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狼少女と嘘吐き少女  作者: キノハタ
第5章 二人

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第27夜 嘘吐き少女とその理由

 夕暮れの中、人ごみを抜けて、走ってく。



 あなたの元へ、あなたの隣へ。



 風に背を押されながら、空を塗り替える夜闇に急かされていくように。



 約束の絵を背負いながら、駆けていく。



 届け、届け、と繰り返しながら。



 零れた涙を、今は見ないふりをして。



 もう一度、あなたの名前を呼ぶために。



 ただ、走った。









 ※




 それでも悲しいけど、つき先輩に会うためには現実的な障害がいくつもある。


 まずどうにか、セキュリティのしっかりしているあのマンションに侵入しないといけない。ドアにカギがかかってるなら、なんとか開けないといけないし、その間、人に見つかるわけにもいかない。


 無理に騒ぎを起こせば、つき先輩も気付くかもしれないけれど、最悪逃げられる可能性もある。人狼の足で本気で逃げられたら、私なんかじゃ絶対に追いつけない。


 だから、どうにか気づかれずに、つき先輩の元まで行かなきゃいけない。


 駅前の高層マンションに辿り着いた私は、とりあえず路地裏に入って、そこからマンションのエントランスを窺う。


 マンションに出入りする人がいないか様子を見て、どうにかその隙間に潜り込めれば――――。


 「こら、何してんだ、嘘吐きガール。不法侵入ガールにランクアップでもするつもり?」


 ―――なんて思考をしていたら、首元をぐいっと引っ張られて、背負っていたキャンバスごとぶらんとぶら下げられた。絵面的には首根っこを掴まれてる猫のあれだ。


 ちらっと後ろを振り返れば、目に映ったのは大層呆れ顔の吸血鬼の姿だった。


 「…………ちゆさんに、言われたくありません。ていうか、何してるんですか?」


 鼻水を啜りながら、あえて尋ね返してみると、ちゆさんはうぐっと表情を歪ませた。相変わらず、反応がわかりやすい人だ。


 「…………私は、たまたま通りがかっただけだよ」


 そう言いながら目線は私から逸らされる。こんなもん、人狼でなくても嘘かどうかわかってしまう。


 「そうですか、こんな満月の日に―――わざわざ―――つき先輩のマンションの近くに―――たまたま―――ですか、そうですか」


 そんなわけあるか、と言外に追及すると、ちゆさんの顔はバツが悪そうにみるみると不貞腐れていく。残念ながら、こちらとら、嘘吐きの年季が違うのだ。


 「…………はあ、そうだよ。つきちゃんの様子を見てるの。これで満足? で、そういう君は何しに来たの?」


 そういってじっと胡乱な瞳が私に向けられる。そんな視線に昔の私なら怯んでいそうなものだけど、今はそんな程度のことに、いちいちうろたえている余裕もない。



 「つき先輩に―――会いに来ました」



 恥じることも。



 臆することも。



 今は全部後回しにして、まっすぐと視線には視線で返す。


 ちゆさんの瞳はどこか痛ましい物を見る様に、静かに細められた。


 「今、あの子がどういう状況か……解かってて言ってる?」


 そんな彼女の言葉は低く、どこか不穏な雰囲気を漂わせてる。そんなちゆさんの声色が、そのまま今のつき先輩の現状を表しているのは、容易に想像がついた。


 だから、あえて、揺らぐことなく頷いた。


 「―――はい、どれくらい危ないか、解かったうえで言ってます」


 その危うさは、きっとつき先輩のことでもあるし、私に対してのことでもある。


 それも踏まえて、全て解ってる、解かったうえでやっている。


 この人には、こういう風に堂々としているほうが効くと理解して、そう答える。


 そんな私の答えに、ちゆさんはしばらく、どこか苦悶のような表情を浮かべて目を閉じていた。でもその後、ゆっくりとため息を吐くと、私をすとんと地面に下ろした。


 「ちょっと上で話そっか……」


 そんな彼女の言葉に、私は黙って頷いた。






 ※






 つき先輩のマンション……の隣のビルを、二人でカンカンと登っていく。非常階段を伝った先の屋上に辿り着くと、見たことのある顔が、私に向かってひらひらと手を振っていた。


