第3夜 噓吐き少女と満月の夜
その日のつき先輩は、なんだか少し変だった。
いつもの路地で挨拶をしても、軽く頷くだけで返事もくれなくて。
先輩のマンションに向かう時につないだ手が、少し熱くて汗ばんでいて。
先輩の部屋につくまで、不自然なくらいに言葉もなくて、足取りも変に速くて。
部屋につくなり、無言で抱きかかえられて、鞄を置く暇すらないままにベッドに押し倒されてようやく気付く。
ああ、なるほど。
「ねえ、りこ……………」
「今日、凄く酷い日ですか?」
そんな私の曖昧な問いに、先輩の手がビクッと震えて一瞬止まった。よくよく感じればその手は薄く静かに震え続けてる。
「……そう、だよ。…………怖い? やめようか?………」
そう口にする先輩の息は浅く、短く、余裕なんてかけらも残ってなさそうだ。
きっと今までと比べようもないくらい、先輩の中の喰人衝動が暴れて仕方がないんだろうね。本当は私のことなんて慮ってる余裕無いくせに。
じゃあ、そんな先輩に、私ができることは何だろう。
……まあ、改めて考えるまでもないか。
「まさか……私が先輩を怖がったことありましたか?」
私のここでの役割は、ただの抱き枕。
先輩の衝動を、ただ代償行為で鎮めるだけ。
そこに感情は必要ない。
「――相変わらず、嘘吐きだね、りこは」
そういった先輩の声は、低く静かな、まるで狼の唸り声のようで。
……もしかしたら、今日はいつも通りじゃ済まないかもな。なんて思考がふと頭をよぎる。
もし、そうなったら、私は一体どうするんだろう。
どんな表情をしてあなたに、食べられたらいいんだろう。
わからない、わからないけど。
今はただ成り行きに身を任せるしかなかった。
「―――りこ」
だって私はただの抱き枕、嘘で痛みを誤魔化す常備薬。
本当に大事な想いには触れないまま。
ただあなたに求められるがまま、受け容れるだけ。
そうして、ふと顔を上げた、その一瞬。
月明かりで影になった、あなたの真っ黒な表情が、そこにあって。
その向こうで夜闇の中、物言わぬ満月だけが、私たちをじっと見ていた。
※
普段のつき先輩は、私が痛がる行為は絶対しない。
爪や牙は、少しなぞったりする程度。基本、唇で食むように甘噛んだり、爪の甲で私の頬撫でたりするのがいつものことだ。
だけど、今日は少し様子が違う。
まず抑えつけられている手が、少し痛い。
先輩が本気になったら、私の手なんてポッキーみたいに簡単に折れちゃうだろうかろ、それでも手加減されてると思うけど。今、私を抑えつける手は、震えてて汗ばんでて、指が少し食い込んで、鈍い痛みを感じさせる。
力の差は解りきってる、抵抗なんてできるはずもない。下腹部が先輩の太ももで抑えられているから、身じろぎだってうまくできない。
自分より力の強い誰かに、身体の自由を奪われているっていうのは、正直途方もなく怖いけれど、幸いそういう感情は薄い方のはずだ。
怖い、苦しい、痛い。でもまあ、先輩が抑え込んでる衝動に比べたら、多分ましでしょ。
先輩の指が私の首筋をゆっくりとなぞってく。爪が少しだけ引っかかって、ちくちくとわずかな痛みがそこに走る。それを堪える声が漏れないように、喉の奥にぐっと力を籠めた。
響く音は先輩が時々動く衣擦れの音と、荒く余裕のない呼吸音だけ。
息が首元に触れる。信じられないくらいに熱い。ろうそくでも翳されてるんじゃないかってくらい、明確な熱がそこにこもってる。吐息は熱を持ちながらも湿ってて、先輩が抑えつけている衝動が、そのまま口から漏れているみたいだった。
先輩の顔が、私の首元にそっと寄せられる。
キスが出来そうなくらい顔が近づく。ちらりと見えた先輩の瞳孔は、暗闇の中薄く灰色の光を反射していて、まさしく狼のそれだった。それを見ていると、心臓が微かに震えるのを感じる。
そのまま先輩の顔が、私にキスを―――するわけもなく、首元へと寄っていく。少しそっちをに目を向けると、先輩の綺麗な灰色の髪が、私の首元に流れるよう垂れ下がっていて、少しくすぐったい。
息が、熱が、震えるように、堪えるように、私の首元に当てられる。
でも、それがやがて耐えきれなくなるのを、私は知ってる。
「……りこ―――りこ、――――――りこっ」
最初はちいさく。
柔らかく湿った、何かが、微かに触れる。
唇かな。ただそれを認識してすぐに、今度は確かに濡れた何かが、首筋を横になぞるみたいに、べたっと触れる。
鎖骨舐めたいとか言ってたっけ、そういえば。
くすぐったいとは違う、なんだかぞわぞわする感覚に身をよじろうとするけれど、先輩の足がぎゅっと身体を抑えて離してくれない。
ぴちゃ、っと水音がして、もう一度暖かい何かが、私の首筋をなぞっていった。
鎖骨。
喉。
顎の下。
頸動脈。
