第4夜 狼少女と満月の夜
本当は、今日は君と会っちゃいけなかったんだ。
月の巡りと共に強くなる喰人衝動が、段々抑えきれなくなることは頭のどこかで解ってた。
なのにどうしてか上手く言いだせなかった。
「次はしばらく先にしよっか」「満月はちょっと私、抑えられなくなるから」
たった、たったそれだけ口にすればよかったのに。
君の顔を見たら、頭の中がぐちゃぐちゃになって、鈍った思考がしきりに許されないことを喚き散らかす。
喰べたい、噛みたい、私の心に空いたこの孔を、君で埋めてしまいたい。
だからいけないことだってわかってるのに堪えられなかった。少しだけ、少しだけっていくら想っても、身体は抑えてくれない、指先は止まってくれない。
君の首筋へ全ての意識が飲み込まれていくような。
君を傷つけたいわけじゃないのに――――。
そんな淀んだ思考と、頭が割れるような痛みの中、朦朧とした意識の狭間で。
「大丈夫―――大丈夫だから」
君の少し震えた声を聴いた瞬間に。
君の微かに甘い香り嗅いだ瞬間に。
私の中の何かが、音を立てて崩れていく、感覚がした。
私は―――何を言わせてるんだ。
殴った。
拳を握って、そのまま自分の頬に振りぬいた。
思考をべっとりと塗りつぶしていた痛みを、無理矢理、別の痛みで塗り替える。
喰べたい。うるさい、黙れ。
噛みたい。喋るな、引っ込め。
殴った。もう一度。
それでぎりぎり意識が元に戻る。口の中から血の味がするけど、今はそんなことどうでもいい。
息が荒れてる、指先が震えてる、でも手の中に握った、りこの腕も震えてた。
何してるバカ、こんなに怯えさせて。
りこの表情は一見いつもと変わらないけど、よく見れば唇の奥がぎゅっと噛まれてて、手のひらは汗で滲んでる。
漂う香りには微かに恐怖と不安の匂いが混じっていて、それが余計に自分のしたことを思い知らせてくる。
謝らなきゃ、そう想うけど、がんがんと割れるような痛みが抑えきれなくて、りこの身体から自分の身体を引き剥がすことしか出来なかった。
無理矢理ベッドから転がり落ちて、独りで部屋の隅まで這いずっていく。
息が荒れる、身体が震える、頭も喉も引き裂けるように痛い。
でも、きっとりこに与えた恐怖に比べれば、大したことあるわけない。
りこの姿が見えないように目を閉じる。甘い匂いが漂ってくるだけで、また思考が喚きだすけど、ぎゅっと自分の腕に爪を立てて無理矢理止める。
喉の奥から何かが暴れて飛び出て行きそうな、身体の奥がどうしようもなく乾いて震えるような、そんな感覚を奥歯を噛んで必死に抑える。
「つき……せんぱい?」
君の声がする。それだけで、奥歯がガチガチと音を鳴らした。ああ、ダメだ、ダメだ。今は声を掛けないで。
そう言いたいけれど、口を開けてしまえば、君に牙を剥けてしまいそうなのが、どうしようもなく怖い。だから必死に耳を閉じて、自分のなかの化け物が暴れ出さないように抑え続ける。
そのまま、しばらく何も言わないまま、時間が経って。
腕に突き刺した爪の痛みが、衝動を少しずつ抑えだすまで、じっとそのまま部屋の隅で膝を抱えて耐えていた。
「つき先輩……大丈夫ですか?」
君のそんな声に、ようやく顔を上げられたのが、10分経った頃か、1時間経ったころかはわからないけど。
荒れた息を抱えたまま、見上げたそこには心配そうに私の顔を覗き込む、りこがいた。
「ごめん、りこ……怖かったよね、ごめん」
紡いだ言葉はみっともなくて、いつのまにか零れていた涙で、濁って聞けたものじゃない。けれど、どうにか、どうにか伝えなきゃと言葉を繋ぐ。
ああ、本当に何をやってるんだろう、私…………。
「私は……何もケガしてないから、大丈夫ですよ。今は……先輩の方がケガしてます」
そういってりこはすっと私の手を指さした。そこには尖った爪が深々と突き刺さった私の腕があって、血がぼたぼたと流れて、寝室を汚してた。
「……気にしないで、これくらいすぐ治るから」
ずっと爪を腕から引き抜くと、ぬめっとして少し気持ち悪い。りこはそんな私を少し不安げに見ていたけれど、実際にこの程度の傷なら数時間もすれば、血も止まって傷も塞がる。
だからこんなものは、りこを怖がらせたことに比べれば大したことじゃない。
「そうですか……先輩、ここ救急箱とかってありましたっけ」
