第6夜 狼少女と小さな首輪
夏の日の熱さがまだ残る夜の繁華街、その隅っこの人のざわめきが少し遠くに見える場所で、いつものように私は君を待っていた。
こんな待ち合わせも、もう何回目になるんだろう。気づけばそろそろ夏休みも終わりが近づいてきてる。
それはつまり、りことこうやって、余裕をもって会えるのも、あと数回しかないってことだ。
夏休みが終わったら、きっと色々勝手も変わってくるから、こうして今まで通りとはいかないかもしれない。
もしかしたら、そもそもこのお仕事自体が……なんてことも考えられる。
なにせ、私達の関係は最初から、いつ終わったっておかしくない。夏夜の夢のようなもの。
だから、せめて後悔は無いように。
眼を閉じて、夜の喧騒に耳を澄ませながら、漂ってくる匂いを辿る。
人の匂い、アスファルトの匂い、川の匂い、虫の匂い。
嘘と、アルコールと、油と、排気ガスの匂い。
それから、ほのかに甘い、君の匂い。
眼を開ける。
「つき先輩、お待たせしました」
小走りで駆けよってきた君に、軽く笑って、小さく手を振る。
「相変わらず、はやいね、りこは」
「……先輩の方がいっつも早いじゃないですか」
「ううん、そういうことじゃないよ」
君がバイトの後、わざわざ走ってここまで来てくれているのを、知っているから。
そんな私の言葉に、うーっと変な顔してるりこの表情に少し笑ってから、それとなく手を繋いで歩き出す。私より細く、弱く、小さな君の手をそっと握り潰さないように。
こんなやり取りも、あと何回できるんだろ? わからないけど。
せめて、いつか来るお別れのときに、君に笑顔で手を振れるように。
今は精一杯、この時間を味わい尽くそう。
そのまま何か言いたげな君の手を引いて、今夜も私はいつも通り君を抱きしめる。
そんな瞬間、不意に香った微かな匂いに、思わず少しだけ眉根を寄せた。
夜の闇の中、繁華街の沢山の匂いに交じって、微かに漂ってくる不吉な香り。
紅く、黒く、塩っぽく、甘く、錆びついた。
そんな濃くてどろどろとした、歪な匂いが。
私の不安をほんの、僅かに撫ぜていった。
振り返っても、君の不思議そうな顔と、路地の暗がりがあるだけで他に何もない。
でも私は何もないその暗闇をどうしてだか、しばらく睨んでいた。
言葉にならない何かの感覚が、その暗闇へ私をじっと引き付けていたみたいだった。
※
「はい、つき先輩」
「…………りこ?」
いつもの通り、君を部屋まで連れ込んで、さあ抱き着こうとなったところで、りこは私の視線の先に指をすっと置いてきた。
前と同じ左手、人差し指、細く小さく、手で握れば折れてしまいそうな、そんな指先。
「前の傷治ったんで、噛みたかったら、どうぞ」
そうして君はこともなげにそう言ってくる。まるでそれが当たり前であるかのように。
「…………いや、噛まないよ。あれは満月で抑えきれなくなっただけだから」
ただ、そんな私の言葉に、君は無表情のまま、不思議そうに首を傾げる。
「……? お腹がすくのと同じで段々辛くなるって先輩言ってたじゃないですか。フラストレーション溜めて暴走するより、ちょこちょこ噛んどいた方がよくないですか?」
そう言いながら、君は不思議そうな瞳で私を見てくる。はあ、どうしてこういう時に限って嘘じゃないんだ、この子は。
紛れもない気遣いで言っているのが、余計に質が悪いというか、なんというか。目の前に差し出された指に、思わず口の中で涎が滲む。それに耐えきれなくて、取り繕うこともできずに目線を逸らした。
「りこ……私ね、あんまりやると、味を占めちゃいそうで怖いから、ちょっと自重してるんだけど……」