 「やっほ、こんばんは、りこちゃん」


 沈む黒の中に、蒼色を空かしたような瞳。バーの常連さん、もとい雪女のましろさんが、屋上のフェンスに背中を預けて、私にむかって微笑んでいた。手にはスマホを双眼鏡代わりに持っていた。


 私はぺこりと無言で頭を下げて、ちらっとちゆさんの方を窺う。ちゆさんは相変わらず、はあとため息を吐きながら、困ったような表情の顔を手で覆っていた。


 「どうしたんですか、ちゆさん。そんな困った顔なんかして」


 「誰のせいだと思ってんの……」


 「あはは、もしかして、来るかなーとは想ってたけど、りこちゃんは期待を裏切らないね?」


 そう言ってましろさんは、夜風に揺られながら、私に向かって優しく笑いかける。


 ……ちゆさんは表情がわかりやすいけど、ましろさんは正直、感情がうまく読めない。穏やかな余裕と微笑みが、彼女の真意をふりしきる雪の中に隠しているようにも見える。


 そのまま、腹の探り合いをしてもいいのだろうけど、今はそんな時間も勿体ない。


 「で、どうやったらつき先輩に会えますか?」


 だから、何もかもを無視して話を進める。


 ましろさんは一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに表情を微笑みに戻すと、ちょいちょいと私を手招きした。


 誘われるまま、その傍に寄っていって、彼女が見せてくれたスマホの画面をのぞき込む。


 「これがね、ちょっと前に、ちゆさんに撮ってもらった、つきちゃんの様子」


 その画面に映っていたのは、暗い部屋。


 上手くライトも届いてない、月明かりだけが頼りのぼやけた画面の中、カーテンの向こうに、小さな灰色の手のようなものが映ってた。


 まるで。


 ふっと息が胸の中で、一瞬だけ詰まるのを感じる。


 まるで。


 それは、まるで、人の姿ではないかのような。


 つき先輩の真っ白なはずの手は、灰色の何かに覆われて上手く見えない。爪は鋭くて、恐ろしい凶器のようで、指はその灰色の中に埋もれてしまっている。


 まるで―――本物の狼か、何かみたいだ。


 「人狼って……みんな、こんな風になるものなんですか?」


 ちらっとちゆさんの方を振りかえるけど、その首はゆっくりと横に振られた。


 「私が前にあった子は、こんなふうになったのは見たことないね。もちろん、満月だからってのはあるんだろうけど。……もしかすると、人狼は、喰人衝動が限界に達したら、そういう姿になるのかもしれない」


 そんな答えに私はゆっくり頷いた。確証は何もない、でも不思議と納得はいく。


 「心の在り方は多かれ少なかれ、身体に引っ張られるものなの。つきちゃんがこういう姿になったってことは、心も、人より狼の側面が強く出ているかもしれない」


 そういうましろさんの声は、優しく穏やかに諭すような響きをしていた。


 「だから、今のつきちゃんに近づくのは本当に危ないの。喰い殺されたって不思議じゃない。最悪、りこちゃんのことも、分からなくなってるかもしれない。何にしても今日は特に危ないの」


 ちゆさんの声は、痛みを堪えるような、そんな響きをしていた。


 「はい、そうですね」


 そんな二人に、そう答える自分の声は、不思議と感情の色がどこにもなかった。こうなることを予想していたはずもないけれど、どうしてか動揺の一つも感じられない。


 まるで迷いなど、初めからないかのように。


 「………………それでも、会いたい?」


 だから、ましろさんが優しく問いかける言葉に、躊躇うこともしなかった。


 「―――はい、会いたいです」


 この想いは、勇気じゃない。


 「………………怖くないの?」


 でもこの想いは、きっと自暴自棄(やけ)でもない。


 「…………怖いです、でも会いに行かなくちゃ」


 ただ、そうすると、決めただけ。


 そんな嘘を吐くと、決めただけ。


 「どうして?」


 ただ。



 「約束したから」



 「つき先輩と、私が絵を描きあげたら見せるって、約束したんです」



 「だから、行かなくちゃ」



 「約束、守らなくちゃ」



 理論も、理屈も何もない。



 あるのは、ただの感情論とも呼べない、子どもが縋るような根拠もない願望だけ。



 でも今は、それが私にとっての全てだと信じ込む。



 ましろさんは氷のように冷たい手を、そんな私の手にそっと添えた。



 ちゆさんは、顔を抑えて、堪えるようなため息をついていた。



 「あのさあ、りこちゃん、匂いでわかるけど、君たちもう『3回目』したんでしょ。もう大分濃い匂いがしてる。そっから先は取り返しつかないのよ。わかってる?」



 「はい、わかってます」



 ちゆさんの問いにまっすぐと答えを返す。だってもう迷わないと決めたから。



 「ねえ、りこちゃん。万が一のことがあれば、私たちもそうだけど、周りのたくさんの人が悲しむよ? それに本当にそんなことになったら、きっと、誰よりもつきちゃんが悲しむよ?」



