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狼少女と嘘吐き少女  作者: キノハタ
エピローグ

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34/38

とうことさやかと将来のこと

 満月の日から2日が経ち、美術部の部長のさやかと、副部長のとうこは、美術部に返ってきたりこのキャンバスをじっと眺めていた。


 空の絵だ、黒猫と灰色の狼を中心に、青空と夜空が織り重なるように、鮮やかに描かれている。


 上手く言葉にすることはできない、拙い部分も多くある。でも、それでもこの絵が、誰かにとって、かけがえのない絵だということはわかる。そんな絵だ。


 りこと一緒に、その絵を美術部に返しにきたつきの表情を想い出しながら、さやかは静かに頷いた。


 「ちょっと、羨ましいよね。もし自分のためにこんな絵を描いてもらえたら、どんな気持ちになるのかな」


 あの時のつきの表情は、どこか静かなのに、晴れ晴れしくもあり。話によれば、引っ越しだとか、そういう悲しい事情も色々あってなくなったらしい。


 それは確かに、紛れもなくこの絵が、つきの人生を変えた証左でもあった。


 とうこはその話を以前、つきから聞いているから、尚のことこの絵が―――そしてりこがつきにもたらした変化を感じ取っていた。


 「誰かの人生変えるような、なんて言ったけど、まさか本当に変えてくるとはね」


 一体、どれだけの人が、どれだけの作品が、それほどまでに誰かの心を揺らせるだろうか。


 もちろん、作品に込められた想いの価値に貴賤はない。


 どれだけ影響を与えたか、どれほどの人数に支持されたか、どれだけコンクールで評価されたか。客観的な事実は数多のようにあるけれど、どんな作品にだって相応の想いと価値がこめられている。


 それでもこの世界で、たった一人の人生を変えるため描かれた絵には、どれほどの想いが込められているのだろうか。それを受け取った時、どんな感情がその人を包むのだろうか。


 結局、それは当人同士にしかわからないものではあるけれど。


 それはきっと、何ものにも代えがたいもののようなに二人には想えた。


 さやかととうこは、他に誰もいない美術室で、しばらく感慨深くその絵を眺めた。そして、それに満足すると、あるべき場所に飾ろうと、さやかはスタンドからその絵をそっと降ろした。



 その瞬間のことだった。



 ビキッ、とどこか心臓に悪い音がした。



 絵をそっと降ろしかけた、さやかの手、その指先から、不穏な神経を逆なでするような音がする。


 思わずとうこは傍に駆け寄って、絵の裏面を慌てて確認した。


 ひびが入っていた。幸い、表面には影響はないが、裏地の骨組みがかなり潰れてひしゃげている。


 まるで―――何かに思いっきり叩きつけた跡のように。


 しばらく部屋に沈黙が流れた。


 そんな二人の脳裏によぎるのは、絵を美術室に戻しに来た、りことつきの姿。


 そして、あの時どうしてか、やたら目線を逸らして、気まずそうにしていたりこの表情。


 まるで、何かバツの悪いことを隠しているみたいだった。


 とうこは恐る恐る、さやかの方を振り返る。


 さやかは笑顔だ。貼り付けたような笑みを浮かべている。ただ同時に、口元が微かに震えていた。


 温和な性格のさやかが、美術部の部長として選ばれたのは、周囲をよく見ているからだった。ただ、それ以上に部内で一番絵への敬意とこだわりが強かったところも大きい。


 絵に込められた想いを、そしてその象徴たる絵を、何より誰より大事にしている。


 それはつまり、絵が傷つくことに、人一倍、怒りを覚えるということでもある。


 その絵に込められた想いが、尊ければ、尊い程、その怒りは強く、大きくなる。


 「とうこちゃん…………」


 「さやか……えっと……」


 「後で、りこちゃんとちょっと『お話』しよっか……?」


 「………………そうね」


 阿修羅の如き笑みを張りつけたさやかから、少し目線を逸らしながら、とうこはそっと虚空を仰いだ。瞼の裏に映るのは、あの嘘吐きの後輩の姿。


 並々ならぬ事情があったのだろうということは、もちろん二人も了承してはいるのだが。


 それはそれ、これはこれである。

 

