第28夜 狼少女と嘘吐き少女
どうして―――。
「約束――――守りに来たよ」
「つき先輩」
どうして―――君は。
「ねえ、会いにきたよ」
「だから――――私の絵――――――見て欲しいんだ」
私なんかの―――ために。
わからない、何も。
今、この時間が現実なのか、どうかさえ。
涙が零れそうになる。
そのまま抱きしめてしまいそうになる。
名前を呼んで、肌を触れ合わせて。
想った言葉を、もう一度、もう一度、君に伝えたくて。
伝えたい―――けど。
漏れた息が、言葉にならなくて、それは許されないのだと思い知る。
りこはそこにいる、夢じゃない、現実だ。
だというなら、それはつまり。
私の、この姿も現実だ。
割れた窓ガラスの中に反射するのは、灰色の毛並み、尖りきった耳、床に食い込む爪、肉を抉るための牙。
獣のような、なんて形容するのも馬鹿らしいほどに、人の枠から外れた姿。
もう、すっかり狼になってしまった―――私の姿。
言葉の一つも喋れない。
抱き合うことすらできはしない。
こうしている間にも、視線は君の首元に吸い寄せられていく。
涎が滴る。牙が震える。
抑えることも出来ずに息は荒れていく。漏らした音は獣の唸り声にしか聞こえない。
意識を食い破っていくように、身体の昂ぶりが止まらない。
「ねえ、つき先輩」
きちゃ、ダメ。
「約束、したでしょ」
近づか、ないで。
「見てくれるって」
ダメだ、嫌だ。
「 」
吠えた。
自分の口から漏れたとは思えないほどの、敵意のこもった獣の吠え声が部屋中を満たしていく。
割れたガラスが震えて、りこが一瞬目を閉じて、微かにひるむ。
ダメだよ、来ないで、今、私の傍に近寄らないで。
「 」
ごぼごぼと何かが、眼元から零れ落ちていく。
理性と、意識と、感情とを、ぐちゃぐちゃに溶け合わせた何かが、眼元から零れ落ちて、私の中の何かを欠けさせていく。
視界の端に映る満月の光が、どろどろと私の枷を溶かしていく。
嫌だ。襲ってしまう。傷つけてしまう。誰より大事な君に、そんなこと、したくないのに。
「 」
なのに。
「―――吠えても、ダメだから」
君は。
「―――逃げないで、ちゃんと約束、守って」
君の視線は揺るがない。
「嘘じゃないよ、ちゃんと描いてきたんだから」
まるで怖さも不安もないかのように。
「―――本当かどうか、わかるでしょ?」
そういって。
君は一歩、踏み出した。
割れたガラスの上に、ゆっくりと。
パキッと破片が割れる音する。
進む彼女から離れる様に、前足が一歩後ずさりする。
息が震える。胸が震える。
私の中で熱く燃えるような何かが、喉を掴んで必死に首をもたげようとする。
ダメだ。ダメだ。ダメだ。
『喰べたい』
ダメなの。
『噛みたい』
ダメなのに。
『君と一つに―――』
胸の奥で何かが、ドクンと震えた。
君の足が大きなガラスの破片を踏み抜いた。
その瞬間、何かが割れるような音がした。
私の胸の奥に転がっていた、小さなガラスの瓶に亀裂が入るかのような。
私の中の、何かが明確に壊れる、音がした。
「 」
視界が捩じれる。
身体が動く、跳ねるように、跳びかかる様に。
牙を、爪を、剝き出しにして。
私は。
狼の姿のまま。
りこに向けて。
それを―――振りかざした。
※
人狼には喰人衝動がある。
文字通り、人を喰べたいという欲求。
そしてそれを抑えるための『代償行動』として、私は君を抱き枕にしていた。
人を喰べたいという欲求なのに、触れあうことがどうして代償になるのかと、君はどこか不思議そうに首をかしげていたっけ。
どうしてだろうね、でも、不思議と私の身体はそれで、ほどほどには満足していたのも事実だった。
それはつまり、そうやって触れ合うことこそが、『喰人衝動』の本質だったのかもしれない。
衝動が強くなる時、私の身体を満たすのは、どうしようもない欠落感と、終わることのない虚無感と――――そして何より、耐えがたいほどの寂しさだった。
寂しい、寂しい。まるで、世界に私、独りだけのよう。
こんな沢山の人がいるはずの世界で、私だけが誰の隣にもいる資格がないみたい。
触れ合うことも、抱き合うことも、求め合うことも許されなくて。
暗くて寂しい夜の中、誰もいない森を彷徨うように、私だけが独りぼっちみたいだ。
そんな寂しさが、ただ尽きることなく私の身体を渇かしていく。
君を抱きしめたら、この寂しさは埋まるだろうか。
君と触れあえば、この悲しさは埋まるだろうか。
君の名前を呼べば、この虚しさは埋まるだろうか。
君の身体を喰べてしまえば――――。
私の心は、ようやく、独りぼっちじゃなくなるのかな。
そんなこと、あっていいはずがないけれど。