 「………………」



 そんなましろさんの問いに、少しだけ答えが止まる。



 ビルの隙間を抜ける夜風が、吹き上げる様に流れてく。もう夏の名残はほとんど消えて、緩やかな秋の冷たい風が私の背を押していく。



 「でも」



 ましろさんの問いに対するちゃんとした答えは、私には用意できない。



 「でも、今、つき先輩のそばに居られなかったら―――」



 それでも、尚と、声を出す。



 「もう、二度と、あの人の隣にいれない気がするんです」



 きっと。



 「きっと、今日がつき先輩にとって一番辛い日で」



 「独りぼっちで、苦しくて、耐えられないくらい寂しいはずだから」



 「そんな時に、隣に誰もいなかったら、きっとつき先輩はこれからずっと、その寂しさに囚われてしまうと想うんです」



 「今日、あの人の手を握れなかったら」



 「これから一生かかっても、つき先輩の笑顔は見れないかもしれない」



 「それが、やだ」



 「今、ここであの人の想いを見過ごしてしまったら」



 「きっと、私は一生後悔する」



 「そんなの、イヤだ」



 「だから―――行きます」



 「たとえ、何があっても―――」


 

 零れた言葉は、震えてて、か細くて、小さくて。



 まるで、子どもが必死に初めての感情を紡いだみたいな、拙い物でしかなかったけれど。



 それでも、ましろさんに向けた視線を、揺るがすことだけはしなかった。



 雫は幾つも頬から落ちて、上手く言えた自信もないけど。



 それでも、今、ここで退くことだけはしたくなかった。



 「なるほど―――」



 ましろさんは、私の手をそっと握ったまま、ゆっくりと首を横に振る。



 「わがままだね―――りこちゃんは」



 ぎゅっと胸が掴まれるような感覚がする。思わず背負っていたキャンバスの結び紐をぐっと握った。



 「わがままで、嘘吐きで、素直じゃなくて、



 ――――優しいね、君は」



 そう言って、ましろさんは穏やかに静かに、そっと微笑む。



 「でも、わかってる? つきちゃんはそれを望んでないかもしれないよ?」



 そんな彼女の言葉に黙って頷く。



 「それでも、行くんだ」



 頷いた。



 「誰のために―――?」



 一瞬だけ、思考が止まった。



 ましろさんは、静かに優しく私の答えを待っている。



 ちゆさんは隣でじっと黙って、私たちの話を聞いている。



 夜風だけが、静かにその場を満たしてた。



 「―――私のためです」



 「私がつき先輩の隣にいたいから」



 「ただ、それだけです」



 それは、身勝手で。



 わがままで。



 どうしようもなく独り善がりな、そんな答え。



 でも、きっと、それが。



 嘘吐きの私が、初めて手にした、ホントの想い。



 ちっぽけで、拙い、そんな私の願い。



 「そっか―――」



 ましろさんは、そう言って小さく頷いた。



 「ちゆさん、お願いしていい?」



 そうしてふっと添えたそんな言葉に、隣で大げさなため息が一つ吐かれる。



 「はあ……二人とも、正気じゃないって。まじめに命懸かってる自覚ある?」



 ただ、そう告げた言葉の奥が、どことなく弱く震えているのは、残念ながらバレバレだ。



 「…………そういう、ちゆさんは、どうなんですか?」



 「ああ? 私は別に…………」



 そういって肩をすくめるちゆさんに、ましろさんはくすくすとどこか可笑しそうに笑ってた。



 「ちなみにだけど、ちゆさんはね、つきちゃんが本気で暴れたら命がけで止める気だったから。誰より先に命懸けてるの、実はちゆさんだったりするんだよ?」



 そうして返ってきた言葉は、案の定というか、なんというか。他人に諭してる割に、突っ込まなくていい首を、誰より突っ込んでたらしい。まあ、最初に出会った時から、私たちの面倒を見る義務なんて、そもそもなかったはずだしね。