「どうだろ……古いのならあるかもだけど、別にいいよ」
私がそう言っても、りこは表情を動かさないまま、じっと私のことを見つめてた。
「でも、ばい菌とか入ったら危ないんで……救急箱どこですか?」
「いいよ、りこ」
「どこですか?」
私がやんわりと断っても、りこは意見を変えようとしなかった。結局、うろ覚えで救急箱の位置を教えたら、りこはすぐに走っていって、そのまま救急箱を持って帰ってきた。
「大丈夫、りこ、自分でできる」
「……先輩は大人しくしててください」
救急箱を漁る君に声をかけても、さっぱり取り付く島がない。そうやっている間にも、頭の奥はさっきほどじゃないけど、じくじくと痛み続ける。
そんな痛みに少し目を伏せていると、君はほこりの被った救急箱から、消毒液とガーゼを取り出して、そっと私の近くにしゃがんでくる。
「…………」
「消毒しますよ、痛かったら……言ってください」
そう言ってりこは消毒液が染み込んだガーゼ持って、もう片方の手で私の手にそっと触れた。
それだけで胸の奥が孔が開いたように痛み始める。今すぐその柔らかな手を取って、抑えつけたい衝動に駆られる。
奥歯で舌を噛みながら、ぎりぎりその思考を抑えつけて、君の手が恐る恐る私の血濡れた手に触れるのをじっと耐えていた。
柔らかな手が、私の傷口に触れる。温かくて、優しくて、震えてて……今は少し消毒液が傷に染みてくる。
「つき先輩、痛く……ないですか?」
君の静かな声がする。月だけが照らす、暗い部屋の中で。
「…………ちょっとだけ、染みるかな」
そう言うと、君の手が少し優しくゆっくりと、傷口を撫でた。月明かりに照らされた肌色が、私の血のせいで赤黒く汚れてく。
そのまま、君の手が私の腕にガーゼを巻きつける衣擦れの音を、ただ黙って聞いていた。
「……はい、おしまいです」
最後にそう言って、君の手が私の腕から、そっと離れた。
腕には少し不格好に巻きつけられた包帯とガーゼ。私の血で汚れてしまった、君の指先と服の裾。
その血の跡を見るだけで、自分のしでかしたことを嫌でも思い知らされる。
同時に、自分がやっぱり化け物であることも。
……やっぱり私は、りこと一緒にいていい存在じゃなかった。
「…………ねえ、りこ」
「―――嫌です」
りこの声は短く、でもはっきりしてた。
「…………まだ何も言ってないけど」
「『もう、この関係はこれっきり』とか言うんでしょ。先輩の顔見てたらわかります。だから、『嫌です』って言いました」
そう言ったりこは目線を下げられていて、表情がうかがえない。
そんな君の姿に思わず少しため息が零れる。
「でも……やっぱり、りこが危ないよ。私もこんなの初めてだったし、今日が酷い日なのもあるけど、ここまで自分が抑えられないと想ってなかった……」
口にする声は、どこか自分のものじゃないみたいで、弱く震えて、不安定で。気を抜くとまた涙が零れてしまいそうだった。
「…………それって、今日が満月だから、抑えが利かなかったって話ですか?」
りこの声は低くて静かで、感情をできるだけ表に出さないように努めているみたいな声だ。
「…………うん、そう。だから、本当はね、今日会っちゃいけなかったの。なのに、私、バカで。堪えきれなくて、りこに会いたいって思っちゃた……ごめんね」
ああ、口にすればするほど、自分の馬鹿さ加減に嫌になる。人に散々、自分が化け物だと宣っておいて、それを一番認識できてなかったのが、私自身だなんて、冗談にしては笑えない。
そんな私の言葉に、君は目を伏せたまま、口を開いた。
「ふうん……まあ、いいんじゃないですか、それくらい」
そういったりこの言葉はどこか投げやりで、あまりらしくない声色をしていた。
「…………よくないよ、怖かったでしょ」
「怖くないです」
甘い、嘘の香り。
「嘘吐かなくていいよ、ごめんね、怖い想いさせて」
でも君の優しい嘘に、甘えてばかりもいられないから―――。
「嘘じゃないです!」
不意に。
不意に発せられたその大きな声に、一瞬、面食らう。
りこが声を張り上げたのだと、理解するのに、少しかかった。
ただ、そうやって張り上げた声に、りこ自信が誰よりも驚いているような。
「…………りこ?」