それでも身体は、疼くように飢えるように君を求める。
決して埋まるはずのない、その渇きを癒す何かがそこにあると知っているかのように。
でも、もし本当に君のことを喰べてしまったら。
きっと、私はもう、これから二度と誰かの隣に居られない。
もう一生そんなことは許されない。
そんな気も同時にしていた。
我ながら、本当にどうしようもない。
隣に居ても、居なくても、君を失うことだけは変わらないなんて。
でも、それしか道がないなら、いっそ―――。
どうせ、もう出会うこともできないのなら、いっそ―――。
君の心も身体も、根こそぎ私が奪ってしまえば。
この想い出を、忘れずにいれるだろうか。
君を××したこの想い出を。
失くさずにいられるのかな。
ねえ、りこ。
―――――寂しいよ。
※
朦朧とする意識の狭間。
遠く向こうで、狼の泣く声を聴いていた。
牙が震える。
唾液が滴る。
ぼたぼたと君の首元に向けて。
君は床に組み伏せられた体勢で、それでも真っすぐな視線で私を見上げていた。
君の首元に荒れた息が触れている。濡れた牙は、その白くて柔らかい首に噛みつく瞬間を、今か今かと待っている。
ああ、噛みたい。喰べたい。××したい。
胸の奥で沸騰した何かが、壊れたまま暴れてる。かたかたと揺れて、その振動が私の身体を絶えず揺らし続けてる。
このまま、このまま―――。
「―――ちゆさん、来ちゃダメだからね」
君は何かを言っている。でも、何のことだかわからない。
もう抑えが効かない、タガは完全に壊れてしまった、心は取り返しがつかないほどに崩れてしまった。
もう君を××すことしか考えられない。
「ねえ、つき先輩、聞こえてる?」
抑えつけた獲物が何かを言っている。何を言っているかはわからない。
「私のこと、喰べてもいいけど、後で絵はちゃんと見といてね」
早く。首を。早く。肉を。早く。血を。
早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。早く。
早く、君と、一つに。
「それからさ」
「もし私のこと喰べるなら」
「忘れないでね」
―――――。
「大人になっても、おばあちゃんになっても。何年経っても、何十年経っても」
「ずっと、ずーっと、覚えていてね」
「私のこと、どんな顔してたか、どんな味したか、どんなこと言ってたか、どんな嘘吐いてたか」
「一生……ずっと……、ううん、生まれ変わっても」
「つき先輩の心の中に、私を、ずっと遺しておいてね」
「独りになるのは、忘れられちゃうのは……ほら、嫌だからさ」
「こんな私の命にも、ちっぽけだけど、意味があったんだって」
「他の誰が忘れても、つき先輩だけは覚えていてね」
「ね、約束だよ」
「――――――今度は、もう、独りで置いてかないでね」
「ねえ、つき」
「××してるよ、誰より、何より」
「――――幸せになってね」
そう言って、月明かりに照らされながら、君は笑った。
その眼からぼたぼたと雫をこぼしながら。
そうして笑う君の傍らには、包装が破れたキャンバスが横たわっていて。
そこに。
透き通るような。
空の絵が描かれていた。
息を呑むほどに、暗く、深く。
声を失うほどに、広く、蒼く。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしさすら感じる情景。
それを見た瞬間に。
胸の奥。
がたがたと震える割れた瓶の、その奥から。
不意に、何かが零れだしていた。
あの夏の日に見上げた空が。
君と一緒に跳んだ、あの情景が。
君と過ごした想い出が。
―――止め処なく溢れ出していた。
。
。
。
口を。
「………………れ」
開いた。
「………………なにそれ、ずるいよ」
詰る。
「りこばっかり、満足してさ……残された私の気持ちなんて、一ミリも考えてないじゃん」
詰る。
「りこは肝心なとこでいっつもそう、私の気持ち無視して、自分のやりたいようにして」
ぼたぼたと雫をこぼしながら、君を詰った。
「私がどんな気持ちで遠ざけてたのかも知らないで、私がどんな気持ちで一緒に居たかも知らないで」
でも、違う。
「わがままだよ、嘘つきだよ、独り善がりだよ。なんでそんなこと言うの」
本当に詰られるべきなのが、誰かはわかってる。
「なれるわけないじゃん」
りこが口にした言葉の大半は、私がりこに告げた言葉だ。
「りこがいないのに、幸せになんてなれるわけないじゃん」
それなのに私は君に、無責任に幸せになってなんて言って。
「そんなこと言われて、喰べられるわけないじゃん、私だけまた独りになっちゃうじゃん」
それなのに、私は君を、独りで置き去りにして。
「忘れられるわけ―――ないじゃん」