 

 ……そんなことを言っているましろさんも、正直、ただ見に来たって感じじゃなさそうだけど。もしかしたら、いざという時に、何かする気でいたのかな。雪女がどういうことができるのか、知らないから何とも言えないけれど。



 そして、ましろさんの種明かしで、ちゆさんの顔はみるみると真っ赤になっていた。折角なので、へーとかふーんとか、あえて上目遣いで見てあげる。しばらくそうして二人で揶揄っていたら、うがーって思いっきり憤慨された。



 「しゃーないでしょ! ここまで来てほっとけるかっての! なんやかんやちょっと境遇似てるしさあ!!」



 「……だよねー、そう簡単に、割り切れないよねー」



 そう言ってやいのやいの言う人外二人を、私は思わずぼーっと見つめてしまう。



 穏やかで静かな笑みを保っていたましろさんは、どこか気の抜けたような顔をして。



 ずっと難しい顔ばかりしていたちゆさんは、真っ赤になって涙目のまま開き直ってる。



 なんだか大人だと思っていた二人が、そんならしくないことを言っているのは少し不思議だ。



 「……もしかして、結局みんなわがままなのでは?」



 だからふと浮かんできた言葉を、そのまま口にしてしまった。そしたら、大人二人はしばらく顔をじっと見つめ合わせて、やがてどこか可笑しそうに吹き出し始めた。



 「まあ……そっか……そうだね……そうなるかあ」



 「あっはっはっは……どうしよ、ちゆさん、バレちゃってるよ」



 そんな大人で人外な二人の様子を、私しばらくぼんやりと見つめてた。



 きっと今、本当はどこまでも、辛くて苦しい時間のはずだ。



 なのに、こうやって笑い声が響いてるのが、少し可笑しい。



 まるでちょっとした嘘がバレてしまった時のような、不思議な感じ。



 そして、一通り笑い終えた二人は、軽く笑って、私にもう一度向き直った。



 「はあ、それじゃいこっか。噓吐きガール」



 「うん、いってらっしゃい。ちゆさん、りこちゃん」



 そう言いながら、そっと手を振るましろさんに見送られて。



 私とちゆさんは夜の街へと跳びあがった。



 高く、高く。



 高層マンションの一番上の階まで、一足飛びで。



 涼しい夜風に吹き上げられて、あなたがいるその場所へ。



 やがて跳躍の上昇は緩やかに、ふっと止まって、絵を抱えた私と一緒に、ちゆさんはマンションの屋上にすとんと着地する。



 それから、ちゆさんに手を取ってもらいながら、マンションの屋上からつき先輩の家のベランダにそっと飛び降りた。途中、地面の下に視界を向けたら、とんでもない高さで、少しちびりそうになったけど、今更そんなこと気にしてられない。



 意を決して、えいやとベランダに着地して、ふらふらとキャンバスを風にあおられながら、震える足でどうにか踏ん張る。



 ちゆさんはそんな私をどこか可笑しそうに眺めてて、でも一瞬だけ、ふっと真面目な表情をした。



 「ねえ、りこちゃん」



 「…………なんですか」



 「ああは言ったけど、基本、私はりこちゃんの『安全』を最優先で動くからね」



 そう言ったちゆさんの表情は、どこか有無を言わせぬものがあったけど、私はゆっくり首を横に振る。



 それは、つまりつき先輩が私に危害を加えたら、無理矢理にでも引き剥がすということだから。



 「ダメです、私が『来て』って言うまで来ないでください」



 じっと睨むようなちゆさんの視線に、ただ真っすぐ言葉を返した。



 しばらく、そうやってじっと見合って、やがてはぁとため息をまた吐かれてしまう。はてさて、今日、何回ため息つかれたのかな。



 「本当にわがままだね、りこちゃんは」



 「はい、だから、よろしくお願いします」



 そうしてぺこりと頭を下げた、ちゆさんは少し困ったように空を見上げていた。でも最後に軽く笑うと、「がんばってね」と言って、瞬きをした一瞬で、ふっとその場から姿を消した。



