第2夜 狼少女と貯金箱
りこの反応はいつも薄い。
身体を抱きしめても、頬を擦り合わせても、耳にそっと息を吹きかけても。
ほとんど身じろぎもしないし、表情動かさないし、声も出さない。本人曰く、そもそも感覚がそんなに敏感じゃないらしい。
私はそんな言葉にふうんって相槌を打ちながら、今日も変わらず君を抱き枕にする。
まあ、反応がないのが寂しくないと言えば嘘になるけど、私としては抱きしめられてくれるだけでありがたい。
だって、よくよく考えたらこうやって、人と敵意じゃない理由で触れ合うのなんて一体いつ振りのことなんだろう。お母さんやお父さんも、何時頃からか、私のことは怖がってあまり触れなくなったし。
ふと想い出せば、こうやって感じる人肌の暖かさえ、いつの間にか忘れてしまっていた。だから私はこうやって、君を抱きしめているだけで満足してる。
たとえ君が反応してくれなくても、これが私の一方的な欲望の処理だとしても……お金が絡んだただの契約だとしても。
私はこれ以上、望まない、望めない。
だから君の反応がどれだけ薄くても、別に文句はないんだけれど……。
「ねえ……りこ」
私の言葉に君は「はい」と短く返した。ただ視線はこっちに向いてこない。
「…………お仕事中にスマホはどうかと思うよ」
私が必死に抱きしめているのに、君はいつのまにやら取り出したスマホの画面に視線を向けていた。まあ、別に文句はないんだけれど、蔑ろにされているみたいで、少し傷つく。
「すいません、ちょっと通販見てて」
「…………通販?」
我ながら声が少し怪訝そうになるのが抑えられない。年上なんだし、もう少し落ち着いていたい気もするけれど、りこの前だと気持ちが少し抑えきれない時がある。
「貯金箱、買おうと思うんですよ」
そう言って君が向けてきたスマホには確かに通販ショップの貯金箱の検索結果が映し出されてた。私はふうんと頷きながら、そのスマホ越しのりこの顔をじっと見る。
「それって今、見なきゃダメ?」
我ながら、今の言葉は少し面倒くさい言い方な気がしたけど、これに関してはりこが悪いからそのままちょっと詰問してみる。りこはしばらく私から目線を逸らして、考える素振りを見せてたけど、ふうって一息吐くと諦めたように話し始めた。
「この前、とうとう親にここのバイト代が見つかりまして、ちょっと質問攻めに遭っちゃって」
「ああ……そういえば言ってたね」
この前遅くなった時、りこに多めに渡したお金が、私の思考の中でふっと蘇る。
「だから、これからは見つからないとこに隠したいんですけど、うちは狭いので隠す場所がないんです」
「うん、なるほど」
りこは目線を逸らしたまま、ちょっと口をとがらせて気まずそうに言葉を続ける。
「だから…………ここに貯金箱置かせてくれないかなって」
「………………」
そう言った後、りこはちらちらと私のことを窺ってくる。
……あれ、そういえば、最初問い詰めていたのは私の方なはずだけど、気付けばりこのお願いを聞く流れになっている。
私はりこの顔と、画面に映し出された貯金箱たちを眺めて、ふうんと思わず納得してしまった。
りこから漂ってくるのは、嘘ではないけど、少し甘えたような香り。
「ねえ、りこ」
「はい」
「初めからその話するために、スマホ見てたの?」
「…………違います」
今度は明確な甘く酸っぱい嘘の香り。
はあ、どうにもおかしいと想ったんだよね。普段、そんな露骨に不真面目なことしないのに、急にスマホなんか見始めて。
「……りこは、嘘つきだねえ」
そうやって声をかけると、りこはスマホをそっと顔に寄せて表情を隠し始めた。
反応が薄いって思ってたけど、ちょっと訂正。
嘘がバレたら、そこそこ反応してくれる。そして私には簡単に嘘がバレる。
つまり、こんなりこの表情を見れる人は、意外と私だけかもね、なんて。
そんな益体もないことを考えながら、私は軽く微笑んだ。
「ま、いいよ。半分私のせいだし、でも代わりに一つ質問していい?」
私の問いに、君は少しスマホで隠してた視線をあげて、こっちを不思議そうに窺う。
「…………なんですか?」
「りこはどうして、そんなにお金貯めてるの?」
そうやって君の眼を真っすぐ見ると、りこは少し押し黙って俯いた。
りこは基本的に、自分の話をあんまりしない。
どんな家庭で育ったとか、どんな音楽が好きとか、どんな趣味をしてるとか。
自分から言うことはほとんどないし、聞いてもはぐらかすような嘘ばかり吐く。
どうしてそこまで隠すのかはわからない、ともすれば自分の情報を知られることを恐れているようにすら見える。まあ、私相手だと嘘がバレるから尚のことかもしれない。
そう思うと隠すのも仕方ないかなって気はするけれど。
でもいざ露骨に隠されてしまうと、私としては少しだけ胸に小さな孔が開いたような気持ちになる。わがままかな、わがままだね。こんな身体に産まれた以上、警戒されるのは仕方のないことなのに。
しばらく沈黙が続いた。これは、答えてくれないやつかな、と内心ちょっとがっかりする。
でもまあ、仕方がないか、りこにとって私はあくまで仕事上の関係で、突然関わることになった化け物だ、そこまで自分のことを話す意味もない。
「ごめん、りこ、やっぱり「―――のためです」
あれ?
