第29夜 嘘吐き少女と狼少女
ゆっくりと、ゆっくりと、丁寧に包装された絵の梱包を解いていく。
それから、ことんと音を立てながら、私の絵を壁に立てかけた。
よく見えるように、窓から差す月明かりの真ん中に。
そうしていると、なんだか真っ暗な部屋に月光のスッポトライトが当たったよう。
少し遠目にそれを眺めてから、部屋の隅で毛布で体を隠したあなたの隣に座る。
それからどちらともなく、こてんと身体を寄せ合った。
毛布越しに触れる体温が、少し冷たくなってきた夜風の中で暖かい。
「…………最初は」
そうやって言葉を漏らすと、つき先輩の涙で腫れた目が、ゆっくりと私に向いた。
「……最初は、つき先輩を描くつもりだったんです」
何度も、何度も、あの春の窓際で見上げた、あなたの横顔。
「でも、最後に描き上げるとき、何かが足りない気がして」
いつもは素直に動かない口が、どうしてか今はすらすらと動いてく。なんだか不思議な感じだ、まるでいつも言葉を抑えていた栓が外れてしまったみたい。
「………………何だろうって考えて、わかんなくて、そしたらなんとなく、あの黒猫の貯金箱を想い出しちゃって」
ちらりと視線を横に向けると、まだ泣き腫れたあなたの横側の向こう側、廊下の奥にあの貯金箱が暗がりの中ひっそり見えた。
「それで、最終的に、ああなりました」
そう言いながら、私はあの絵を指さした。
夏の蒼が渦巻くように描かれる中、青空と、夜空と、海と、川が、混ざりあう、その中心。
ビルの上でそっと寄り添う、一匹の黒猫と、一匹の灰色の狼。
どれが誰を表しているのか、説明するのも少し恥ずかしいけれど。
「狼がつき先輩で」
少し顔が紅くなるのを感じながら、それでも口を動かす。
「黒猫が……その、私です」
それでも、今日くらい、今くらいは、少しは素直になりたかった。
虚飾も、暗喩も、嘘も。
せめて、今くらいは、なかったことにして。
「そっか」
つき先輩は短くそう言いながら、こてんと私の肩にその頭を預けてきた。
「二人の―――想い出だもんね」
静かで、か細くて、それでも何かを確かめるように。
「りこがいないと、完成しないよね」
そう、私が伝えきれなかった言葉をゆっくりと、拾い上げるように頷いた。
「本当は、私…………」
零れる言葉が、何を言おうとしているのか、自分でもわかってない。それでも、胸の中にある言葉にならない何かの形を探すように、一つずつ口を動かす。
「あの絵の中に……自分を……多分、描きたくなかったんです」
少し自分の膝をぎゅっと抱えて、胸の奥がじっと痛くなるのを感じながら、それでもまた言葉を探す。
「私は……その、自分が……嫌いだから。……嘘吐きで、素直じゃなくて……わがままな私は、醜いだけだと想ってたから」
もしあの絵の中に、無理矢理を私をそのまま描こうとしたら、きっと目も当てれないくらいぐちゃぐちゃなものになってしまう。
「でも綺麗なものは描くのは好きでした。……私は綺麗じゃないけれど、私が見た世界には綺麗なものが沢山あったから……」
例えば、どこまでも広がるような青空とか。
全てを飲み込んでいくような、暗い夜空とか。
透き通るような髪をした、灰色の狼みたいな人とか。
「だからあの絵の中には、私が綺麗だと想ったものだけ、描いたんだけど……」
少し震えた声をあやすみたいに、あなたの頬がゆっくりと私の頬をなぞっていく。
「でも、それじゃ、足りなかったんだね」
最後の言葉を引き取るように告げたあなたに、私は静かに頷いた。
綺麗なものだけ描きたかった、そこに私はいらなかった。
あの夏の想い出の中に、私はいなくてもいいと想ってた。
でも、それじゃあ、どうしてか足りなかった。
「二人で見たんだから」
「あの夜空も、あの蒼空も」
