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狼少女と嘘吐き少女  作者: キノハタ
狼少女
7/17

第5夜 噓吐き少女と微かな香り

 「ねえ、りこちゃん」


 「なんですか、注文ですか? レモンサワーですか?」


 「最近―――犬とか飼い出した?」


 「…………いえ、なんでそう思ったんですか?」


 「え? うーん、なんとなく、なんか雰囲気とか……匂いとか……そんな気がして」


 「そう……ですか。あー……この前、犬カフェ行ったから、それですかね」


 「えー、いいなー、犬カフェ。私も行きたーい。あと梅酒ソーダ割おねがーい」


 「はい、マスター、梅酒ソーダ一つ入りました」



 なんて常連さんとの会話が、今日のバイトのハイライト。



 何食わぬ顔で嘘を吐いて乗り切ったけど、匂い……するのかな。


 あの後自分で嗅いでみたけど、さっぱりわからないし、マスターやバイトリーダーに聞いても犬の匂いなんてしないって言ってた。


 なんだろうね、敏感な人にだけわかる匂いとかするのかな。


 「どう思います? つき先輩」


 そうやって、後ろから抱きついてるつき先輩に話を振ってみる。


 お誂え向きにというかなんとうか、今日の先輩は私の首元に顔をうずめて、ずっと匂いを嗅いでいる。特有の体臭とかしてるのかな、なんて思うと、少し恥ずかしくなるけれど、顔には出さずに無表情のふりをする。


 「んー……りこの甘い匂いしかしないよ」


 先輩は少し甘えたような声を上げながら、すんすんと私の首元で呼吸をしてる。それが少し熱っぽくて、息が時々首元にあたってくすぐったい。


 「つき先輩の匂いの話をしてるんですよ……?」


 「自分の匂いなんてわからないでしょ。りこが嗅いでみたら?」


 先輩は私の首に顔をうずめたまま、そんなことを言ってくる。絶対匂いを嗅ぐのに夢中になって、返答がおざなりになってるな。


 ……でもまあ、言ってることも一理はあるかな。自分の匂いって分からない。


 「じゃあ、お言葉に甘えて」


 なので、後ろから抱き着かれた体勢のまま、ぐるっと振り返って先輩に向き直る。


 ベッドの上で抱き着きながら正面から向き合って、私の方が上になっているこの姿勢は、なんというか『いかにも』な気がする。ふれ合う肌の感触も、絡み合った足の柔らかさも、意識すると、全部がそのいかにもな感覚になりそうだ。


 そのせいで少し顔が紅くなりそうだけど、意識したら負けなので、何食わぬ顔で先輩のことを見つめる。


 今日も月明かりに反射する灰色の瞳と髪が、大層綺麗なことですね。まあ、どうでもいいんだけれど。


 「あれ? りこ? 本気?」


 肝心の先輩は少し驚いたような顔をして、首を傾げたけれど、そんな反応は無視してその首元に顔をうずめてみる。


 すらっとなめらかで傷一つないその真っ白な肌に、鼻をあててあえて大げさに息を吸う。鼻孔の中を少し特有の肌の匂いや、汗のにおいが柔らかくくすぐってくる。


 いい匂い……って表現するのもどうかと思うけど、見た目の綺麗さを何一つ裏切らない、ほのかに甘くかすかな塩気とシャンプーの香りがする。香水とかはつけてないらしいから、これがこの人の自然な香りってことだけど、何一つ不快さがない。はあ、美人はこういうとこも違うのかな。


 「………………うーん」


 「…………どういう反応? もしかしてちょっと匂うの?」


 つき先輩はさすがに本当に嗅がれると思ってなかったのか、少しだけ戸惑って見える。その証拠に頬がほんのり紅くなって、月明かりによく映えてる。


 「いえ、なんか匂いまで美人だと腹が立ってくるなと……」


 髪よし。肌よし。眼よし。声よし。匂いよし。どこをとっても隙がない。その構成要素が一つくらい私にも欲しかった。


 「なんか理不尽に怒られてる気がする……」


 そんな私のおでこを指でぐりぐりと虐めながら、つき先輩は少し不満そうな顔をする。


 「そんなことないですよ、純度100%心から褒めてます」


 「…………りこは本当に嘘吐きだねえ」


 そうやってあなたといつも通りの、嘘に塗れた会話をする。


 あの日から、あの満月の夜から、私たちは何も変わらず。





 ※





 あの夜、私はつき先輩に、自分の指を嚙ませた。


 左の人差し指の先、鉛筆が刺さった程度の、小さな傷跡。


 でも、それは出会って数週間、私に傷一つだってつけてこなかったつき先輩が初めて付けた、明確な過ちの痕。


 それをつけた当初のつき先輩は、本当に不安そうで、しきりに私のことを心配していたけれど、肝心の私は正直拍子抜けもいいとこだった。


 傷と言っても、本当にすぐ治る程度のもの、一時間もしないうちに血は止まったし、どういうわけか噛まれている間も熱いっていう感覚がほとんどで、さっぱり痛くなかった。


 なのに、その小さな傷を私につけている間のつき先輩は、まるでそれが人生で唯一食事が許された大切な儀式のように厳かで。私の指を大事に、まるで愛おしい何かのように、柔らかな唇に含んでいく姿が、どことなく艶めかしくて。