「え?」「―――学費のためです」
……答えてくれた?
りこはぼそぼそと口を動かしながら、でもその瞳は、じっと私のことを見返していた。
「学費……?」
「行きたい学校があるんです……だから貯めてるんです」
そうりこは言い切ると、どこか恥ずかしそうに目線を逸らした。
「どこの学校?」
「言いません」
「何する学校?」
「教えません」
「どれくらいお金いるの? 今の額で足りてる?」
「もうダメです、質問終わりです」
そう言った君は気づけば顔を真っ赤にして、スマホの裏に隠れてしまった。嘘を吐かないようする誤魔化しも、子どもっぽいというかなんというか。なんとなく末っ子っぽい。
「なるほど、わかった。これ以上は聞かない」
そう言って、私は両手を上げて降参のポーズをとる。すると、りこはほんとかなあとでもいうように、スマホの奥からこそっと視線を向けてくる。
「…………じゃあ、貯金箱置いていいですか?」
じりじりと警戒しながら、こっちを窺ってくるそんな姿は、まだ心を開いてくれていない野良猫のよう。そういえば、ひねくれ者で嘘吐きなのも、どことなく猫っぽいね。
「うん、いいよ。どんなやつにするの?」
そんな姿に少し苦笑して、まだ若干警戒気味の君の首元にそっと顔を寄せてみる。
首元から漂う、りこ特有の染みついた甘い匂いが、私の鼻孔をそっとくすぐる。
「む……」
「ほら、こうしないと、画面見えないから」
なんて、私も嘘が板についてきたかもしれない。二人で一緒に見たかったのは、別に嘘じゃないけれど。
君は少し何かいいたそうだったけど、わざとらしくため息をつくと、すっすとスマホの画面をスライドさせ始めた。
何がいいかなーなんて、わざとらしくいってみるけれど、りこはあんまり反応してくれない。あらあら、いつもの無反応なりこに戻っちゃったね。
ただスマホに触れていたりこの指が、ある画面でふっと止まった。
「いいのあった?」
「…………これとか、どうですか?」
そう言って、りこがタップして見せてきたのは…………なんだろうこれ、犬かな。灰色のおっきなぬいぐるみの貯金箱。いや、犬というか狼……なのか、いかにもお伽噺に出てきそうな悪い顔してるし。舌をベロッと出して、随分と怖そうだ。
ちらってりこの方を見返してみると、私の顔のすぐ隣で、ちょっと意地悪そうな笑みが見えた。うん、この子わざとやってるね。
「却下」
「ええ……。先輩そっくりでいいじゃないですか?」
「私こんなに悪そうな顔してないから……、あ、こっちの方がいいよ。こっちにしよ」
そう言って、お勧め欄に出てきた、別の貯金箱をタップする。
ぱっと画面に映し出されたのは、デフォルメされた小さな黒猫の貯金箱。どことなく意地悪そうで、だけど不思議と可愛げがあって、うん、なかなか悪くない。
「先輩、狼なのに猫がいいんですか?」
「うん、だってこっちの方がりこっぽいよ」
そうやって言うと、君はむーっと不満そうに口を尖らせた。
「やっぱりさっきの奴にしましょう、絶対先輩に似合ってます」
「だめ、こっち。だってりこにピッタリだよ」
私はそんな君を見て、思わず隠しもせずに笑ってしまう。
「……別に私にピッタリじゃなくていいんですよ」
「でも、りこの貯金箱でしょ?」
「……なら、私が決めていいじゃないですか」
「そうだけど、でも、私はこっちがいいな」
「もう……つき先輩はわがままだ」
なんて騒がしいやり取りを、静かな真夜中に繰り返して。