「だから、きっと二人じゃないと意味がないんだよ」
つき先輩は静かに、私に向かってそう告げる。
そんなあなたの言葉を聞きながら、改めて私の絵を眺めてく。
「りこは猫みたいだからね」
いつか、あなたが言った、そんな言葉。
「気まぐれで、嘘吐きで、わがままで」
私のことを揶揄うように告げた、あなたの言葉。
「だけど、ホントは優しくて、暖かくて」
それが、あの絵の最後のピースを埋めた。
「ピッタリだよ」
そう、私は素直じゃない嘘つきだから、やっぱり私自身を上手く描くことはできない。
だから、ああいう形に描いたんだ。私のことを黒猫として描くなら、隣に居るあなたは狼の姿で描くのが必然だと思った。我ながら回りくどくて、解かりにくい。
でも、描き上げた時、妙な納得感もあったんだ。
まるで初めから、こうするために描いていた絵のような。
この形を最初からずっと、想定していたかのような。
そんな不思議な感覚が、そこにはあった。
「さっきのつき先輩の姿も、丁度あんな感じでした」
想像で描いた割には、ぴったりの姿を描けていたと思う。ただ、私がそう言うと、つき先輩は隣で少し口を不満そうに尖らせた。
「……何? こうなるって想像でもしてたの?」
ちょっと拗ねたみたいな、そんな声。それがなんだか、いつも通りみたいで、少しだけ安心する。
「まさか、でも、つき先輩が狼だったら、あんな風だろうなって想ってたんで」
そうやって安心したから、余計に言葉は、ふっと息を吐くように軽く口から出て行く。
「―――綺麗でした」
「きっと、今まで私が見てきた、誰より、何より、一番」
「つき先輩が、綺麗でした」
流れるような灰色の毛並みも、すらっと伸びたその手足も、鋭く光る爪と牙も。
そのどれもが、まるであの月夜の中にあるために、産まれてきたかのような。
鮮烈で、克明で、一つの美しさの極致の様に、私には見えた気がした。
「…………りこ、わざと言ってる?」
ただ、そうやって口にした直後に、つき先輩の頭が私の肩でぐりぐりと暴れ出す。まるでそうやって何かを誤魔化すみたいに。言葉尻も、少し拗ねたような感じがする。
「…………何ですか、珍しく素直に褒めたんですけど」
ちらっと隣を見てみたら、つき先輩の真っ白な肌が、薄い朱色に染まっていた。どこか恨めしそうに、じっと私のことを見上げてる。
「もしかして……照れました?」
そうやって、尋ねると、また頭はぐしゃぐしゃと私の肩にあてこすられる。どうにも照れていたらしい。ふうん、素直になるのも意外と悪くないかもしれない。
「まったく、普段、嘘ばっか吐く癖に。こういう時はホントなのどうかと思うよ」
そうやって膨れたつき先輩の頬を見ながら、私はこてんと首を傾げる。
「ご心配せずとも、多分、今日だけですよ」
そう、きっと、こんなに素直になれるのは、今日だけだ。
「そう、ならよかった……のかな?」
こんな綺麗な満月の夜くらいにしか、嘘吐きの私は、きっと素直になれない。
人狼が狼になるような、そんな現実と嘘の境が曖昧な夜くらいにしか。
「ところで、りこ。……わかってる?」
つき先輩の声が、静かに響く。
「はい―――わかってます」
満月は私たちの背中を、何も言わずに照らしてる。
「ちょっと泣いて、気が紛れただけだから、すぐにまた噛みたくなるよ」
つき先輩の声は、静かだ。とてもとても、まるで最後の言葉みたいに。
「はい、わかってます」
私がしたことは結局、心を一瞬揺らしただけ、その程度じゃ現実は何も変わらない。
「死んじゃうかもしれない、そうでなくても、取り返しのつかないことになるんだよ。りこが人狼になっちゃうかも……」
つき先輩はそう言いながら、じっと眼を閉じていた。まるで、私に全てを委ねるみたいに。
「……………………」