そりゃあ……本当に許されなら、もっと一杯噛みたいし、毎日だって味わいたい。でも、もちろんそんなことできないし、やっちゃいけない。いつ取り返しのつかないことになるかわからない。
それに今だって、傷が治ったとは言うけれど、君の指には、少しだけ何かが突き刺さったような跡が残ってる。数日前の自分がかなり深くまで噛んでしまった証拠を、改めて見せられているようで、少しいたたまれなくなってしまう。
「……先輩は難しいこと考えますね。私なら気にしませんよ」
「嘘吐き、絶対りこなら気にするよ」
嘘を吐いてる匂いじゃないけど、真剣に考えて、自分が私の立場だったらそうするっていう匂いでもない。確実に他人事だから適当に言ってるでしょ、この子。
「噛まれてる私が気にしないって話ですよ?」
「ああ、なるほど……いや、なるほどじゃない。私が気にするって話だよ」
ちょっとしたアンジャッシュに軽く息を吐きながら、誤魔化しも兼ねて、いつも通り、後ろから君にぎゅっと抱き着く。相変わらず君は細くて、両腕で抱きしめると、細いあばらの感覚まで全部感じられる。
この小さな囲いの中に君を生かしている、心臓とかの内臓が、ぎゅっと詰まってると思うと、なんだか少し不思議な気分になる。
「ふーん、左様ですか。……それにしても、味占めちゃうくらいには美味しいんですか、私の指は」
何気なく君はそう聞いてきて、私はその問いに、思わず深めに息を吐く。
「……美味しいよ、私が今まで食べてきたものの中で一番……美味しかった」
というか、あの時指を噛んだ感覚は、いつもの食事とは根本的に意味が違った。
本能そのものに訴えてくるというか、心の隙間を物理的に埋めてしまえるというか、幸福感を脳にそのままバケツでぶちまけているみたいというか。
絶対に許されてはいけない背徳感と合わせて、なんだかあの夜は、本当にどうにかなってしまいそうだった。一生で初めてっていうのも大きかったけど、なんというかうん、我ながらあられもなかったと今更思う。
そこまである種、飛びぬけた快感だったからこそ、今の私は、正直かなり自重してる。あれが癖になってしまったら絶対やばい。耐えきれない。我を忘れてりこを傷つけたりしたなんてことになったら、それこそ私は生きていけない。
想い出すだけで衝動に震えそうになる身体をじっと抑えて、ただ君の背中の暖かさだけを感じてた。
「へえ……そんなになんだ、私の指」
背中ごしの君はそう言って、試しに自分の指を口に咥えているけれど、当然というかなんとも言えない顔してる。まあ、自分の指なんて美味しいわけないだろね。
でも、私にとっては、それは紛れもなく至上のものだ。
「美味しいよ、きっとりこの指以上に美味しいものなんて、この世の中にないくらい」
口にしてから、でも、と誰かが言った。
君の指より、きっと君の首の方が、もっと美味しいかもしれない。
もっと、もっと美味しい場所が――――。
なんて、ありえない思考が一瞬よぎりかけたから、奥歯で頬の裏を噛んで、痛みを使って正気に戻る。
……こういうのが、あるから、これ以上深入りするの本当によくない。
言ってしまえば質の悪いと薬と同じだ、一度その快楽を知ってしまえば、のめり込まざる終えなくなる。気を抜けばすぐに中毒になる。
だから、今の私は言ってしまえば、人の味を覚えた獣だ。りこを噛むという取り返しのつかない快楽を覚えてしまった、そんな獣。
今は落ち着いてはいるけれど、いつ天秤の糸が切れるかわからない。
それほどまでに、君を噛むあの感触は、耐えがたいほどに気持ちよかった。
だから―――抑えないと。
「ふーん、じゃあ、そうですね」
そんな私の葛藤を、君は知ってか知らずか。
「『ルール』を、決めましょう」