 絵を大切に扱わない行為を、美術部部長さやかは決して許さない。


 二人の他に誰もいないはずの美術室は、どうしてか、無音の怒りで戦慄いていた。


 その頃、こそこそと教室に戻っていたりこは、唐突に、謎の悪寒で背筋を震わせていた。


 秋の涼しくなってきた風のせいだろうか、多分違う。







 ※







 「…………ということがありまして」

 

 そろそろ文化祭も近い頃の放課後。いつかのように屋上で、私はつき先輩に今日の顛末をぼんやりと話していた。


 「あらー……」


 「あの後、部長に死ぬほど怒られました……。なんか、どうしてさやか先輩が部長になったのか、強制的にわからされた気がします……」


 眼を閉じると、未だに耳鳴りがわんわん鳴いている。ふと気を抜けば、瞼の裏に鬼のような形相の部長の顔が浮かんでくるし。怖かった、怖かったという言葉で本当にすましていいのか分からないけど、とにかく怖かった。


 もう二度とキャンバスを、窓ガラスになんて叩きつけない。せめてものいい訳で、事情をかいつまんで話したら、「絵を傷つけるくらいなら、窓ガラスくらい己の拳で割りなさい」と一喝されてしまった。怒るのそこですか、と口にできる雰囲気ですらなかった。


 はあ……お説教が終わった後、とうこ先輩、いつもより優しかったなあ。私と喧嘩したあの女子ですら、どことなく憐れみの視線で見てきていたっけ。きっと怖かったんだろうな、あの子も。


 そうやって私が疲労に息を吐いていると、つき先輩はどこか可笑しそうにくすくす笑ってた。


 「まあ、でも、確かに怒られるくらいの無茶はしてたもんね、りこ」


 そうやって笑うつき先輩に、私は思わず口をとがらせる。


 「まあ、あの時は、自分でもどこかおかしかったと思いますけど……」


 きっと……というか絶対、私の16年の人生で一番無茶はしていた。何もかもが滅茶苦茶だったし、同じことをもう一回やれ、と言われて出来る気は到底しない。


 それくらい、あの数日、私は命を燃やして生きていた気がする。だからこそ、今こうやって、二人で穏やかに過ごしていられるのが、少し感慨深くはあるけれど。


 じーっと後ろから抱き着くつき先輩の方を見上げると、つき先輩は少し不思議そうに首を傾げた。


 「どうしたの、りこ?」


 「……いや、つき先輩のおかげ、随分、人生変わっちゃったなと、あらためて」


 きっと、あの夏の夜の繁華街で、つき先輩の手を取るかどうかが、私の人生の大きな分岐点だったのだろう。それくらい、たった、一か月。そうたったの一か月で、随分と色々起こったもんだ。