 その唇の奥、熱く溶けるような、その場所へ、優しく私の指を咥えていく様を見ていると、少しだけ、いけない気分になってしまいそうだった。


 嚙み終えて、しばらくの間、とろんとした眼差しで、頬を赤らめていた先輩の表情を想いうかべると、今でも少し落ち着かない。


 なんだか本当に、いかがわしい行為をしていた気さえしてくる。気のせいじゃない気もするけど、まあ、気付かないふりをしておこう。


 そんなことがあったから、しばらく、ちょっと気まずいかなって思ってたけど。


 少し時間を置いて会ってみれば、先輩は拍子抜けするくらいに、いつも通りだった。満月が過ぎたら、それだけで落ち着くもんなんですかね。これじゃあ私の方が引きずっているみたいじゃん。


 まあ、平気なフリしてるだけかも知んないけれどさ。なんて、時々、私に触れるつき先輩の手が、軽く震えてるのは見て見ぬフリ。


 「あれ、そういえば、犬くさいかどうかの話じゃなかったっけ? ……もしかして、本当に犬みたいな匂いする?」


 「いーえ、してません、してませんよ」


 綺麗な肌の優しい匂いの奥に、微かに陽だまりみたいな香りがした。あれが犬の匂いだと言われれば、まあ、確かに納得はできる。


 「え、嘘ついてる? ……するの? 犬っぽい匂い? え?」


 「そんなに気になりませんよ、ゼロ距離で嗅いでするかどうかってくらいです……」


 「それってつまり、するってことだよね………ちょっとショック……」


 なんてことはない話題だったはずだけど、先輩は本当にショックを受けたような顔で、自分の服をしきりに嗅いでいた。


 そんなに気になるほどじゃないって言ってるのに、気にしいだなあ……。でも本当に微かだったから、こんなのどうやって常連さんは気づいたんだろって、逆に少し首をかしげてしまう。


 あれから数日が経って、何度か先輩と顔を合わせたけれど、指を噛むのはあれっきりだ。


 私についたのは、指先に小さな傷一つだけ、それ以外本当に何の変化もない。


 でも、それで構わない、それでいい。


 だって、深く関わりすぎれば、傷ついてしまう。真実に触れることが、必ずしもいいことじゃない。


 だから、今のまま関係で、私は一向にかまわない。


 かまわないけど。


 もし、本当に今のままの関係を望むなら。


 私はなんであの時――――先輩に喰人衝動のこと聞いてしまったのだろう。


 知らなくても、何の問題もなかったはずなのに……。




 そんなことを考えて、少しぼーっとしていたからだろうか。


 「りこ―――りこ?」


 先輩の呼びかけに少し反応が遅れた。


 気付けば、先輩の灰色で透明な瞳が、じっと私のことを見つめてる。


 「………………なんですか、つき先輩」


 「今日はちょっと早めに終わろっか。最近、帰り遅くなっちゃったし。親御さん、心配してるでしょ?」


 「ああ…………そうですね」


 ちらりとスマホを見たら、もうそこそこ時間が経っている。


 つき先輩の衝動はあの夜以来少しマシになっているみたいで、我を忘れて時間が遅くなるなんてこともあまりなくなった。このままいけば、今の関係は安定していくはずだ。



 ……いや、でも来月になったら、また満月の日がやってくるのか。


 そうしたら、また少し落ち着かなくなるのかな……。


 なんて考えながら、頭を少しぶんぶん振った。その時はその時の私が何とかするから、今の私が考えても仕方ない。


 そうやって、いつも通り帰り支度をしながら、先輩からお金を受け取って、黒猫の貯金箱に入れて、服装をそれとなく整える。


 「そういえば、あの日、親御さんに心配されなかった……? 結構遅くなっちゃったけど……」


 先輩はそう言って、少し心配そうに首を傾げた。私は、あー……ってぼやきながら、なんとなく、眼を逸らしながら素知らぬ顔をする。


 確かにあの満月の日は、帰るのは日をまたいでからになってしまった。追及は当然された。


 「大丈夫ですよ、適当言って誤魔化したんで」


 「へえ、納得してくれた……?」


 「まあ、はい、納得したというか、動揺させてなあなあにしたというか」


 我ながら、返答の歯切れが悪いのは少し否めない。いやまあ、別に恥ずかしがることでもない気はするんだけれど。

 

