第24夜 狼少女と君の想い出
眼を開けてまず感じるのは、一つ一つ数えるのも馬鹿らしいほどの不快感。
空腹でお腹は苛むように痛い。喉が渇いて焼けるように疼いてる。
眼元は昨日、泣き尽くした腫れがまだ残っていて、そして何より割れるように頭が痛む。
でも、そんな感覚も今だけは、少しありがたい。脳がそっちの処理に手一杯で喰人衝動を忘れさせてくれるから。
もし、このノイズのような感覚達がなければ、きっと私は今頃、人を襲いに街に飛び出している気さえする。
そんなながら思考のまま、部屋の隅で、電気もつけず、着替えもせずに、ただぼんやりと膝を抱える。
一日中寝尽くしたのか、窓の外は暗くて、月明かりの中、カーテンを夜風が揺らしてる。
最近は、夜は少し涼しくなってきた。クーラーもつけてないけど、少し前よりは大分マシに思える。
少し前―――りこと一緒にいるときは、クーラーをつけてないと、暑くて引っ付いてもいられなかった。それでも部屋に入ってきてすぐは、君は汗を気にして抱き着くと不機嫌そうにしてたっけ。
そんな想い出を、鈍る頭が壊れたテレビのように再生し続ける。
あの時、何を感じたっけ。りこはなんて言ってたっけ。
上手く想いだせない、疲れてるからかな、それか衝動が酷いからなのか。
忘れてはいけないはずなのに、記憶は穴だらけで、想い出す映像はノイズが走り続けてる。
君はどんな表情をしてたっけ。どんな言葉を言っていたっけ。
想い出したいのに、想い出せない。
もう私には過去しかないのに。
眼を閉じる。そのまま、また眠ってしまおうと想った。
夢の中なら、ちゃんと君のことを想い出せるような、そんな気がした。
※
眼を開けた、まだ相変わらず頭は痛い。
時間も日付もわからないけど、どうやらまた夜みたいだ。ぼやけ続ける意識のまま、どうにか視界を上にあげる。
現実は、何も変わらない。想い出は相変わらず、上手く頭の中で再生されてくれない。
でも、今回は少しだけ違いがあった。
「おはよ。まあ、もうおやすみの時間だけどね」
視界を上げる。夜風に吹かれるカーテンの隣で、すらっとしたシルエットが、うずくまる私のことを見降ろしていた。
「ちゆ……さん?」
私の声に、紅い瞳の吸血鬼はそっと微笑んだ。
「そーだよ、みんなアイドルちゆさんだぜ? どう、元気してた?」
彼女はそう言いながら、私の隣までゆっくり歩いてくると、持っていたビニール袋と一緒にすとんと腰を下ろした。
「………………なんで」
そう問いかける私の声はがらがらで、まるで人間じゃないみたいだ。
「なんでって、そりゃあ様子見に来たの。ましろさんも心配してたよ。ご飯食べてないでしょ? 一緒に食べよ、水も飲んどきなよ。ちょっと涼しくなってきても、脱水症状はこわいぜ?」
ちゆさんはそう言って、笑いながらビニール袋から、コンビニのお弁当や飲み物をたくさんの私の前に置いていく。私はそれをぼーっと聞きながら、何気ない様子の彼女をただ眺めていた。
「………………」
「何がいい? ていうか、しばらく食べてない? ゼリー系の方がいっか。あー、それよか先になんか飲む?」
そういう彼女の様子は、まるで何事もなかったかのよう。
「………………聞かないんですか?」
何が―――という言葉が抜け落ちたそんな問いに、ちゆさんはしばらく視線を逸らしてゆっくりと首を横に振った。
「…………聞かなくてもわかるよ」
そう言った声は、とても静かで悲しそうで、だから私も納得する。そりゃそうか、こんな惨状でどういう結末だったかなんて見たらわかるか。
「…………………………」
何も言えないまま、手渡されたスポーツドリンクをぼーっと眺める。
「…………ていうか、さ、腹立つよねー」
そうしていたら、ちゆさんはまたいつもの調子に戻って、ぼやくように頭を掻いた。
「………………え?」
そんな声を漏らしながら、どこか遠くを見るような目の彼女に顔を向ける。
「こっちが人生最大の選択ー! ……みたいなものをした後でも、地球は回るし、明日は来るし、人生は当たり前に続くんだよね」
そう言って彼女は、どこか力ない笑みで、困ったように笑ってた。
「………………」
「ふざけんなよ、こっちはそんな気分じゃないんだよって想ってもさ。そこで終ってはくれないんだよね。会社は行かなきゃいけないし、ご飯も買いに出なきゃいけないし、夏場は日差しが鬱陶しいし」