結局、私がお金出すから、貯金箱は黒猫のやつになった。りこは最後まで不満そうだったけど、そんな姿を見て私がくすくす笑っていたら、やがて諦めたように受け容れてくれた。
※
後日、段ボールで届いたその貯金箱を二人で開けて、晴れてその貯金箱は家の玄関にそっと置かれた。
まん丸な黒猫がくりっとした目で、ちょこんと座った、そんな可愛い貯金箱。これからはこの子が、りこのバイト代を預かってくれるわけだ。
私が少し楽しくなってその貯金箱を可愛がっていたら、なんでかりこはいつもよりずっと恥ずかしそうだった。はてさて、なんでだろうね。
「なんでつき先輩が、そんなに喜んでるんですか……」
そういう君は少し呆れたような、恥ずかしいような、なんとも言えない表情だったけど。
「うん? だってりこがずっとうちにいてくれるみたいじゃない?」
私がそう言うと、はあっと思いっきりため息をついて顔を逸らしてしまった。ただ、その逸らした顔がすっかり赤くなっているのを、私は見逃さなかったわけだけど。
「あ、でも、りこがお金必要になったら、この子持って行っちゃうのか……」
失念してた。そうだいつかはお別れをしなければいけないんだ。
「…………いや、私はいらないんで。中身だけ持っていきますから、どうぞ先輩が使ってください」
なんて独りで落ち込んでいたら、りこはあきれ顔でそう言ってきた。
「ほんとにいいの? じゃあその時は、貰っちゃうよ? やっぱり欲しいって言っても返さないからね?」
「はいはい、それでいいです、その時は先輩の子にしちゃってください」
「ふふ、やった、どーしよ、名前つけよっかな。そうだね……りこをもじって、りーこにしようか」
「もう、好きにしてください……」
そんな君の投げやりな言葉に、私はすっかり気をよくして、あえて、りーこ、りーこと呼んでいた。りこを呼ぶときに、りーこって呼ぶと、ちゃんと「それはあっちでしょ」って、りこが反応してくれるのも面白かった。
そんなこんなで、我が家に新しい家族が増えた。
りこそっくりの、黒猫りーこ。りこの大事なものを守ってくれる。
君が帰ってしまった後、夜に独りでそっとりーこを撫でながら、暗い部屋の中、私はそっと微笑んだ。まるで君の分身が一緒にいてくれるような気持ちになるから。
こういうのを想い出の品って言うのかな。まあ今日、届いたばかりのものだから、気が早い気はするけれど。
でもこれで、いつかりこが私の元を去ってしまったその時でも、この子は私の元に想い出として変わらず残ってくれる。
そう思うと、胸の奥がじんわりと暖かくなっていって。
そう想うと、喉の奥がじんわりと痛くなってくる。
眼を閉じてしまえば、浮かぶのはさっきまで抱きしめていた、君の白くて柔らかそうな首元。そして、その向こうに流れる血の脈拍。
この関係には、いつか必ず終わりの時が訪れる。
私が狼で、君が人である限り。
この衝動が、私の胸にある限り。
でも、今は、せめて今だけは。
胸の奥に空いた穴を埋めるように、りーこをぎゅっと抱きしめた。目の奥から零れそうな何かは抑えたまま。
暗い夜の中、胸の奥で震える熱さの意味さえ知らないまま。
ただ眼を閉じてじっと君を抱きしめた。
まだ大丈夫。まだ大丈夫だから。
暗い部屋の中、そう自分に何度も言い聞かながら。
ふと振り返った先で、窓から覗く満月に近い月の光が、私のことを悲しげに見ているような気がした。
大丈夫、まだ。大丈夫。