それなのに私は君に、忘れてと言ったんだ。
「ずるい、ずるいよ。ずるすぎるよ」
ああ。
「私だって独りになりたくないのに、私だって置いてかれるのは嫌なのに、私だって、私だって、私だって―――――」
本当にずるいよ。
「なのに、なんで、そんなこと言うの」
そうやって言えば、私がもう君を独りで置いていけないことを、わかったうえで。
「なんでこんな時だけ、嘘吐かないの」
そうやって言えば、この手をもう離せないことを解ったうえで。
「なんで―――ホントのこと言うの」
そんなわがままを言ってくる。
「ずるい、ずるいよう」
ずるいよ、りこ。
「私だって、嫌だよ。離れたくないよ、忘れられたくないよ、ずっとずっと憶えてて欲しいよ」
全部、全部わかったうえで、そんなこと言うなんて。
「私も……りこの心の中にずっといたいよ」
本当はどうしたいか、解かったうえで言うなんて。
「ずっと、ずっと一緒にいたいよ……」
ずるいよ。
「大人になっても、何年経っても、何十年経っても、来世も、その次の来世もずっと、ずーっと…………」
りこはずるい嘘吐きだよ。
「離れたくなんて……ないよ」
だけど、もう。
「ずっと、りこと……一緒がいいよ」
こんな本音を引き出されてしまった時点で。
「だって、好きだったんだよ、ずっと出会った時から」
私に勝ち目なんて初めからなかったのかもしれない。
「夜の街で、手を取ってくれた……あの時からずっと、ずっと」
誰より、優しくて、わがままで、嘘吐きな、そんな君に。
「――――優しい嘘吐きのりこが好きだったんだよ」
捕まっていたのは、私の方だったのかもしれない。
零れた雫が落ちていく。
もうとっくに、枯れたはずの涙が落ちていく。
生まれたままの人の姿の私から、君の首元に向けて。
ぼたぼたと、ぽたぽたと。
私の心から、溢れた想いが落ちていく。
君はそんな私に、ゆっくりと手を伸ばした。
その手を私はそっと、抱き寄せた。
白くて柔らくて暖かいその手に触れて、なぞって、握りしめて。
ゆっくりと指を重ねてく。
そうして最後に、身体をそっと触れ合わせた。
お互いの体温を確かめるかのように。
今のこの姿を、確認するみたいにして。
お互いに止め処ない雫を、目から零し続けたまま。
満月の夜の中、二人して泣きじゃくりながら。
私達は抱き合っていた。
遠く向こうで、狼の泣く声がする。
どこか遠くの誰かを、そっと呼んでいるような。
そんな静かな声がする。
そんな私たちの視界の端、床に転がった絵の真ん中には。
透き通るような青空と、溶けるような夜空が、混ざり合う中心で。
一匹の、小さな黒猫と。
一匹の、灰色の狼が。
そっと、その身体を寄せ合っていた。
まるで、一組の番の様に。
そこに描かれた夏の想い出を、二匹でじっと眺めているような。
そんな姿が描かれていた。
副部長さんの言葉が、不意に頭をよぎってく。
『まるで、この世界のどこかたった一人に向けて描いたみたいな』
『あの子にしか描けない何かが、そこにある。そういう絵を描くのよ』
ああ、なるほど、と想った。
この絵はきっと、本当に。
たった一人、この世界で、たった一人のためだけに描かれた絵だ。
他の誰が見ても、これが何の絵かはわからないだろうけど。この世界ではただ一人、私だけはこれが何なのか理解できてしまう。
これは私達の想い出の絵だ。
想い出を、情景を、感情を。
私達が二人で見てきた、この夏の、その全てを描いたような。
一緒に歩いた想い出を、一欠片だって忘れないために描いたような。
まるで、私の心を致命的に動かすためだけに、描かれたような。
そんな絵だ。
鮮明に夜空の中を弾けるような、あの花火が描かれている。
克明に二人でビルの間を跳んだ、あの夜の街が描かれている。
蒼空の中、遥かどこまでも立ち昇るような、あの入道雲が描かれている。
その向こう、空と交わる境界に雄大な、あの海原が描かれている。
そんな、この夏の私たちの想い出の、全てがそこに刻まれていた。
ああ、きっと私はこの絵を、この情景を、生涯忘れることはできないのかもしれない。
そう想えてしまうほど、そこには鮮明で、色鮮やかな、私たちの―――私たちのためだけの、世界でたった一つの想い出が描かれていた。
雫が零れる。
『誰かの人生を変えるのはああいう絵なの』
嗚咽が漏れる。
そんな私を、君は無言で抱き寄せた。
そうして君の胸に抱かれると同時に、何かの堰が切れるように、声と涙が零れていった。
暗く静かな夜の中。私の泣き声が響いてく。
嗚咽と涙が混じる中で、君の名前を呼びながら。
そんな私たちを、その黒猫と狼の絵は、月明かりに照らされながら、じっと静かに見守っていた。