きっと、あなたは今更、私がここから逃げ出しても、決して責めたりなどしないんだろう。そんなことはわかってる。私がこれからやることが、どれだけ馬鹿げているのかも。
「それでもいいよ」
そう言いながら、視界の先にある絵をじっと見た。
「だって、今までつき先輩が、本気で私のことを傷つけたことなんて一度もないじゃん」
わかってる。
「人狼になるとかもさ、本当にそうなるかもわかんないじゃん。身体が急に作り変わるわけもないしさ。それになったらなったで、以外と便利かもしんないよ。電車に乗り遅れてもビルの上を走ればいいし」
こんな言葉に、根拠も、確証も、何もないことを。
「だから、大丈夫だよ。死んだりしないよ、私は、そう信じてる」
それでもまた、私はこうして嘘を吐く。
「大丈夫」
いつも通り、他愛なく。
「大丈夫だよ」
そうやって、目一杯の笑顔を浮かべながら。
「ね、つき先輩」
そう言ってあなたの顔を振り向いたら。
あなたは、どうしてか信じられないようなものを見る目で、私を見ていた。
どうしてだろう、こんな見え透いた嘘、あなたには簡単にバレるはずなのに。
まるで。
まるで、今、告げた私の言葉が。
ホントのことだったような顔してる。
「………………だからね」
ぎゅっと、あなたの手を握った。
「もう、置いてかないでね、独りは嫌だよ」
声が少し震えるのを感じながら、じっと祈るようにその手を両手で覆う。
「…………でも、私なんかじゃ、りこの人生を償い切れないよ」
暖かくて、柔らかくて、その感覚が何よりきっと心地いい。
「……償おうとしなくていいよ、だって私のわがままなんだから」
こうやって、あなたの隣に居れる感覚が。
「だからさ」
きっと何より、幸せだった。
「いいよ、おいで」
そう言いながら、つき先輩の首元にまだ巻かれていた黒いリボンを手に取って。
そっと。
ゆっくり。
その首元から。
優しく解いた。
これでもう嘘も、ごっこも、おしまいだ。
「つき先輩の、したいように、していいよ」
あなたの頬から雫が零れる。
「大丈夫」
私の頬からも、きっと同じものが零れてる。
「大丈夫だから」
月明かりの中で淡く照らせながら、あなたに精一杯の笑顔を向ける。
根拠なんて、どこにもないの。
確証すら、ありはしないの。
でも、それでも。
嘘吐きの私は、素直になれない私たちは。
それくらいでいい気もするんだ。
この決断の先が、どうなるかもわからない。
これからの人生が、どうなっていくのか想像すらできはしない。
明けない夜を歩いているような、何も見えない荒野を彷徨っているような。
先すら見えない、そんな暗がりの中で、生きているようだけど。
でも、私たちはそれくらいでいい気もするんだ。
だって、こんな寂しい夜に、あの夜に、あなたと出会えたんだから。
こんな独りぼっちの私達が、たまたま出会うことができたんだから。
解りもしない明日に向けて、それでもいいよと暗がりを笑いながら歩いていくような。
そんな人生でいいと想うんだ。
たとえ明けない夜でも、あなたと一緒ならそれでいい。
先が見えなくても、不安と苦しみで一杯でも、あなたの隣に居れるならそれがいい。
二人揃って、手を繋いで歩いて行けるなら。
きっと、それでいいんだよ。
指と指を、その形を確かめるように繋いだ。
涙と涙を、混ぜ合わせるように頬を寄せ合った。
肌と肌を、体温を溶け合わせるように重ね合わせた。
どちらともなしに、私の上着のボタンをはずしてく。
首元と胸元が露になって、そこにあなたはゆっくりと顔をうずめた。
あなたは私の名前を呼びながら、泣きながら、それでも確かにその牙をそっと私の首にあてがっていく。
ドクンとあなたの心臓の音がする。
とくんと私の鼓動の音がする。
肌と肌は触れあって、肌と牙が触れあっている。