 思わず一息をつきながら、そっと首元の包帯をなぞると、つき先輩はどこか慌てたように、え、と言葉を漏らしてた。心なしか、涙目になってる気さえする。


 「ご、ごめん…………私のせいで……」


 「いや、そういう意味で言ったんじゃないですよ……」


 つき先輩の反応を見てから、しまったと反省する。今の言い方じゃあ、あてこすりみたいに聞こえなくもない。私は軽く首を横に振って、少し悩む。


 うーん、口にするのは、恥ずかしい。でも、このままだと、つき先輩、どうせ引きずる。


 結局、仕方ないなあってため息をつきながら、改めてつき先輩に向き直った。


 「えと、本当に、ごめんね、りこ」


 「だから、大丈夫です。変わったって言っても……その……嫌ではないので」


 口にしながら、頬が熱くなるのを感じる。誰かに好意を伝えるのはどうして、こんなに恥ずかしいのかなあ。


 つき先輩の瞳はどことなく涙に潤んだまま、じっと私を見ていた。


 「…………本当に?」


 「……嘘吐いてたらわかるでしょ。……だから、まあ、……その、つき先輩と会えてよかったと想ってますよ」


 口にしながら、こういう時、笑って言えればいいんだろうかと、軽くため息を吐く。多少素直になったと言っても、未だに、正直に言うのは気恥ずかしい。


 つき先輩は、ちょっと涙目を引っ込めて、どこか疑わしそうに私を見つめる。


 「…………ほんとにー?」


 「はい、はい、そうです。会えてよかったと想ってますよ」


 じっと見つめられる視線から、遠く向こうの雲に目線を逃がしながら、適当に言葉をぼやく。


 「後悔してない?」


 「してません」


 嘘は吐いてない……はずだ、多分。


 「怖くない?」


 「今更、怖くなんてないですよ」


 ひらひらと手を振って、なあなあに話を進める。


 「―――この傷がついたのイヤじゃない?」


 ただ不意に、つき先輩の声が少しだけ静かになった。


 ゆっくりと月先輩の方を振り返ると、どこ切なそうな顔をして、私の首元の包帯を―――つき先輩がつけた噛み跡をそっとなぞってる。


 痛くはない、でも少しこそばゆいような感覚がする。


 たかはな先生曰く。この傷は少し特殊な傷らしい。


 噛まれたのに痛みはなく、血も出なくて、血が出ないからその形のまま固定されてる。まるで時間が止まったみたいに、噛み傷がそこにずっとある。


 もしかしたら、一生、治らないかもしれない。人狼が(つがい)につける証のようなものなのかも、と先生は言ってたっけ。


 つき先輩はあれから、時折、この傷のことを気にしてる。


 「別に、なんでもないですよ。学校の先生も、隠すためにスカーフくらいなら使っていいって言ってましたし」


 そうやって答えるけれど、あなたの顔はまだ晴れない。指はそっと私の傷を優しく撫でていく。それが少しだけくすぐったい。


 「りこは―――」


 あなたはそう言って、どこか寂しそうな顔をして、私の眼を見つめてた。灰色でまっさら瞳を、どことなく潤ませながら。


 「―――してませんよ、後悔」


 だから、まっすぐその瞳に、言葉を返した。一瞬、つき先輩の視線が微かに揺れた。


 「…………」


 「一生の番とか、人狼の習性とか、そういうのはよくわからないけど。後悔はしてません。あの時の決断が間違ってたとも思ってません」


 ただ、まっすぐと言葉を返す。


 「………そっか、りこは、強くなったね」


 「……そうですか? 自覚ないんですけど」


 つき先輩はそう言って、どこか仕方ないなあという風に笑った。そんな様子に、私は思わず首を傾げる。強くなった……のだろうか。未だにホントのこと言うと、気恥ずかしさの方が勝つんだけれど。