そう言いながら、彼女は手近にあった弁当の封を開けると、意気揚々と割り箸を取り出して、見事なまでに左右非対称に割って見せた。多分比率にしたら6:4くらいになっている。
「………………」
「たまんないよね、しばらく人生休憩させてほしいよ。時間止めてさ、ハワイにでも行って、気持ちが戻るまでバカンスしてたい。もちろん、時間も止めてるからお金もタダにして欲しい、なんなら有休にして欲しい」
そう言いながら、彼女はばくばくと吸血鬼らしからぬ様子で、コンビニ弁当をかきこんでいく。
「…………吸血鬼がハワイで、バカンスなんてできるんですか」
よくわからないけど、その真っ白な肌は南国の日差しで、あっというまに真っ赤になりそうだ。
そんな私の軽い突っ込みに、ちゆさんはにやっと笑みを浮かべた。
「そだね、行くならやっぱ北海道とかかな。ドイツとかも行ってみたいなー。ビールが美味しいらしいよ」
「…………私飲めません、未成年だし」
「ふふふ、そーだね、じゃあソーセージかな。向こうは豚肉生で食べていいらしくてさ、ちょっと興味あるよねー」
そうやって彼女は笑い続ける、きっとそうやって励ましてくれているのだろうというのは、よくわかる。
「………………」
「…………なんて、本当に出来たらいいんだけどね」
でも、現実は、何も変わってない。
「…………りことは」
口から漏れる言葉は、相変わらずがらがらで濁って、まるで別人みたいだ。丸一日以上、飲まず食わずなんだからそりゃそうか。
「……うん」
「……りことは、さよならしました。もう一緒にはいられないから」
そんな台詞を自分で喋っているはずなのに、まるでどこか他人事みたいで。遠くて、ぼやけてて。今この時さえ、淡い夢なんじゃないかと錯覚しそうになる。
「…………そっか」
「……それで最後に海に行ってきたんです。それから、上手くは言えなかったけど、少しだけ喋って、手紙も書いて―――」
口を動かすたび、まるで違う誰かが喋っているような声が聞こえる。眼から雫が落ちるけど、それすら私じゃない誰かの涙に思えた。
「…………」
「…………上手く、上手く言えたか、わかんない。ちゃんと伝わったかな。りこ、ちゃんと私のこと忘れて、前に進めるかな。重荷になっちゃいけないから、だから―――」
ぼたぼたと雫が落ちる音がする。遠く向こうで響くみたいに。身体にもう水なんて一滴だって残ってないように思えるのに、雫は絶え間なく落ちていく。
「…………つきちゃん」
「だから―――もう一緒にいれなくて」
言葉を零すたび、雫が落ちる。
「………………」
「もう―――二度と会えなくて、会っちゃいけなくて」
声にするたび、現実を思い知る。
そう私たちは、もう。
「………………」
「もう、終わっちゃったんです」
きっと、もう、何もかも。
器から水は、零れてしまった。
瓶は落ちて、割れてしまった。
戻らない、もう、何一つ。
私が、こんな形で産まれてしまったから。
「ねえ、つきちゃん」
ちゆさんの声が、やっぱり遠い。
「………………なんですか」
私の声はもっと、遠くて小さい。
「ちゆさんの、なさけなーい話、聞いてくれない?」
「………………」
頭が痛い。喉も、お腹も。
きっと、この話を聞いても、私の心は救われない。いや、誰に何の話をされても、もう救われることなんてないと思う。
だから、聞かなくてもいい。
「仕方ない大人の愚痴に、ちょっとだけ付き合うと思ってさ」
聞かなくてもいいはずだけれど、わからない。断る気力がないだけなのかもしれない。
「………………はい」
そう言った私の声にちゆさんは「ありがと」って呟きながら、スポーツドリンクを喉に流し込む。そうして、少し目を細めて、窓の外のもうすぐ満月になる月を見ていた。
まるで、いつかの頃を懐かしむかのように。
※
前も話したと思うけど、ちょうど、つきちゃんと同じくらいの年の人狼の子と、一緒に暮らしてたことがあったんだ。
その頃の私はねー、荒れてた。というか情けなかった。吸血鬼って、結構、発覚遅いらしくてさ、私もそろそろ社会人かーって頃に、ようやく自分の身体の特性に気付いたの。
あの頃はねー、そりゃあもう、大変でしたとも。急に日傘刺さないと外歩けなくなって、人の血が欲しくなって、力も段々と人間離れし始めて。
どうにかこっそり、血を口にできる手段を探してて、結局、女子トイレの使用済みナプキン漁って過ごしてた。これまじで内緒ね? ましろさんに一回喋ったら、凄い生暖かい眼で見られたから。
