第1夜 嘘吐き少女と帰り道
先輩が私を『抱き枕』にする時間はまちまちだ。
30分くらいの時もあるし、1時間くらいの時もある。10分で終ってしまったこともある。
ただまあ、一応、約束で11時までにはここを出ることを決めている。だからどれだけ長くても、大体2時間が私たちの関係のタイムリミット。
その日は、ちょっと長くて1時間半くらいだった。
大体そういう時は喰人衝動がちょっと酷い日らしい。
「生理みたいなもんだよ。重い日と軽い日があるの」
なんて先輩は言うけど、果たしてその二つを同列に扱っていいんだろうか。少なくとも私は生理痛が幾ら酷くても、人を喰べたりはしない。お腹痛すぎて、世界滅べと思う時はあるけれど。
なにはともあれ、その日、先輩はちょっとしんどそうだった。
「つき先輩……私、そろそろ時間です」
つき先輩は、私の胸に顔をうずめて、どこか必死なくらい、身体を震わせていたけど。私の言葉にはっとなって、顔を上げると少し慌てて口を動かした。
「ご、ごめん、りこ。そうだよね、もう遅いもんね」
まあ、バイト終わりに来てるから、どうせ時間は遅いんだけど。補導されて学校にバレたら嫌だから、一応早めに帰ってるだけだしね。
「いえ、お気になさらず。そんなに慌てなくていいですよ」
なんて言ってはみるけど、つき先輩はどこかおろおろしたまま、慌てて財布を取ってくると私の手元にぽすっとお金を乗せてくる。
ただ、その日は、乗ってくるお金が、なんかえらく多かった。
「…………先輩、なんか多くないですか?」
ざっといつもの二倍は乗ってる。バイト代はなんとなくで決まったけど、それでも普通に働くよりは随分貰ってしまってる。だけど、今回はそれ以上だ。
「今日はちょっと甘えすぎちゃったし、その分かな……。気にしないで、お金はあるから」
気にしないでと言いつつ、つき先輩は少し紅くなった顔のまま、浅い息を無理矢理整えている。…………そうは言われても、さすがにこれだけの額を気楽には受け取れない。
だから、余計に乗ったお札を2・3枚、つき先輩の手の平に押し返す。
「りこ……?」
「どう考えても、貰いすぎです。私が親に怪しまれちゃうんで、しまってください」
ただでさえ、この前、財布の中に入っていたお札の量を不審に思われてしまったんだ。これ以上、財布を分厚くしたら、絶対いかがわしい仕事をしてるって泣かれてしまう。半分嘘じゃないから、いいわけも非常にしにくい。
「で、でも、りこには無理させてるし、私お金くらいしか……」
「気持ちだけ受け取っときます。じゃあ、私そろそろ帰りますね」
そうやって口にしながら、ベッドから落ちた学生鞄を拾って、少し乱れた服を整える。その間も先輩は手にお札を握って「本当にいらないの?」って私の顔を窺ってくる。
基本、つき先輩は人の話をあんまり聞かないんだけれど、この抱き枕業務が終わった後は、少しだけ不安そうな表情をすることが多い。
よくわかんないけど、ついさっきまで喰人衝動を私にぶつけていた罪悪感でもあるんだろうか。まあ、確かに、今日は私を名前を呼ぶ声がえらく熱っぽかった気がする。
だから、冷静になると恥ずかしくなるのかもしれない。こういうのなんて言うんだっけ、賢者モードか、ちょっと違うかな。
「ま、待って。遅いし、送ってくよ、りこ」
しばらくおろおろしていた先輩をスルーしていたら、やがて先輩は表情を少し真面目な顔に戻すと、今度は真っすぐに私の眼を見て、そう言ってきた。
うーんと私は少し悩むふりをしてから、いつも通り、小さくそっと頷いた。
同じ高校の通学圏内だし、私の家はつき先輩の家からそう遠くはないけれど。
それでも、電車代を節約するために、いつもは夜の川沿いを歩いて帰るから結構時間がかかってしまう。だから、帰るときは先輩がよく送ってくれる。
夜道に女子高生独りでいると、さすがに変質者とかに絡まれることも、たまにあるから、こればっかりは正直ありがたい。ついでに言うなら、こういう日は、役得も一個あるしね。
私が帰る準備を終えると、つき先輩は少し寂しそうな顔をして、時計を見た。
「急いだほうがいいかな」
「急いだほうがいいですね」
もうそろ11時も近い、それを回ると、放任主義のうちの家族もさすがに心配する。
だから、こういう時は、ちょっとを『ズル』をすることになっている。
マンションを出て路地に入ってから、私はつき先輩の首に抱きつく。そのまま先輩は、私の身体をいつかの頃のように、お姫様抱っこで抱き上げて、なにげなく走り出す。