 試しに腕をむんっとまげて、力こぶをつくってみる。ふぎぎと思いっきり力を籠めるけど、窓ガラス割った時の筋肉痛が邪魔をして、いまいち力が入らない。


 ぷっくり浮かんだ力こぶも、なんか小さなおもちみたいだ。


 「てい」


 案の定、つき先輩にちょっとつつかれただけで、ぷしゅっとしぼんでしまった。おもちより儚い柔らかさだ。こんなので、強くなってるのかな、私。


 「ぐぬぬ、きんにくパワーが足りない……」


 「よくその細腕で、あの窓ガラス割れたねえ」


 「かじばすとぅーぴっどぱぅわーのお陰ですね」


 「え? …………あ、火事場の馬鹿力か……なんで火事場だけ日本語なの」


 「火事場って英語でなんて言うんですか?」


 「…………何だろ、ファイヤーゾーン……?」


 「あはは、絶対ちがーう」


 なんてやり取りを繰り返していたら、つき先輩は灰色の髪を揺らしながら、どこかおかしそうにくすくす笑った。そんな姿を見て、私も少しだけほくそ笑んでしまう。


 うんやっぱり、私はこれくらいくだらないこと言ってる方が、性に合ってる。


 通り名は常備薬りこだもの、こんな私の下らない嘘であなたが笑えるなら、それでいい。


 一生の番とか、人狼の宿命とか、急に言われてもわかんないもん。


 なあなあにして、曖昧にして、今日も知らないうちに隣に居るくらいがちょうどいい。


 そうやって、笑っていたらつき先輩は思い出したように、はっとした顔になる。


 「そうだ、りこにバイト代渡さないと、色々貯まってたよね」


 そう言ってつき先輩が慌てて鞄を漁ろうとしたから、私はぎゅっと抱き着いた。そうすれば、つき先輩は咄嗟に動けないことを知ったうえで。


 「り、りこ?!」


 うーん、すらっと細身だけど、柔らかい。一体このしなやかボディのどこに、あんな人狼パワーが眠っているのやら、人外の人体は不思議だねえ。


 つき先輩は、急に抱き着いてきた私に、慌てて顔を真っ赤にしてるけど、私は何食わぬ顔で首を横に振る。


 「バイト代、もういいですよ、必要なくなったんで。ていうか、渡されたお金も返します」


 そう言ってつき先輩が困惑している間に、いつか海岸で渡された封筒をカバンから引っ張り出して、そのままつき先輩に押し返す。今更見ても思うけど、洒落にならない金額が入っている。いくら自由にできるからって、未成年が気軽に貰っていい額じゃないよこれは。まじめにパパ活を疑われる、もう遅いか。


 「え、え、でも、りこ学費要るんでしょ?! 絵の学校に行かなくちゃいけないんだから……」


 そうやってつき先輩は慌てて言うけれど、私は思わず頬をかきながら、少しだけ目線を逸らした。


 「いや、それも、もう大丈夫になったと言いますか……」


 そんな私の言葉に、つき先輩はどこか不安そうに首を傾げた。


 うーん……ここから先は、私の情けない思い込みの話だから、少し口にするのが躊躇われるけど。


 あなたの視線がみるみる不安に染まっていくから、仕方ないなとため息をついて、諦めて私は今日、美術室で言われたことを伝えることにした。




 ※




 「そういや、あんたなんでわざわざバイトしてんの? うちの学校、バイト禁止でしょ?」


 あの後私は、さやか先輩から、雷のようなお怒りの言葉を頂戴した後、美術室の隅っこでしょげていた。そしたら、とうこ先輩は慰めるように、そうやって何気なく首を傾げて話しかけてきた。


 私は思わずえーっと、目線を逸らしながら、なんとなく気まずくなる。


 「そ、その、芸大に行きたくて……うち貧乏なので、学費貯めてたんです」


 口にしてから、烏滸がましいなと自分でも思った。一年で一枚しか絵を描いてない奴が目指す夢では多分ない。笑われるだろうかと、少し身を固めたけれど、とうこ先輩はふぅんと唸ると続けて、もう一度首を傾げた。


 「ふうん、()()()()()使()()()()()?」


 「しょうがくきん……ですか?」


 芸大に行くのに、そんなもの使えるんだろうか。ああいうのは、頭いい人だけが貰えるやつじゃないっけ。


 「…………そうだけど……ちょっと待って、嫌な予感してきた。あんたバイト週にどんだけ入れてるの?」


 「…………ほぼ毎日ですけど」


 まあ、最近はつき先輩のごたごたがあったから、ちょっと少ないけど。


 「……何時まで?」


 「割と遅くまで」


 未成年は働ける時間が決まってるから、思うように働けなくて大変なのだ。


 「……いつからそんな生活してんの?」


 「中学の頃から、ずっと……ですかね」


 本当は完全に毎日に働きたいけど、さすがにマスターに止められてしまっている。


 「……それで、学費足りそうなの?」


 「いや、全然さっぱり」


 悲しいかな、つき先輩から貰ったお金を足しても、学費全体から見ればまだ程遠い。現実はいつも厳しく非情である。


 はてさて、どうしたもんかなと、虚空を仰いでいたら、とうこ先輩の藪睨みのような視線が降ってきた。……何かまずいこと言ったかな、私。


 「ちょっと、こっち来なさい、あんた」


 そのまま有無を言わさず、首根っこを掴まれた猫の如く、ずるずると引っ張られる。


 なんだなんだと慌てていたら、そのままご立腹のさやか先輩のところまで、また連れられてこられた。未だに笑顔が震えてるさやか先輩の視線で、身体が反射的にびくっと震えるけれど、そんな私に構わずとうこ先輩はさやか先輩と何やら話を始めてる。


 「―――で、こうで―――だから、こいつに―――」


 「ほ、ほんと―――?! えと、じゃああれと―――それも」


 しばらく話していると、さやか先輩の表情は怒りが段々解けていって、途中からは何やら焦ったような表情に変わっていた。


 何だろう。いまいち知らない単語が飛び交う話に首を傾げる。そしたら、さやか先輩は大慌てで鞄から、何やらいろいろ取り出すと、それをずらずら私の前に並べ出した。何だろう、パンフレット、かな……?