情けないし、わけわかんないし、バレたらどうしようとか、虐められたらどうしようとか。悪い奴らに捕まって研究所に送り込まれたら、なんて妄想に冗談抜きで怯えてたよ。
自分だけしか知らない秘密を抱えてると、まるで世界に味方の独りもいないような気になるの。もういっそ、通り魔みたいに人を襲ってやろうかとか、今日傘を閉じたら死ねるかなとか、そんなぎりぎりの精神状態で生活してた。
そんな頃にね、夜中にばったり出会っちゃったの。ビルの上で、私と同じようにぴょんぴょん跳ねてる狼少年に。
最初はお互い目が合ったけど、あいつ、私見るなり一目散に逃げだしやがって。もう必死に追いかけたよね。ようやく見つけた同族だと思ってさ。冷静に考えると、小学生くらいの子どもを、いい年の大人が捕まえようとしてる、やばい絵面だったわけだけど。
で、まあ、なんとか捕まえて、話聞いてみたらどうにも同族じゃないみたい。
似てはいるけどさ、やっぱ違うの。嬉しいやら悲しいやら、当時は何とも言えない顔してたろうな。
それから、なんやかんやあって、あいつは私の家に居候することになって、しばらく一緒に生活してたかな。多分、一か月くらい。
人狼のことは、その時聞いたの。あいつがどんな風にこれまで生きてきたかとか、3回のルールとか、嘘が解るとかまあ、色々ね。
はた迷惑な話だろうけどさ、正直、シンパシーみたいなのは感じてた。
誰にも言えない秘密を持ってることも、人と違う生き方しなきゃいけないことも、どうしようもない寂しさを抱えていることも。
だから、まあ、こいつと一緒なら悪くないかなって思ってた。あの頃は、私、そんなこと口にもしなかったけど。
憎まれ口叩いてね、鬱陶しいことしてた。居候なんだから、あれしろこれしろってね。わざわざ自分で捕まえといて、何言ってんのって感じだけれど。
勝手に仲間みたいなものだと思ってた。きっと色々厳しいことはあるけれど、こいつと一緒なら悪くないかなって想ってた。
私がどうしようもない寂しさを語るとね、あいつはなんてことはない感じで笑い飛ばすの。月に向かって吠えたら気分がスッキリするとか言ってさ。まあ、実際、ちょっとスッとしたかな。
あいつがちょっとへこんでたら、私は適当にステーキ屋とかに連れてってさ。とりあえずご飯喰わせとけばなんとかなると想ってた。あいつも単純だったから、それで割と機嫌直ってたしね。
たった1か月だったけど、そんな日がずっと続くと想ってた。
でも、リミットは結局やってくる。
あいつの衝動が極端に強くなった日、あれも満月の日だったな。
あいつは本当に苦しそうで、自分の中の化け物を必死に抑えて、身体が壊れるんじゃないかってくらいに悶えてさ。
だから、言ったの。「私を噛みなさい」って。
結構、決死の決断だったのよ? これで人生もしかしたら終わるかも、噛まれて最悪死んじゃうかもとか、色々悩んでそれでも決意したんだ。
……でも、あいつは結局、私のことを噛まなかった。
「お姉ちゃんの人生を、僕はまだ背負えないよ」って、そう言って。
あの夜、どこか遠くに飛び出して。今度は本当に逃げられちゃった。
でも、今にして思うとね、そりゃそうかって感じでさ。
だって私、本当のこと全然言えなかった。あんたと人生、共にしてもいいと思ってるとか、どれだけ寂しさが癒されたとか、どれだけその言葉に励まされとかさ。
大人と子どもだからとか、勝手に自分で線引きして。また今度言えばいいやって、素直にならないで、想いの一つも伝えなかった。
もっとちゃんと言ってれば、あの時、何か変わってたのかな………。
だから、結構、つきちゃんのことは凄いなって思ってるの。
だって、言えたんでしょ。ちょっとでも、手紙でも、どうにかして形に出来た。それをりこちゃんに伝えられた。
それだけで私からしたら、もうとんでもないの。
素直に何か伝えるって難しいよね、ずっと言えなかったことは余計にさ。怖いし、不安だし、言うことで関係が壊れてしまったらって思うと、どうしても踏み出せない。
それなのに、つきちゃんはきっと、勇気を出して形に出来たんでしょ。伝えられたんでしょ。じゃあ、それで充分だよ。ましろさんも言ってたじゃん、君なりの最善を尽くしたんだって。だから、さ、あんまり自分を責めないであげてね?