それから。
とん とん とん、と。
一瞬で人間じゃありえない加速に到達すると、そのまま、ふっと重力から解き放たれるみたいに、宙に身体を飛び跳ねさせる。
同時にごうっと風が吹きあがって、その風と一緒に、上へ、上へと、ビルの隙間を駆けのぼっていく。
月明かりに照らされて、先輩の透き通るような灰色の髪が、夜風の中を靡いてくのを見ているとふわっとした浮遊感が身体を襲う。
最初はこれで気持ち悪くなっちゃったけど、今ではすっかり慣れてしまった。そして、この後すぐ落ちる感覚がくる。
そして、あっという間に、ビルを越えて屋上に着地すると、そのまま一足飛びで、次のビルへとつき先輩は軽やかに跳躍する。
遅くなってしまった夜はこうやって、ちょっと非日常的な帰り方で、つき先輩に送ってもらえる。
ごうごうとビルの上を吹く風が熱を奪ってく、その中をさらに風のようなスピードで跳んでいくから、夏場の夜なのに嘘みたいに涼しく感じる。
最初はちょっと怖かったけど、つき先輩の身体にしがみつくことになれたら、その怖さもいつのまにかなくなってしまった。
今ではこの時間が、ちょっとした楽しみだったり。
「ひゃー」
「りこ、口開けてたら、舌噛むよ」
なんてやり取りをしながら、ぴょんぴょんとビルの屋上を跳ねていく。
そんな先輩の言葉に、一瞬口をつぐむけど。しばらくしたら、退屈なので、結局口を開いてしまう。
「そういえば―――」
「うん?」
風がごうごうと吹いていくから、こうやってビルの上を飛び跳ねている間は、うまく声が届かない。だから、声を届かせるために、抱き着いている首をそっと抱き寄せて、耳元で囁くように声をかけるしかない。
「今日は『酷い日』だったんですか」
私がそう言うと、一瞬、先輩の足元のバランスがぐらついた。
でも、すぐに体勢が戻ったのは、さすが狼って感じだ。私は軽いスリル感覚でそれを味わえたけど、肝心の先輩はちょっと心臓に悪かったとでもいうような表情をしてた。
「跳んでる時に、急にそんなこと言わないで……焦るから」
「すいません、ちょっと気になって」
まあついでに言うなら、この事後……は、なんかちょっといかがわしいな。まあ、とりあえず仕事が終わった後の時間は、先輩を揶揄える希少なタイミングなのだ。ちょっと焦ってもらうくらいで、丁度いい。
「まあ……うん、今日はちょっと酷かったかな」
そう言った先輩は、ふうと長めに息を吐いていて、少し疲れてるようにも見える。
「具体的にはどれくらいですか?」
「んー……りこの鎖骨を舐め回したくなるくらい?」
そう言った先輩の顔は誤魔化すように笑いつつ少し紅い。ふむ、鎖骨舐め回しとな。
ちょっとだけ、想像してみる。いつも抱き着いてくる先輩が、息を荒げて、私の鎖骨に舌をじゅろっと伸ばしてくる様を。熱くて濡れた舌が、私の身体を這う様を。
………………数秒思考して、思わずぶるっと身体が震えた。夜風のせいかな、違うかな。
「りこ……引いてるでしょ」
「引いてません、引いてませんよ」
「嘘! 絶対変態って思ってる!! 違うよ!? いかがわしい目的じゃないからね!! 美味しそうって思ってるだけだから!!」
「いかがわしいだなんて……まさか……あはは」
あまりに空虚な嘘を並べつつ、私はそっと眼を逸らすついでに、空にぽっかり浮かぶ月を見上げた。というか、いかがわしいのはダメなのに、美味しそうなのはオーケーなのか。つき先輩の乙女心は複雑だ、いやこの場合は狼心なのかなあ。
…………なんてやり取りをしながら、ふと想う。
まるで冗談のように口にしてはいるけれど、話している内容は要するに、さっき私の命にどれだけ危機が迫っていたかということだ。
鎖骨を舐める? きっとそれだけで済んでいたら、可愛いもので。
そのままその牙が私の胸と首を貫いて、その奥にある肺や心臓をぐちゃぐちゃにしていた可能性だって確かにあった。
本来は何一つ冗談で済まないその事実を、私は嘘を混ぜ込んでなあなあにする。
どこかの偉い人が言っていたけど。
真実は劇薬で、嘘は常備薬のようなものらしい。
真実とは向き合うことは、真っ当な人生においてはとても大事なことだけど、そこには必ずどうしようもない程の痛みが伴う。だから真実は効能こそ確かにあるけど、死ぬほど苦しい想いをする劇薬のようなもの。
嘘はその逆で、痛みを誤魔化す。真実がもたらす辛さや苦しさを、溶かして、ぼやかして、まるで何事もなかったかのようにしてしまう。だから嘘は、得るものこそないけれど、日常の痛みを止めてくれる常備薬のようなもの。