 そのうち、なんだなんだと、周囲の美術部員まで、不思議そうに寄ってきて、何故だか私が気恥ずかしい。


 そしたらさやか先輩はすっかり、慌てたような顔で、私の肩をがっと掴んだ。そして、何かを必死に訴えるように口を開いた。


 「り、りこちゃん! あのね! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」


 それから、さやか先輩はそう言って、パンフレットの一つを指さした。


 「これはね、芸大向けの奨学金制度。こっちは困窮世帯向けの制度。あとはね、専門学校もあるでしょ、芸大よりは大分、学費も安いの。それとこっちは、元々学費が安めの大学。分野は結構違うけど、デザインの大学とかは一杯あって、りこちゃんが何かしたいかによると思うけど、あとは、あとは…………」


 そうしてあれよあれよという間に、私の手にパンフレットがどんどん載せられていく。


 え? って思わず呆けている間に、さやか先輩の説明は怒涛の様に続いてく。


 「後はね、働きながら絵を描いてる人とかも一杯いるの。普通の大学に入って、そこで描いてる人ももちろんいるし。デザイン系のお仕事について、働きながら絵の勉強をしている人もいる。逆に、働いてお金を貯めてから、学校行く人もいるし。後はね、実際に絵の依頼を受けたりとかもできるの。そういうサイトがあるから、そこで募集したりするの。そこら辺のフリマサイトじゃダメだよ。ちゃんと、絵を求めてる人が集まるところ。りこちゃん、特定の誰かに向けて、絵を描くのきっと凄く上手いと思うから、私はそっちがお勧めかな。ポートフォリオがいるんだけれど、あの黒猫と狼の絵を見せるのが一番だと思う。それ以外も、ほら一杯方法はあってね―――」


 ……………………?


