第26夜 狼少女と君の夢
遠く向こうで、狼の泣く声がする。
夜空の向こう、どこか遠くにいる誰かに向けて。
届け、届けと願うみたいに。
高く、高く、どこまでも響くような、そんな狼の声がする。
その声に誘われて、私はふっと目をあけた。
最初に見えたのは、カーテンの向こうに映る人影、窓の外にいるけど、それでも背格好でわかる君の姿。
あれ、りこだ。どうして、ここにいるんだろう。
わからないけど、わからないまま口を開こうとした。
だけど、できない。伝えたいことは沢山あるはずのに、口は上手く動いてくれない。
淡く滲んだ君の姿に、声を上げようとするけれど、どうしてか言葉にならない。
どうしてだろう、そう考えたところで、これが夢だと思い知る。
だって、声の一つも出ない。だって、指の一つも動かない。
それに人間の君は、窓の外からやってきたりしないよね。
だから、これは夢だ。そうに違いない。
ああ、でも夢だって言うのなら。
言えなかった言葉の一つくらい、届けばいいのにな。
縋るように、窓の向こうの君の姿に向かって手を伸ばす。
りこ―――りこ。あのね、私ね―――。
そうやって、口にして呼びかけて、沢山話をしたいはずなのに。
声は出ない、胸の奥で何かがつっかえて、喉の奥は塞がって、指先はさっぱり前に向かってくれない。
まるで、人間じゃ、なくなってしまったみたいだ。
息が荒れる音がする。
視界と、思考が同時に揺れる。
窓の外の君は、何も言わない。
ベッドからゆっくりと這い出して、ずるずると何かをひっかけながら、窓の外の向こうの君へと足を延ばした。
上手く歩けないから、四つん這いのまま、荒れた息を整えることも出来ずに、足を引きずりながら、君の傍へ行く。
どてっと身体が前に倒れた、顔から床に突っ伏して、情けなくそのまま転がる。
窓の向こうの君はそんな私に向けて、何も言わない。そもそも窓の向こうにいるんだから、声なんて聞こえてないのか。
それでも何かを訴えようと、必死になって喉を震わせる。まともに動かない口をあらん限り動かして、何かを伝えようとする。
あのね、りこ。
言えてないことが本当は一杯あるの。
手紙一つじゃ書ききれなくて。
もっと沢山話していたくて。
遊びに行きたいところも一杯あって。
また一緒にくっついたりしていたくて。
それから、それから―――。
君の描いた絵を見に行きたいの。
君と交わした約束を本当はね、破りたくなんてなかったの。
嘘みたいだよね、でもね嘘じゃないの。信じて欲しいの。
君の絵を見たかった。
君が、また歩き出せるようになるところを見たかった。
その隣にいたかった。
でも、私にはそれができなくて。
だって、私は『化け物』だから。
私がこんな私じゃなかったら―――。
そうやって、カーテンの向こう君に向かって、何度目かもわからずに手を伸ばした時だった。
―――ふと気づく。
手の感覚がいつもと違う。
指先を伸ばそうとしても、上手く伸びない。
手を前にあげようとしても、上手く動いてくれない。
床に触れると何故か、少し固くて何かをひっかくような音がする。
そんな違和感はやがて、理解に変わる。
同時に、ああ、これは夢だ―――と、また想う。
だって、伸ばした手が毛むくじゃらだ。
灰色の毛におおわれて、爪はいやに鋭くて、指は上手く曲がらない。
視界もなんだかぼやけてて、身体のあちこちが苛むように痛んでる。
漏れた息が熱く、震えてる。心臓は不自然なほどに早く脈打ってるのがわかる。
ふと、身体にまとわりついていたものが、自分の服だったのだと思い知る。それも無理に動かそうとしたから、すっかり千切れてしまってる。
まるで。
まるで、そう。
本当の狼になってしまったようだ。
私の胸の中にあった、喰人衝動という名の獣が、とうとう私自身を喰らい尽くしてしまったのかな。
もう人に紛れることすらできなくなった、そんなどうしようもない化け物になってしまったみたい。
なるほど、声なんて出ないわけだね。言葉なんて伝えられるわけがないよね。
こんな人から外れた姿で、君の隣にいられるわけがないんだ。
ああ。
自覚すると、喉が渇く、身体が飢えに震えだす。
辛い、苦しい、痛い、寂しい。
胸の奥から欠落感が止め処なく溢れ出してきて、眼元から涙とも呼べない何かが零れてく。
身体と心に大きな穴が空いてしまったような、そこから何もかも零れだしていくような。
そんな耐え難くて、どうしようもない衝動が身体中を侵していく。
そんな感情に抗うことすらできないまま、窓の外の君に向かって這いずり続ける。