「………えと、あの、……私が……、私が先輩を怖がるわけないじゃないですか。前も言ったでしょ? 犬がじゃれてるのと変わんないです。だから、ちょっとかまれそうになったくらいで、そんな騒がなくていいですよ。……大したことありません。だから―――」
りこは相変わらず俯いていて、表情は上手く見えない。
でも、その声がどうしてか、いつもより焦って震えているのだけはよくわかった。
どうして―――。
「だから―――」
りこは何かを探るように必死に言葉を探してる。
なんでだろう。君にとって私はただ、気まぐれに助けた通りすがり。いくら仕事をお願いしてても、それは結局ただの契約上の関係でしかない。
お互い、誰でもよかったはずだ。りこはお金を貰えるなら、私は心の孔を埋められるなら。
誰でも―――。
だから、この関係は、お互いにリスクが出来た時点で、そこでおしまい。
命が失われる可能性を目にしたまま、りこは仕事をする意味はないし、私もそこまで背負わせる覚悟もない。
だから――――なのに―――。
「りこ……?」
「だから…………」
君はそう、しばらく口を動かして言葉を探していたけれど。
やがて口にすることを諦めたように、口を閉じて。そのまま私の胸に、俯けた頭を預けてきた。
そうして、重なる君の体温が私の胸を温めて、そこに頭を擦り付けるようしながら、君は必死に何かを訴えていた。
……君でさえ言葉にできない、そんな何かを。
「………………どうして?」
「…………わかんないです、そんなの」
少し濁ったりこの声が、胸元から響いてくる。
どうしてだろう、私にもわからない。
私達はたまたま出会った通りすがり。
お金を交えた契約相手、夏休みに入ってから出会って、一か月にも満たない仲。
親友でもない、恋人でもない。お互いのこともほとんど知らない。
そこまでして懸けるべき理由は何もない。
何もないのに。
「…………ねえ、つき先輩」
「…………なに、りこ」
どうして私たちは。
「………………その……喰人衝動って…………どんな感じなんですか……特に今日みたいな日とか」
「……………………痛い、かな」
こうまでして、一緒に居ようとしているんだろう。
「痛い…………?」
「お腹が減りすぎてさ、空腹を通り越して、段々痛くなったことってない……? ずっと眠らないで起きてたら、段々と頭が痛くなってくるとか……」
わからない、わからないね。
「そういう……痛みですか?」
「……そう、でも私の場合、それを紛らわす手段がないから。そういう痛みを何倍も酷くしたみたいな。何日も何日も、ご飯を食べてないまま、眠らないまま、ずっと過ごしているみたいな…………そんな痛み。それがずっと、ずっと続くの。これから生きてる限り、ずっと……」
君は、どうして。
「………………辛くないですか?」
「辛いよ……すごく辛い」
どうして離れようとしないんだろう。
「…………苦しくないですか?」
「苦しいよ……死ぬほど苦しい」
どうして。
「――――寂しく、ないですか?」
そう言った君の声に、言葉が何故か一瞬詰まった。
痛い、苦しいっていう話なのに、どうして寂しいって言葉が出てくるんだろう。
それを少し疑問に想ったのに、口を開いたら、不思議と答えはすんなり出てきた。
「寂しいよ、すごく寂しい。……だって、誰も解ってなんてくれないもの」
そんな痛みを。
そんな想いを。
きっと、誰も解ってなどくれないから。
人狼だから、人とは違う生き物だから。
それももちろんあるけれど、そうでなくてもこの痛みが、他の誰にも言えないことが悲しくて、辛くて。
だから、寂しかった。
嘘でもいい、聞いてくれる誰かが、一緒にいてくれる誰かが欲しかった。
だから、私は君から離れたくないのかな。
君は……どうなんだろう。
少なくともこうやって、私の事情を聞いてくるのは初めてだけど。今、何を想っているんだろうか。
ふと視線を上げると、私を見上げる君と目が合った。
目元が滲んで、紅くなったその瞳は、私のことをじっと見ていて。
少し迷ったような表情を一瞬見せた後に、すっと私の顔に指を差してきた。
月明かりに照らされた、細くて綺麗なその人差し指を、微かに震わせながら。
唇の先、キスが出来てしまいそうな位置に、そっとゆっくりと。
「…………りこ?」
私がそう尋ねても、君の瞳はただじっと、こちらを見つめていた。