きっと、りこちゃんも、大丈夫。大丈夫だよ。
あいつもきっと、どこかで今頃、月に向かって吠えてるよ。しぶとい奴だからね、元気にしてるさ。
だから、ね。つきちゃんもさ、大丈夫。大丈夫だよ。
大丈夫、まだ生きていけるよ。
※
優しい。
それは、とても優しい言葉だった。
傷ついて迷って悩んで、そうやって歩いてきたから口にできる、そんな優しい言葉。
「そうだ、今度一緒に病院行こ? 私とましろさんの主治医が、結構いい人だからさ、力になってくれると思う」
救われていたと思う。報われていたと思う。
少しは自分を許せて、自分の選んだ選択を認められていたような気がする。
それくらい優しくて、穏やかで、寄り添ってくれるような、暖かい言葉だった。
「まあ、ちょっと実験癖がある、変な人だけど。まあ、腕は確かで偏見もないから、大丈夫、なんだかんだ生きていく方法はあるって―――」
――――私がこんな人狼なんかじゃなければ。
「―――ちゆさん」
口を開く。
「ん、どうしたのつきちゃ―――」
ちゆさんの表情が、止まる。
「離れてください。それから、もうあまりここに近寄らないで、少なくとも満月が終わるまでは―――」
声が震える。
「…………つきちゃん?」
かたかたと何かが揺れる、割れて壊れたはずの瓶が、胸の中でかたかたと。
恐ろしさを煽るような音を立て続けて、鳴りやまない。
全身の毛が逆立つような、どうしようもない寂しさが体を満たして、脳を侵していく。
「――――行って!!」
そう発した声は、まるで狼が吠えたような音がして。
咄嗟に立てた爪が、床のフローリングを砂みたいに抉りとる。
ちゆさんは、呆気に取られて、一瞬迷ったような表情を浮かべたけれど。
結局、どこか泣きそうな顔をして、その場所を離れてくれた。
後に残されたのは、夜闇の中、ひとりぼっちの私だけ。
息が震える。
熱が胸の奥から絶え間なく湧いてくる。
意識が壊れそうになる。
頭の中にはりこの白い首元の光景が、何度何度も鮮明に蘇る。
でも浮かび上がるのはそればかり、他の情景は段々と霞んでく。
君との想い出がぐちゃぐちゃに歪んでく。
それが何より苦しくて。
こうやって優しい人をただ遠ざけるだけしか出来ない、そんな自分がなによりも悍ましかった。
きっと、私は生まれてくるべきじゃなかったんだ。
そんなお父さんの声がする。お母さんの声がする。
自分の身体を抱きながら、爪がその身体に食い込んでいく。血と涙が混じって、ぼたぼたと身体を濡らしていく。
ああ。
ああ…………。
ああ―――――――――。
りこ。
うわごとの様に君の名前を呼ぶ。
りこ―――。
首元のリボンがゆっくり揺れていく。
りこ―――――――。
視界の真ん中、揺れるカーテンの向こうに覗く、月の光から眼が離せない。
しずかな、しずかな、風の音だけが響く、そんな夜の光景が。
どろどろと、私の理性を溶かしてく。
ぐちゃぐちゃと、私の想い出を壊してく。
君と交わした言葉が、止め処ない衝動に塗りつぶされて、滲んでぼやけていってしまう。
そんな感覚が嫌で、慌ててカーテンを閉めて、窓に鍵をかけた。だけど、記憶がどろどろと溶けいくのは止まらない。
それがただ辛くて、眼を閉じた。
ああ、もし叶うなら、もういっそ、このまま。
このまま、また眠りに落ちて。
明日、目なんて覚めなければいい。
そうすれば、きっと、りことの想い出を忘れずにいられるのに。
遠く向こうで、また狼の声がする。
私の中の獣を呼ぶような、そんな声がする。
「りこ―――」
落ちる意識の狭間で、また君の名前を呼んだ。
縋るように、願うように。
もう手放してしまった、君の名前を。
ただあてもなく呼んでいた。
※
その夜、君の夢を見た。