 そのせいか、つき先輩の瞳が少し細められる。


 「…………なんて言って誤魔化したの?」


 「…………いえ大したことは何も。……それにしてもあれですね、今日は月が綺麗ですね」


 「………………りこ?」


 適当に漱石先生の力を借りて、誤魔化しを図ったつもりだけれど、つき先輩の視線はより怪訝なものになる。うーん、嘘を吐きすぎると、こういう情緒的なものも、うまく信用してもらえなくなってくる。


 「ねえ、りこ……なんて言って誤魔化したの?」


 「……別にいいじゃないですか、大したこと言ってないんで」


 「…………」


 先輩の視線が静かにじっと私を見つめてくる。目線を頑張って逸らしても、余計に視界にじりじりと迫ってくる。灰色の瞳と、真っ白な肌が、触れあいそうになるくらいにじり寄ってくる、疑いと不信の色を帯びたまま。


 うん……これは、変にごまかす方がまずい奴かな。


 「…………えっと……『恋人が出来たから、その人と会ってたー』って、嘘吐きました」


 まあ、別に嘘なんだから、何一つ恥ずかしがることなんてないんだけれど。


 生まれてこのかた、そういうのに縁がなかった私だから、衝撃的な事実発覚で親も騙せて、なあなあに出来て、仮につき先輩のことを知られても不審がられない。思いついた時は、我ながら、名将の一手だと思ったものだけど。


 まあ、肝心の当人の許可を取ってないから、怒られても仕方がない気はする。


 「恋……人…………」


 「いや、はい、嘘ですけど。でも、なんかやってること、あながち嘘でもないかなー……と思って、ほら、嘘の中に真実を混ぜると、騙しやすいって言うじゃないですか、だから、えーと、……」


 我ながら、どの顔で嘘吐きなんて名乗っているのか、怪しくなってくるくらいにはしどろもどろだ。薄っぺらい理由をくっつけているのが、余計にみっともなさを際立たせてる。


 そんな私をつき先輩は案の定、どこか訝し気に眺めてて、返ってくる答えも「ふーん」とどことなく素っ気ない。


 ああ、さすがにこれは迷惑かけたかなと、少し反省。


 「そうなんだ……、じゃあ、今度挨拶とか行った方がいいのかな?」


 あえて、試すように、そんなこと言ってくるし。


 「いや、まあ、うちの親も本気にしてないんで。なんか……すいません」


 そうはいっても、つき先輩はそっぽを向いて、ふーんと唸っているばかり。思わせぶりだなとは想うけど、あえてあまり突っ込みはしなかった。


 そんなんこんなで、その夜も私はいつも通り先輩にお姫様抱っこをされながら、ビルの屋上を跳びはねながら帰ったわけだけど。


 その間、先輩はほとんど私と目を合わせてくれなかった。はあ、やっちゃったかな、と独りため息をついていたわけだけど。抱き着いていた先輩の首元が、夜風に吹かれているのに、いやに熱かったのは何でだろうか。


 月明かりに照らされた先輩の頬が、少し紅くなっているのを、私はそっと見ないふりをした。





 その数日は、今にして思えば、嘘みたいに平和な時間だった。


 先輩の喰人衝動が一時的にとはいえ、少し収まって。


 一瞬、崩れかけた私たちの関係は、またいつも通りに戻って。


 親へのいい訳も、なんだかんだ、うまいこと出来た気がして。


 こんなのが、まあ永遠にではないにせよ、そこそこ続けばいい。とりあえず夏休みが終わるまでは、なんて思ってた。


 嘘の役割は常備薬、つまり本質は現状維持だ。


 問題を見えないようにして。


 限界に気付かないふりをして。


 変化から目を背ける。


 変わらないものなど、どこにもないのに。


 どれだけ目を逸らしても、向き合わなければいけない現実は、いつまでも消えてはくれない。


 どれだけ嘘で誤魔化しても、真実は嫌でもいつか目の前に現れる。


 そんなこと、わかってた。


 でも、今は、今だけは。


 もう少し、この二人だけの小さな部屋の中で、残酷な真実から目を逸らしていたかった。


 月明かりに照らされた、誰もいないふたりぼっちの場所で。


 ただ、あなたに見え透いた嘘を吐いていたかった。


 そんな儚い願いが、あとどれだけ叶えていられるかは、わからないままだけど。







 「うん、やっと見つけた。―――私と同じ、『人外』の匂いだ」



 そう言って闇夜の中で、紅い瞳の女は笑っていた。


 月明かり中、ビルの隙間を跳ぶ、二つの人影を見上げながら。

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