「噛んでいいですよ」
――――――。
息が、詰まった。
「でも、噛むだけです。指先だけ。食べてもダメです、ちょっと、ほんのちょっとだけ噛んでいいです。でもそれ以上はしちゃダメです」
君はどこか不安げに、でも確かに言葉を繋ぐ。頬を微かな跡で濡らしたまま。
「怖くないの?」
「怖くありません」
嘘の香り。
「どうしてそこまでしてくれるの?」
「…………お金のためです」
本当の中に微かに甘い嘘が混じった香り。
「…………りこは嘘吐きだね」
「そうですよ、私、嘘吐きです」
そういったりこからは淡く滲んだ、嘘のようなそうでないような、不思議な心地のいい香りがした。
……どっちだろう、曖昧でわからない。
でも、今はその曖昧さに、少し安心してしまう。
本当はきっと怖いよね。
想いの理由さえ定かじゃないんだよね。
でも、なのに、君は。
私を独りにしないでいてくれるんだ。
絶対ダメだと、誰かが言う。本当にそう。
一度踏み込んだら引き返せないと、私が言う。本当にそう。
でも、でも今は。今だけは。
「本当に―――いいの?」
「―――はい」
この嘘に甘えていたい。
たとえこれが今夜限りの夢だとしても。
誰に許されなくても、今、この孤独が紛れるなら。
それを君が許してくれるなら。
「ねえ、りこ」
「はい、なんですか、つき先輩」
「どこまで噛んでいいか、わからないの。だから、りこが教えて?」
「…………はい」
今はただ、そんな君の言葉に甘えたまま。
ゆっくりと。
ゆっくりと口を開いた。
それは決して許されない行為。
胸の奥がじくじくぐちゃぐちゃと、背徳感かとも昂揚感とも言えない何かで滲んでく。
そうして私は、本来、誰にも向けてはいけない牙を曝した。
君の伸ばされた人差し指に向けて、ゆっくりと。
「もうちょっと」
少しずつ、君の指が私の口の中に入ってく。
「もうちょっと」
眼を閉じてその指が少しずつ、私の境界の内側を越える感触をただ感じる。そのまま噛みつきたい衝動を必死に堪える。
「まて、まだですよ、まだ噛んじゃダメ」
そう告げたりこの声を聞いていると、なんだか自分が、彼女の飼い犬か何かになったような気分になる。それが余計に、胸の奥の心臓を、ぐしゃぐしゃに震わせていく。
「まて」
りこもそれをわかっているのか、あえてその言葉を繰り返した。
私は君の言葉に促されるまま、眼を閉じて、口を開いて君の指が私の中に入ってくるのを、ただ待っていた。
君の許しが下される、その瞬間を。
「まて」
まだ。
「まて」
まだ。
痛みの向こう側で、背徳と期待に胸が震える。
ずっとずっと、生まれてから、お腹を空かせ続けた私が、初めて何かを口にする。
ずっとずっと、消えることなどないと思っていたこの痛みが、初めて紛れる。
胸がぐちゃぐちゃに乱れていく。興奮とも不安とも取れないものに息が震える。舌の奥から熱い涎がじわりと滲みだしてくる。涙が滲んで頬から伝う。
舌を出して、涎を垂らして、言われるがまま身体の内側を曝して。きっと今、凄く情けない表情を君に見られてる。でも、その事実が余計に、胸の奥の動悸を速くさせていく。
君の香りが、君の声が、君の体温が。私の脳をぐちゃぐちゃに取り返しもつかないくらいに壊してく。
そうやって私の胸の動悸が一つ、大きく鳴った瞬間に。
「よし」
君の声と同時に。
浅く、小さく。
それでも確かに、この牙を君の柔らかい、その肌に。
まるで初めてキスをするかのように、恐る恐る。
そっと静かに突き立てた。
ぷつっと小さな音がして。
紅く、しょっぱく、甘い。
そんな君の血の味わいが、舌にゆっくりと蕩けるように広がっていく。
私はただ涙をこぼして、その感触に震えたまま。
月明かりの中、君に差し出された指を噛んでいた。
生まれてから、人狼であることを自覚してから。
今日という日まで、生きている限りずっと、ずっと。
埋まることのなかった胸の空虚さが。
止むことのなかった途方もないような痛みが。
その日、初めて忘れられたような――—そんな気がした。
満月の夜、音すらしない、月明かりの中。
静かに私を見つめる、君の甘い香りに包まれて。
狼の私は、嘘吐きな君を喰べていた。
※
そうやって君につけた、小さな小さな傷痕の意味を。
私たちは、まだ何も知らないまま。