それはきっと禁断の行為。何一つ許されない、致命の境。
でも、どうしてか。
今はいつも感じていた。胸が痛いほどの動悸も、息が震えるような背徳感もない。
まるでこうなることが自然のような。
産まれた時から、そういう形であったことを、初めて想い出したみたいな。
そんな、羊水の中につかっているような安心感と、子守唄を聞いているような幸福感が私の身体を満たしてく。
きっと、あなたも。
「つき」
名前を呼んだ。
「りこ」
名前が呼ばれた。
それだけで、よかった。それだけ、幸せだった。
このまま、このまま。
産まれたままの姿のあなたと一緒に、ずっとずっと抱き合っていたい。
「××してる」
ずっと。
「私も」
ずっと。
「××してる」
こうやって、二人でいたい。
「りこ―――りこ――――」
きっと、これから何があっても。
「――――あいしてるよ」
私達は。
「私も―――あいしてる」
こうやって、ずっと、一緒に入れたらいいなと、そう祈った。
ぷつっと小さな音がした。
私の首元、その中で。
あなたがゆっくりと、私の身体の中に入ってくる感覚がした。
熱くて。
暖かくて。
気持ちよくて。
幸せな。
そんな感覚。
それと同時に、一つ、解かった。
きっと。
きっと私は、この時のために、産まれてきたんだ。
きっとあなたも、この時のために、産まれてきたんだ。
産まれてからずっと、ずっと、埋まることのなかった孤独が。
ずっと、ずっと寂しかった、胸に空いたこの空白が。
今日、初めて、埋められたんだ。
私と、あなたは。
やっと、やっと。
やっと一つに、なれたんだ。
ぼろぼろと泣きながら、あなたを精一杯抱きしめた。
その名前を呼びながら。
あなたは私の名前を呼びながら。
私たちはただ繋がっていた。
明日のことも、将来のことも、人狼のことも、私達には何もわかりはしないけど。
でも、今は、ただこの瞬間だけは。
私達は、二人で一つになれたんだ。
ただ、それだけが幸せだった。
※
どれくらいの時間が経ったんだろう。
満月は気づけば、空の天辺を通って、どこかの山の向こうへ沈んでく。
ゆっくりと、ゆっくりと空は、飲み込まれるような黒から淡い紺へと移ってく。
そんな白む空を二人で毛布にくるまりながら、じっと見ていた。
ただお互いの体温を確かめるように抱き合いながら。
「ねえ、りこ」
「なんですか、つき先輩」
静かで、冷たく、なのにどうしてか胸が暖かい。
寂しさと不安の中に、静かな幸せが残ってる。
「怖くなかった?」
「怖くなんてなかったです」
そういって告げた言葉は、きっと嘘ではなかったはずだけど。
「りこは、噓吐きだねえ」
あなたはどうしてか、愛おしそうに微笑みながらそう告げた。
まるでただ、その言葉を口にしたかっただけみたいだ。
夜明けの風が吹いていく、カーテンをはためかせながら、うっすらと差し始める朝陽の中を泳いでいくように。
「そうですよ、私、嘘吐きですから」
だから私は、そんなあなたに、笑って答えた。
そう私は嘘吐きだ。
でも、もうそれでいいや。
あなたの隣に居れるなら。
こんな私でも、それでいい。
きっと、それでいいんだよ
「ねえ、りこ」
「なんですか、つき先輩」
薄れる意識の中、夜明けの光に目を細めながら、あなたの名前を呼んだ。
「大好きだよ」
「はい、私も大好きです」
長い長い夜が明けていく。
明けない夜の、その向こう側。
夜と朝の終わりの狭間の向こうへ想いを馳せながら。
私達はゆっくりと眼を閉じた。
絵の中に映る黒猫と狼と、同じように。
そっと身体を寄せ合った。
もう二度と離れることなどないように。
※
本編はこれで終了です。エピローグ数話を挟んで、完結となります。
ここまでりことつきの行く末に、お付き合い頂きありがとうございました。
キノハタ