 「さやか、一旦ストップ。譎、処理落ちしてるから」


 そう言いながら、とうこ先輩のチョップが、さやか先輩の頭に落ちたところで、ようやく怒涛のような言葉の波がいったん止まる。


 私は未だに少し、圧倒されたまま。


 「…………っていうわけで、まあ、無理して一つの道に固執するなって話ね。あんたどうせ、奨学金とか、他のやり方、何も知らなかったんでしょ?」


 そうやってとうこ先輩は呆けた私の手の上の、パンフレットを軽く捲っていく。


 「あのね、世の中、選択肢は一つじゃないの。それに絵が描けないくらい働き詰めたら、本末転倒でしょ」


 そうやって、言われていることは多分、理解できると思う。


 でも同時に、今までの常識が、私の中で首を傾げ続けてる。


 だって、独りで、全部やらないといけないと思ってた。


 私の問題なんだから、私が解決しないといけないと思ってた。


 世の中には、この道しかないのだと思っていた。


 「でも…………」


 「あのね、譎。あんた、『芸大に行きたい』の? それとも『絵が描きたい』の? ちなみに『金が稼ぎたい』だけなら、絵を描くより、そのままバイトしてる方が確実よ」


 思考が、一瞬止まる。


 私は……私は何がしたかったんだろう。


 初めて絵を描いた時、想い描いていたのは、どういう光景だっただろうか。


 「最近はSNSにあげるのとかもあるよね」「うちはゲームデザイン志望でさ」「俺は多分、趣味で描いてくかな」「私は府内の芸大志望だから」


 周りに集まってきた美術部員たちが、思い思いに、絵を描きながら生きていく方法を喋ってる。


 それぞれ目指す道は全く違う。でも、それがまるで当たり前みたいだ。


 わからない、すぐに受け入れるのは難しい。


 でも、袋小路だったはずの場所に、実は横道が沢山あったかのような。


 昨日まで存在しなかったはずの選択肢が、急に沢山湧いて出てきたような。


 そんな何とも言えない、不思議な感覚がした。


 ずっと独りぼっちだったから、気付かなかったこと。


 気づいてしまえば、あっけないほどに簡単なこと。


 私は何も言えず、そんな無数の選択肢が記された、パンフレットの束をじっと見つめていた。


 私は何がしたいんだろう。


 ふっと振り返った先にあるのは、つき先輩のために描いた、あの黒猫と狼の絵。


 私は、何を描きたいんだろう。


 あの絵の次に。


 考える。


 きっと、答えはすぐにはでない。


 それでも、今はどうしてか。


 少しずつだけど、何かが変わっていくような、そんな感じがした。


 そんな私を、とうこ先輩とさやか先輩は、微笑みながら、静かに見守っていた。





 ※





 「―――っていうことがあったんです」


 「私、ずっと、芸大行かなきゃダメだって。そうして絵でお金を稼げなきゃダメだって思ってたんですけど。それ以外でも、絵を描き続ける方法って一杯あるみたいなんです。私、人に相談しないから、全然知らなかったけど」


 私は独りでずっと抱え込んでばかりだったから、知らないことが沢山あった。


 自分しか解決できないと想ってた、全部自分でやらなきゃいけないんだと想ってた。


 よく考えたら、親に学費のことなんて、一度だって相談したこともなかった。


 さやか先輩は奨学金で芸大に行くらしい。とうこ先輩は普通の大学行きながら、絵を描いていくんだって。みんなそれぞれのやり方で、それぞれのやりたいことを叶える方法を、少しずつ模索している。


 「なんか、ちょっと、色々教えてもらって見方と変わったと言いますか……。一つだけしか正解がないと思ってたけど、いくらでもやりようがあるんだなって思えたって言うか。それなら、今、無理してお金貯めるより、ちゃんと描きたい絵を描いた方がいいのかなって」


 あれだけ、どうしようもなく手詰まりに思えた現実が、人に頼るだけで簡単に糸口が見つかった。なんだか少し変な気分だった。


 「だから、その、つき先輩からお金を貰うのもちょっと違うなって、想ったんです。その、えと、………………りょ、りょう想いなわけですし…………」


 ただ、最後のは口にしてから後悔した。あまりにも恥ずかしすぎる。やっぱり私には素直になるなんて向いてないよ絶対。


 かーっと頬が熱くなって、思わず視界までぐるぐる回りそうになる。


 う、うぐ。だめだ調子乗ってこんなこと言うんじゃなかった……。


 恐る恐る、つき先輩の様子を窺うと、あなたは静かに涙を貯めながら私のことをじっと見ていた。


 「そっか、よかった―――よかったね。りこ」


 あれ、両想いって言ったことを、もっと揶揄われるかと想ったのに……。存外何も起こらずにただじっと抱きしめられる。


 まるで、本当に自分のことを喜んでるみたいだ。


 それが少しこそばゆくて。


 だけど、胸の奥が微かに暖かくなる。


 「よかったね」


 あなたはそう繰り返しながら、私のことを、ぎゅっと抱きしめていた。


 わからない、先のことは何も。


 これからのことも何一つ。


 でも、今はどうしてか、そこまで不安も感じない。


 秋の夕暮れの風がごうっと、私のたちの背中を撫でていく。


 この風は何処に行くのだろう、あの棚引く雲はどこまで流れていくのだろう。


 わからない、でも、それでいいのかもしれない。


 だって、今は背中が暖かいから。


 あなたに抱きしめられているこの時間が、心地いいから。


 何もわからなくても、それでもいいか。


 私は静かに一つ息を吐く。あなたが涙をすする音を聞きながら。


 「よかったね」


 あなたのそんな声を聴きながら。


 少しだけ目を閉じた。


 秋風がまた私たちの身体を撫でていく。


 遠く向こうでたくさんの生徒が、騒ぐような声がする。


 文化祭も、もうすぐそこだ。

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