 …………どこかで遠くで、ましろさんと一緒に見守ってくれているのだろうか。



 ただ近くに人の気配はいなくなったから、今この場所には、私独りきりだけになった。



 いや、独りじゃないか、窓の向こうでごそごそと何かが動く気配がする。



 ふぅっと長く息を吐く。胸の奥はじんわりと熱くて、指先は血が巡る感覚まで、鮮明に感じられる。



 耳をすませば聞こえるのは、夜風の音、自分の呼吸音、そして窓の向こうで動くあなたの物音。



 ぼんやりとカーテンの向こうに、人影ではない何かがよぎる。



 「ねえ、つき先輩」



 かりかりとまるで爪でフローリングを撫でるような音がする。



 「りこだよ、絵を描いてきたよ」



 時々聞こえる、荒れるような息遣いは、どことなく人間じゃないみたい。


 

 「開けてよ、嘘じゃないから」



 このカーテンの向こうに何が待っているんだろう、わからない。怖い。



 「お願い、信じて」



 でも、躊躇うことはもうしない。



 「開けてよ」



 窓に指をかけても、がっと鍵が引っかかって、開かない。



 「見てよ、約束したでしょ」



 それはまるで、つき先輩の心そのものみたい。



 「………………」



 カーテンは固く閉ざされて、返事すらありはしない。



 でも、もう関係ない。



 「……窓から、離れててね」



 今、ここに、私は、私のわがままで立っているんだ。



 「危ないから」



 だから、知らない。



 震える手で、ぎゅっと背負っていたキャンバスを抱え直した。



 奥歯を強く噛みしめる、足を目一杯踏ん張りながら、眼元から零れた雫を振り払う。



 破片がつき先輩に当たらないよう窓の端の方を、絵が壊れないよう打ち付けるのは角の強い部分で。



 それだけ決めて、腕が千切れそうなくらい、あらん限りの力でキャンバスを振りかぶる。




 拒絶されたって構わない。




 否定されたって関係ない。




 あなたのそばに、居られないことに比べれば。




 もう何一つだって怖くない。




 そんな嘘を吐きながら。





 「               」





 割った。




 窓ガラスを思いっきり。




 キャンバスを叩きつけて。




 大きな音を立てて、月明かりを反射した透明な欠片が飛び散っていく。



 息は荒れてる。



 身体中がその一瞬で壊れそうなくらいに痛んでる。



 散らばった破片で、腕には少し切り傷が出来ている。



 でも、今はそんなことも、どうでもいい。



 足を踏み出す、割れたガラスの上に。



 そうして月明かりを背にして、暗いあなたの部屋の中に、土足で踏み込んだ。



 あなたの意思など関係なしに。



 ただ私のわがままで。



 「約束――――守りに来たよ」



 私はあなたに会いに来た。



 「つき先輩」



 淡い月光の中で、あなたは暗闇の中にいた。



 それを見る、私の眼に映ったのは。



 灰色の―――。



 透き通るように流れる、灰色の毛並み。



 伏せがちにこちらを窺うような、澄んだ灰色の瞳。



 鋭く淡い輝きを放つ、尖った爪。



 そして、少し濡れて静かに月光を反射する、大きな牙。



 そんな姿を見て、思わず息を呑む。



 ああ―――綺麗だ。



 まるで、そのまま一枚の絵になりそうなくらい。

 


 そんなあなたは、どこかおびえるような、信じられないものを見ているかのようだった。でも、今はそんなあなたの反応すら、お構いなしだ。だって―――。



 「ねえ、会いにきたよ」



 ただ、それだけだ。それだけのために。



 やっとここまで、やってきたんだ。



 零れる雫が、割れたガラスの上に落ちていく。



 あなたと別れた、あの暗い海岸から。



 ううん、それよりも前、きっと、あの春の日にあなたの横顔を見上げていた、あの教室から、私は。



 ようやく、今日ここに辿り着いたんだ。



 「だから――――私の絵――――――見て欲しいんだ」



 やっと、やっとあなたの元に。



 私の想いを持ってくることが、できたんだ。



 狼の姿のあなたは、何の言葉も返してはくれないけれど。



 何かを訴えようと、必死に言葉を紡ごうとしているようにみえるけれど、言葉は何も出てこない。



 でも、私はそれで構わない。



 私はそれで充分だった。



 ただあなたの隣に居れるなら。



 私はそれでいいと想った。



 そうして言葉も交わすことのできない、私たちを見守るように。



 淡い月光だけが、薄暗い部屋の中を、微かに照らしていた。

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