「…………ルール?」
そう言って、抱き着いている私の方に振り返って、すっと自分の服にくっついていた飾りのリボンを何気なく引き抜いた。
月が逆光になる中で、ふわりとその黒くて、薄い布が私の視界を、波打ちながら横切っていく。
首元を留めていたリボンだから、それを引き抜いたことでりこの首元がほんの少し緩んで露わになる。肌色の奥に鎖骨がちらついて、そこを舐めとったあの夜の光景が、私の脳裏にフラッシュバックする。
「これを巻いてる間、先輩の『飼い主』は私です」
「…………え?」
漏れた言葉が、我ながら間抜けすぎる。
そうやって唖然としていると、暗闇の中、少し意地悪気に笑みを浮かべるの君の口元が見えた。
「つき先輩が心配してるのって、人を噛む味を覚えちゃって、見境なくなっちゃたらどうしよう、ってことでしょう?」
「……う、うん」
そう言いながら、君はすっと私の首元にそのリボンを優しく巻き付けてきた。
まるで、大事な贈り物に、そっと封をするように。
「じゃあ、そうならないよう、覚えてください。犬のしつけと同じです。これをしている間だけです。私が『飼い主』の間だけ、先輩は私の指を食べてもいい」
「…………何それ?」
そう言った自分の言葉があまりに力なくて、なんだか変な気分だった。
そうしている間に、きゅっと首元が優しく締まる。苦しくないけど、その場所を誰かに握られているという感覚だけは、どうしてか鮮明に感じられる。
「でも、私は先輩の『飼い主』ですから、私が『よし』というまで食べちゃダメです」
くいっとリボンが引っ張られて、それにつられて顎が持ち上がる。私より力も弱くて、年も下で、背丈も低い君に、あっさりと主導権を文字通り握られる。
それが少し恥ずかしくて、それこそ自分が我慢できない犬か何かになったみたいな情けなさがあるけれど。でも不思議と、胸の奥がほっとするような安心感も同時にあった。
なんでだろう。他人に自分の行動の権利をゆだねるなんて、本当は不快で仕方ないはずなのに。
でも、今は不思議とその感触が嫌じゃない。
月夜の中、君に首輪をつけられて、それをゆっくり引っ張られながら。
君が差し出した指に、「ほら口開けて」いわれがまま、そっと口を開いた。
いけないことなのに、君に言われたら逆らえない。
「まて」
涎が口の中に溜まっていく、漏れた熱い息が君の指にじわりとかかっていく。
月明かりを背にしたりこの顔は、いつものようにあまり表情はないけれど、心なしか楽しそう。
もしかすると、味を占めたのは、私だけじゃないのかな……なんて考えながら。
「まて」
君の―――『飼い主』の許可を待つ。
私より遥かに弱い君に、全てをゆだねて、ただその時を待つ。
当たり前だけど、抵抗なんていくらでもできる、こんな小芝居付き合う意味もさしてない。
だけど、不思議な安心感が私の手綱を握って離してくれない。
君の言葉を聞いている間は、君の手で繋がれている間は。
不思議と、私は言われた以上のことは出来ない気がした。
そんなわけない、そんなわけないけど、今、この雰囲気がどこかおかしいからだろうか。
夏の夜の、二人きりの部屋の中というのが、どこか不思議な気持ちにさせるからか。
私はただ君に従って、情けなく口を、その内側を晒してた。
「まて」
待つ。
「まて」
待つ。
「まて」
期待する。
君の涎で少し濡れたその人差し指を。
咥えて、舐めて、噛みついて、喰べる、その行為を。
君に許される瞬間を。
君に満たされる瞬間を。
夜闇の中で、首輪をつけられて、告げられる君の命令を。
ただ。
「よし―――」キンコーン。
音が。
鳴った。
ドアベルだ。なんで? 今?