りこ―――りこ――――。
眼元から止め処なく何かが零れてく。溢れるほどの想いがそこにあるはずなのに、身体は渇いて渇いて仕方がない。
記憶の中の君の姿は、もう曖昧で滲んで、上手く想い出すことすらできないのに。
本当は、本当は。
本当はね。
離れたくなんてなかったの。
独りになりたくなんてなかったの。
ずっと一緒がよかったの。
もう独りは嫌だったの。
なのに、なのにどうしてかなあ。
どうして私たちは、離れ離れにならなくちゃいけなかったんだろう。
どうして私はこんなふうに産まれてしまったんだろう。
手を伸ばすけど、狼の前足は上手く動いてくれない。
そもそもこんな手で、どうやって窓を開けたらいんだろう。
こんな爪で、どうやって君に触れたらいんだろう。
こんな牙しかない口で、君とどうやって話せばいいの。
もう、君の名前を呼ぶことすらできないのに。
りこ―――。
りこ―――――。
それでも痛む身体を引きずって、必死に君へと手伸ばした。
その名前を呼びながら。
窓の向こうの、君に向けて。
ただ冀うかのように。
狼の泣く声がする。
遠く向こうで、誰かを呼ぶ声がする。
口から漏れた声にならない泣き声は、その遠吠えと重なるように響いてた。
※
ねえ、りこ。
なんですか、つき先輩。
一つだけ、わがまま言っていい?
……いつも通りですけどね。まあ、いいですよ。で、何をしたらいいですか?
嘘でいいから、試しに……『好き』って言ってくれない?
……………………。
そういえば人にね、そういうの言われたことないなって想って、だから……えと……。
―――嫌です。
え…………、えと、あれだよ。嘘でいいの、ちょっと言われてみたいだけなんだ。だから……。
嫌です―――絶対言いません。
え、り、りこ、怒ってる……?
怒ってません。でも、そういうことを、嘘でもいいからなんて、二度と言わないでください。
お、怒ってるじゃん? ごめん、ごめんってば。りこ……?
………………。
あの後、君はじっと黙って、ずっと不機嫌そうにしていたっけ。必死に宥めて謝ったけど、結局どういう意図で怒っていたかは教えてくれなかった。
わからない、わからないけど。
あの時の君からは、不機嫌と怒りの匂いに交じって、少ししょっぱい涙の匂いがした。
どうしてだろう、わからないや。
気持ちは伝わって来るのに、肝心なところがわからない。
私はいっつもこうだ、何もかも分かった気になって、そのくせ、大切なところで全てを台無しにしてしまう。
伝える勇気が、出ないから。近づく一歩が、踏み出せないから。
ねえ、りこ。きっと君が思うより、私はずっと不甲斐ない奴だったよ。
いっつも臆病で、自信が無くて、本当に大事なことばかりが伝えられない。
だから、こんな私には、そもそも幸せになる資格なんてなかったのかもしれない。
手なんて届かなくて、当然で。
声なんて聴いてもらえなくて、当然で。
想いなんて叶わなくて、当然だったのかな。
でも、でもね。
そんな私でも君のためなら、何かできる気がしたの。
泣いてる君を、どうやって泣き止ませればいいのかも、わからなかったけど。
自分自身を否定する君を、どうやって慰めればいいのかも、わからなかったけど。
それでも、何か伝えたくて、どうにかその涙を止めたくて。
君のためにした沢山のこと、そのどれもかれもが初めてだったの。
誰かを抱きしめたことも。
誰かと一緒に跳んだことも。
誰かを励ましたことも。
誰かのために嘘を吐いたことも。
誰かの幸せを願ったことも。
りこがね、初めてだったの。
ちっぽけで独りぼっちだった私の世界は、りこに触れて初めて意味が出来たの。
ねえ、りこ。
会いたいよ。
もう一度だけでいいから。
夢でいいから。
想い出の中でいいから。
もう一度、君の声が聴きたいよ。
―――――りこ。
「 」
ガラスが。
ガラスが割れた。
え。
夢…………だよね?
でなきゃ、おかしいよ。
だって、人間の君は窓の外からやってこないし。
私はこんな狼の姿じゃないし。
こんな夢みたいなこと、起こるはずないよ。
そのはず、なのに、なんで、どうして。
君は大きな何かを振りかぶって、肩を荒げながら、私のことをじっと見ていた。
満月の淡い光の中、割れたガラスを踏みしめて。
「約束――――守りに来たよ」
そうやって君は言う。
「つき先輩」
私の名前を呼びながら。
暗く沈む夜空の中、静かに佇む大きな満月を背にしたまま。
君は確かに、そこにいた。