一つ、一つ、確かめるようになぞられて、味わわれていく。
口から喘ぎ声が漏れないように必死で抑えながら、身体をよじるたび、つき先輩にお腹を抑え込まれる。その痛いような、熱いような感覚が、余計に胸の奥をぎゅっと詰まらせる。
それにしても、どうなんだろう。
これで、先輩は、満足するのかな。
何度も、何度も、先輩の舌が私の首筋をなぞってく。
でもそれは言ってしまえば、美味しいご馳走を目の前にして、ただ舐めることしか出来ない状況と同じで。
見方を変えれば、かぶりつきたいという欲を、ただ煽っているだけじゃないんだろうか。
その証拠にさっきから私を抑える手の力が、段々と強くなっている。
下腹部はもう身じろぎすら許されないほどに、強く抑えつけられていて、先輩の火照った熱を感じる以外何一つ抵抗できない。
今、正しく、この人の舌の上に、私の命が乗っているのを実感できた。
荒れた息が、不意に、より熱くなる。
先輩の顔は灰色の髪がカーテンになって窺えない。でも皮膚の感触から、今、何をされているのか嫌でも想像できる。
「 ―――ぅ。――ぁ―」
口を、開けている。
唇で食むように甘噛むのとは決定的に違う。
牙を突き立てるため、その奥にある血肉を喰らうため。
先輩は口を開いてる。
だからこんなに熱い吐息が鮮明に感じられる。
あと数センチ、いや数ミリ。
そこが私の命の境。
チクと、微かな痛みが喉元に触れる。
熱く、濡れて、なのに無機質な。
命を喰らう牙の感覚。
吐息の熱さ、濡れた首元、微かな痛み。
思考が全てそれらに埋め尽くされる。今、ここにある全てが、余計な感情を塗りつぶしていく。
喰われる、この人に。
私の命が、この人に。
それを理解して。
それを恐怖して。
それを憂いて。
「りこ」
縋るように私を呼ぶあなたの声が、震えるほどに切なかったから。
私は、それを――――受け容れた。
「どうぞ」
口が動いた。
「先輩の……したいように、してください」
吐息が首元を濡らしてく。
「私はただの『抱き枕』ですから」
手の震えが、強く握りしめた手首ごしに伝ってくる。
「大丈夫――――」
そう口にして、全身から吐息と一緒に力を抜いた。
この感情の名前を、人はなんて呼ぶんだろう。
私はどうしてこんなことを、言っているんだろう。
わからない、わからないけど。
不思議と後悔や悲嘆のようなものは、さっぱりなかった。
たとえこれが、どれほど刹那的な感情でも。
たとえこれが、どれほど悲観的な感傷でも。
今。
あなたの胸に空いた孔を埋められるなら。
あなたの心の隙間を塞ぐ何かになれるなら。
私は、それでよかった。
私は、それがよかった。
この想いは、なんていう名前なんだろね。
多分、恋かな。
嘘だけど。
それじゃあ、愛だね。
嘘だけど。
……だって嘘吐きの私じゃあ、そんな想いの名前はきっと、一生かかっても口にできっこなさそうだし。
だから、私は全てをあなたに委ねてしまう。
抵抗も、説得も、観察も、思考も。
全部手放して、眼を閉じる。
そうやって、大事に握りしめていた指を、一本ずつゆっくりと開いていくように。
ゆっくりと、でも確かに。
私は――――。
「りこ――――――」
――――私の命を手放した。
※
つき先輩を初めて見たのは、春先の校舎の二階の教室。
一年生の教室から不意に窓の外を見上げた、その視線の先にあなたがいた。
透き通るような灰色の眼と、風に流れていくような灰色の髪。
そして、どこか遠くを、ここじゃない、どこか遠くをみるような、そんな表情。
何かを諦めているみたいだった。
何かを失くしてしまったみたいだった。
どうしてか、とても―――寂しがっているような、そんな風に見えてしまった。
丁度、私が独りぼっちだったから、きっとあなたに、そんな自分の情景を勝手に重なってしまったんだと想う。
だから、しばらく私は窓の向こうのあなたのことを、じっと見ていた。
あなたは私に気付いてなんて、いなかっただろうけど。
私はその綺麗な灰色の瞳に映る寂しさを、独りで、ずっとずっと見つめていたんだ。
やがて夏が近くなった頃、あなたは学校に来なくなって。
それに合わせて、私も窓の外を見上げるのを止めてしまった。
言葉の一つも交わさない、ただの一方的な共感もどきでしかないけれど。
私はあの時、あなたの想いを、あなたの瞳に映る私の寂しさの影を。
ずっとずっと、探していたんだ。
誰の隣にいることもできない、独りぼっちの私はそうやって。
勝手にあなたのことを、想っていたんだ。
ずっとずっと。
だから。
「大丈夫―――大丈夫だから」
私は、そんな××を口にしていた。
この言葉があなたにどう届くのかわからないけど。
それでも、どうかあなたの胸の痛みが少しでも紛れるのなら。
私はそれでよかった。