殺すように。
それでも隠しきれないほどに。
影が消え、土間に静けさが戻った。
しかし、その静けさは昼間とはまったく違うものだった。
雨は降り続けている。
屋根を叩く水音が、まるで遠くの世界から聞こえてくるようだった。
灯りの揺らめきが弱まり、俺とバエルの影を畳に長く落とす。
あの影との戦いで、部屋の空気はまだ濁っている。
しかし、バエルの瞳だけは驚くほど澄んでいた。
「……光一」
俺の名を呼ぶ声は、今まで聞いたどの声よりも弱く、柔らかかった。
「貴様……何を……言ったのだ」
「聞こえてたろ。好きだって」
バエルは震える指で自分の胸元を押さえた。
甲冑に覆われているはずなのに、痛みを堪えるような表情だった。
「……言うな。そんな言葉……口にするな……」
首を振る。
銀髪が頬にかかり、灯りがそこに淡く滲む。
「なぜだよ」
「我は……人でも……生者でもない……魔の王だ。人間と共に在る資格などない」
「資格なんていらない」
「愚か者……」
その言葉には怒りも呆れもなく、ただ少しの悲しさが滲んでいた。
バエルはゆっくり目を伏せた。
「光一……気づいておらぬのか。貴様が依代を握り、我の魔力を呼び起こしたことで……現世に留まれる時間は、もう……長くはない」
「……どういう……」
「魔力の循環が乱れた。下位の魔を斬ったことで、失われた力が戻らぬ。我は……ほどなく地獄へ還る」
胸が掴まれたように痛んだ。
「待てよ。そんなの、ダメだ。戻れよ、バエル」
「戻らぬ。戻れぬ。これは理だ。魔の王に与えられた枷だ」
「ふざけるなよ……!」
思わず声が震えた。
雨音に混じるように、呼吸が乱れる。
バエルは微かに笑った。
「……貴様の声……不思議だな。怒ると、胸の奥に刺さる」
「俺は……」
「言うな。もう……聞きたくない」
首を振る動作が弱々しい。
それでも、俺の目をまっすぐに見つめてきた。
「光一。貴様は、我に情を向けすぎた」
「向けたよ。好きだから」
バエルの瞳が震え、息が止まるように静かになった。
「……王は……恋を知らぬ。だが……胸の奥が……苦しくなるというのは……これが……」
自分で言いかけて、言葉を飲み込む。
そして、小さく、壊れそうな声で続けた。
「光一……我は……貴様のそばにいたかった」
その瞬間、胸が熱くなった。
あの少女が、悪魔王が、こんな顔をするなど、一体誰が想像できただろう。
だが、光が弱まり始めていた。
バエルの身体が淡く揺らいでいる。
甲冑の縁が溶けるように薄くなり、輪郭が透明に透け始めた。
「やめろ……消えるな……バエル……!」
「泣くな。人間が泣くのを見るのは……胸が痛む」
手を伸ばした。
触れた指先が、煙のようにすり抜ける。
「バエル!」
「光一……最後に、貴様の声を聞かせろ」
俺は震える声で、ただ一つの言葉を絞り出した。
「好きだ。お前が……好きだよ」
バエルが目を見開いた。
涙が浮かぶ。
そして、幼い顔にふわりと笑みが灯る。
「……我も……貴様の声が……好きだ……」
その言葉と同時に、バエルの身体が光に包まれた。
銀髪が舞い上がり、甲冑が透明になり、指先が空気に溶けていく。
その姿を、俺はただ抱きしめるように腕を伸ばし、追いすがった。
最後に聞こえた声は、ささやきのように小さかった。
「また……呼べ……光一……」
光が消えた。
残されたのは、床の上に置かれた黒く冷たいバールだけ。
その表面には、さっき見た光の残滓がまだ淡く揺れていた。
夜が明けた。
雨は上がり、雲の隙間から金色の光が古民家に降り注いでいた。
昨日の恐怖が嘘のように静かな朝だった。
しかし、部屋の中は……まるで魂が抜けたように静かだった。
ちゃぶ台の上には、飲みかけのコーヒー。
縁側には、小さな足跡のように残る水滴。
そして土間には、黒いバール。
俺はそのバールをそっと手に取った。
冷たい金属。
だが、その奥にまだ微かな温もりが残っていた。
指で触れた瞬間、
あの夜の声が、かすかに胸の奥に響いた気がする。
「また……呼べ……」
呼ぶ。
必ず呼ぶ。
もう一度、あの少女を現世に戻す。
俺は古い机の上にバールを置き、PCを開いた。
検索窓に、ゆっくりと文字を打つ。
終焉の工房
ページが開く。
昨日とはまったく違う商品が並んでいる。
悪魔王召喚指南書
古代鍛造ノコギリ
天使の塗装筆
そして、一番下に一つだけ、新しい文字が浮かんでいた。
悪魔王バエル
現世召還条件:
強く、深く、たしかな執念
「……呼ぶさ。必ず」
俺はバールを握りしめた。
あの夜の笑顔。
弱さを見せた瞬間。
消えていく指先。
涙を浮かべた瞳。
全部、俺の中でまだ息をしている。
こうして俺は、
もう一度バエルに会うために、
新しい魔法陣と、次の家の設計図を書き始めた。
俺の人生の再構築は――
まだ終わっていない。
まだ、始まったばかりだった。
【完】