ドアの向こうで「お荷物でーす」なんて女の人の、どこか間抜けな声が聞こえる。
あんまりなタイミングに、君とお互い顔を見合わせて、さっきまで自分たちが何をしようとしていたのかを、改めて思い知る。
というか、どこか熱に浮かされて気づかなかったけれど……今のやり取り、どう考えてもいかがわしい奴じゃない?
首輪をして、命令して、口を開けて、指を噛ませる。
どう言い訳しても、そういうプレイにしか見えないじゃんね……?
その証拠にというか、なんというか。
目の前の君も自分のしてたことを、自覚したのかどことなく顔が紅い。
しばらく二人で顔を見合わせて、どちらともなく目線を逸らしてしまう。
「え、えっと、出てきますね。……なんだろ、通販とかかな?」
そういう君の声も、どことなくぎこちない、そんな様子におかしくなって、何も考えずに「うん」って返事をしてしまった。まあ、今の私、首輪をしているわけだし、これで出るのはちょっと変だもんね、なんて―――。
そんなくだらない思考をしていたから、気づかなかった。
そもそも。
そもそも、うちはエントランスで部屋番号を呼び出さないと、マンション内に入れない仕組みのはずだ。
それにここ数日、私は荷物なんて注文していない。りこもりーこを頼んで以来、何も注文していないはずだから、この時点で届く荷物などありはしない。親宛の郵便物もここ数ヶ月届いてない。
だから、今みたいに、いきなり玄関のインターホンが鳴ること自体がありえない。
そんな事実に、思考が到達するその前に。
りこが扉を開ける直前に。
匂いが――――した。
紅く、黒く、塩っぽく、甘く、錆びついた。
どこかで嗅いだことのある、へばりつくような匂い。
血の匂い。
「一つ教訓だね、得体のしれない奴が訪ねてきても、不用意にドアは開けちゃいけないぜ?」
「まあ、その気になったら壊せるから、あんま意味ないんだけどさ」
「というわけで、こんばんは。そして初めまして、藍上さん。君と同じ『人外』だよ」
急いで玄関まで駆け寄った先に待っていたのは、首を抑えられているりこの姿。
そして、片手で軽々とりこの身体を持ち上げているスーツ姿の女。
真っ白な肌、流れるような傷一つない黒髪、ニヤリと笑う口元から見える少し尖った牙。
そして、まるで血を溶かしたような、夜闇の中光る紅い瞳。
本能が、直感が、今、目の前にいるのが人間ではない『何か』だと告げている。
なんだこれ、誰だこれ。
わからない、わからないけど、りこが危ない。
思わず震えそうになる手をぎゅっと握りしめて、しばらくその女と睨み合う。
その女は私のことをじっと見て、それからりこの方に軽く視線を向ける。
まるで何かを確かめるように。
私を見る。りこを見る。それからもう一度、私とりこを―――見て。
……あれ、何か様子が変だ。
その視線がゆっくりとりこの首元と、私の首元を交互に見ていることに、ふと気づく。
なんで、と疑問が走ること、ほんの数秒。
あ。
それから想い出す、ついさっきまで私たちが『していたこと』を。
女もその意味を察したのか、ほんのりと顔を赤らめていた。
………。
しばらく沈黙が流れた。
「色々と、聞きたいことがあるんだけれど――――」
女の眉が、少し困ったようにひそめられる。
「もしかして、えっちなことしてた……?」
そんな女の視線の先にあるのは、少しはだけたりこの首元と、私の首に巻き付けられたりこのリボン。
普通に考えて、割と……そういう名残。
………………気づけば、その場は何とも言えない空気で満たされていて。
顔が赤くなるのを感じながら、思わず一つ息を吸う。
女に捕まっているはずのりこも、どことなく顔を赤らめながら、同時に口を開いてた。
「「してません!!」」
そして、夜のマンションに私とりこの声が、綺麗にはもって響きわたった。
怒りと困惑と、なんとも言えない恥ずかしさで染まった声が。
「うっそだあ…………」
そんな私たちを、突然の来訪者は困ったように眺めていた。