どちらも過ぎれば毒になるし、どちらも足りなければ何かが欠ける。
そういう趣旨の話だったように思うけど、生憎、私は嘘中毒者だ。
だって、真実なんて、無理に向き合うほうがしんどいでしょう? それに耐えていけるほど、残念ながら私は強くない。
だから、今日も私は嘘を吐く。全てを誤魔化して、なあなあにする。
「ち、違うからね? 私、そんないかがわしい気持ちで、りこに触れてるんじゃないからね?!」
「はい、わかってます。私、先輩のこと信じてます」
「うう、絶対信じてないでしょ……」
「まさか。……ところで、えっちなオプション追加しますよっていったら、先輩どうします?」
「え? は? え?」
私がそういうと先輩の顔は普段見ないくらいに紅潮する。白い肌と灰色の髪が真っ赤な顔によく映えること。あんまりに動揺しすぎて、匂いで嘘を見分けることすら、忘れちゃってるみたいだし。
「嘘ですよ、これ以上貰うお金増やすわけにいかない、ってさっき言ったじゃないですか」
「え? あ……り、りこ!! もう!!」
慌てる先輩の顔を見ながら、思わずちょっとほくそ笑む。抱きしめている首元にふっと息を吐きかけると、ちょっとまたぐらつくのが面白い。まあ、程々にしとかないと、先輩の足が滑って酷い目に合うのは私だけどさ。
それからしばらくの間、つき先輩は少し拗ねてそっぽを向いてしまった。私のその間、ただ先輩の首に抱き着いたまま、流れる夜風の涼しさと、先輩の身体の熱さだけを感じてた。
「今日のりこは、意地悪な嘘吐きだね……」
「ええ、常備薬りこ、とでも呼んでください」
そんな私の言葉に、つき先輩は不思議そうに首を傾げたけど。あえて説明はしなかった。
それから程なくして、私の家のアパートが見えてきたから、周りに人がいないタイミングを見計らって、そっと非常階段に着地する。
散々揶揄ったせいか、今日はつき先輩の下ろし方が少し素っ気なかったけど。まあ自業自得なので、私は何事もないように先輩の首から手をそっと離した。
それから、さて、後はお別れするだけだねって振り返る。
――――――。
その先で先輩は―――寂しそうな顔をしてた―――いつも通り。
いつか学校でこの人を見かけた時。綺麗な灰色の髪をした上級生がいるらしいって、噂を聞いた春先の頃。
あの時、二階の教室の窓ガラスの向こうに見た、少し目を伏せて、まるで何か諦めているような―――そんな瞳を、先輩はしていた。
……私と別れる時は、いっつもこうだ。
「りこ―――」
先輩は、その後、何かを私に告げようとする。
口が少し動くけど、でも何の言葉も出てこない。
そして、結局、お互い、何も言わないまま。
「―――ばいばい、りこ」
「……はい、さようなら、つき先輩」
ただいつも通りの、別れの挨拶をそっと済ませた。
先輩は少しだけ名残惜しそうに、顔を伏せて。
そうして一瞬、私が瞬きをした、その瞬間に。
つき先輩は音もなく非常階段から、姿を消していた。
ふっと遠くを見上げると、もう少しで満月になりそうな夜空の向こうに、小さな小さな人影が見えた。ああ、もうあんなに遠くに行っちゃったんだ。
そんな後姿をしばらく、やがてそれがビルの向こうに消えるまで見送った。
……もし、私が本当の意味で優しい人間だったなら。
もしかして痛みを覚悟したうえで、つき先輩の心に踏み込むのだろうか。
たとえそれが劇薬であったとしても、きっとその先には得るべきものがあるのだから。
でも生憎、私は嘘吐きで。
その先に待つ痛みや苦しさを、直視できるほど強くない。
だから、私は今日も、深刻で真剣な問題を、嘘で隠して誤魔化して、何事もないような顔をする。
こんな甘い嘘だけじゃ、いつか先輩の衝動が抑えきれなくなることは、なんとなくわかってるけど。
それからふと、ポケットから今日、貰ったお金を取り出してみる。しばらくそれをみていると、なんだか少しだけおかしくなった。
こんなものに―――こんな嘘の果てに得たものに、一体、何の意味があるんだろう。じくじくと胸が痛むのは、自己嫌悪かな、罪悪感かな。
でも、私にはこうすることしかできやしない。
だって、私は嘘吐きだから。
それから、手にしたお金を乱雑にポケットに突っ込んで、私は自宅の安アパートの扉を開けた。
まるで何事もなかったかのように、いつも通りの顔をして。
お伽噺のように重ねた嘘が、いつか報いとなる日がくるとしても。
それでも私は、今日も、嘘を吐く。