第23夜 噓吐き少女とあなたの想い出—②
「りこちゃーん、顔色悪いぞー? ちゃんと食べないと、いい絵は描けないよー?」
あの後、私は部長と副部長の二人に、購買横のベンチへ無理矢理連れ出されていた。
部長は私が昨日夜から何も口にしていないことを聞くと、真っ先に購買でパンと飲み物を買ってきて、問答無用で私の口に突っ込んできた。物理的に。
アンパンが私の意思とは関係なく口にねじ込まれ、その隙間からカフェオレのストローが刺さってくる。私は何も言えず、口をむぐむぐと動かすことしかできない。
「はあ、それにしても、あの子は……」
副部長はそんな私の隣で、まだどこか怒りを宿した顔で、虚空に向かってぼやいてた。そんな副部長に部長は、軽く微笑んで首を横に振る。
「まあ、仕方ないよ。きょうこちゃんは、とうこちゃんのこと大好きだから、りこちゃんに嫉妬しちゃったんだね。『どうして私じゃなくて、あの子ばっかり目に掛けてるの!』って」
そんな部長の言葉に、副部長は尚のことため息を深くする。
「言うほど目に掛けてないし、あの子も別に特別じゃないっての。それで? だから、許していいって話?」
そう副部長が言った、その直後。
ふっと一瞬だけ、空気が凍った。
「ううん―――絵を足蹴にしたことは、私も許してない」
そう応える部長の声は優しい声色のはずなのに、とても静かで、どこか恐ろしささえ漂っていた。
「…………まあ、さやかは、そうでしょうね」
「うん、理由があっても、ダメなことはダメだから。それとこれとは、話が別。理解はできても許しちゃダメなこともある。だから、この後もう一度、お話しするよ。改めて―――徹底的に」
そう言った部長の声にはいつもの抑揚がさっぱり無くて、私は思わず副部長と軽く視線を見合わせる。どうしてこのほんわかした人が部長をやっているのか、本当の理由を少しだけ理解した気がする。
「…………ところで、あんた大丈夫なの?」
そんな状況に少し呆けていると、副部長は少しだけ目線を私に向けた。
「大丈夫……とは? ……いつも通りですけど」
アンパンを飲み込んで、どうにか口にした私の答えに、副部長は呆れの表情を向けてきて、部長は少しおかしそうに笑ってた。
「りこちゃんがあそこまで怒るの初めて見たもんね。そんなにボロボロになって、無茶してるのもさ。何か大事な理由があるの?」
問われた言葉に、少しだけ押し黙る。誤魔化してもいいけれど、あんな醜態をさらして、今更、意固地になる意味なんてない気もした。
「…………絵を描き上げなきゃいけないんです、次の満月……三日後までに」
そう、だから本当は今すぐにでも、美術室に戻って、絵を描き始めなきゃいけない。
そんな私の言葉に、副部長はなるほどねと軽く頷く。
「ああ…………あれか、藍上さんとの約束だっけ?」
……どうして、副部長が知っているんだろう? 分からないけど、とりあえず、私はゆっくり首を縦に振る。
「はい…………つき先輩に、あの絵を見せなくちゃいけないから―――」
そう約束したんだ。だけど―――。
『どうせ嘘なのに』
そんな淀んだ思考が、気を抜いたら、私の脆弱な意思を揺らしてくる。
五月蠅い、今は、黙れ。
「…………描けそう?」
「…………微妙、かもです。そもそも、……見せられるかもわかんなくて、あんまり意味ないかもしれません」
率直な問いに、思わず取り繕えてない言葉が、漏れてしまう。
実際、あと三日で描き上げられるんだろうか。
塗りをゼロから全て終わらせないといけない。色だって全部決まってるわけじゃない、手探りで進めるしかない部分も多い。それに何より。
『どうせ』
この迷いが、邪魔をする。
頭も痛い、お腹も痛い、気を抜けば泣きそうだ。
こんなんで本当に描き上げられるのかな。
一度、疑ってしまえば、歩みは簡単に止まってしまいそうになる。
「………………」
副部長は事情をある程度わかっているのか、どこか辛そうな面持ちで私を見ていた。
そんな表情が覆せない現実を、私の前に見せつけているみたいで、尚のこと嫌になる。
描けるのだろうか、描けたとして何になるんだろうか。
そう思って、私達が押し黙ってしまった、瞬間だった。
「それでも―――描くしかないんだよ」
どこか優し気で、なのに静かで、厳かな声がふっと響いた。
はっとなって振り向いたら、隣にいた部長は穏やかな笑みを浮かべて私を見ていた。
「事情は何も知らないのに、口挟んでごめんね。でもね―――」
優し気な表情で、でも揺るぎなく真っすぐと、その視線は私を射貫いてくる。
「この絵に何の意味があるんだろうとか、完成させられるかどうかとか、そんなことはね―――描き上げてから考えなさい」
声は普段聞いたこともないくらい、厳しく低く。
「泥のような挫折を」
まるで。
「砂のような悲しみを」
まるで。
「灰のような後悔を」
まるで、残酷で、冷酷で、どうしようもない真実を告げているかのようだった。
「そんなどうしようもない想いを形にするために、人は何かを創り上げるの」
きっと、これは正しい言葉だ。
「意味なんて何一つもないものに、それでも意味を与えるために人は描くの」
きっと、私なんかのちっぽけな心では、とても受け止められないような。
「積み上げなければただの泥だよ、形にならなきゃただの砂だよ」
なあなあにして、誤魔化すだけの、嘘吐きの私なんかじゃ。
「辛いよね、苦しいよね。でも、そうまでして、形にしたい何かがあるんでしょう?」
受け止められない、そんなことわかってる。
「そうまでして―――伝えたい想いがあるんでしょう?」
でも。
「だからね、描きなさい」
それでも。今は。
「あなたの想いを、なかったことにしないために」
嘘でもいいから前を向くんだ。
「その想いを、その大切な人に伝えるために」
私はゆっくり、顔を上げた。虚勢と想い出だけを頼りにして。
「あなたの絵を描きなさい」
部長はそんな私を、慈しむような微笑みで、じっと見つめていた。
※
「毎回思うけどさ」
「なに? とうこちゃん」
「私より絶対さやかの方が厳しいよね」
「ふふ、だって、とうこちゃん本当は優しいもんね」
「優しくないし。そういう話してんじゃないの…………」
※
息を整える。髪をたくし上げてヘアゴムで巻きつける。
ふぅーっと長く息を吐いて、指先を軽く動かす。
ゆっくりとした血の巡りの中で、さっき摂った糖分が身体をじんわり巡るのを感じてく。
結局、この絵に何の意味があるんだろう。
わからない。
つき先輩との約束も、この絵を描き上げた後どうなるのかも。
今の私には何もわからない。
でも、それでもいいかと、開き直る。
だって、全ては描き終わった後の話だ。
とはいっても、部長の言葉に、ちゃんと納得できたわけじゃない。
あんな強い信念、きっと私は一生かかっても、持てっこない。
でも、今は、今だけは。
それでもいいと、嘘を吐く。
だって、私、自分を騙すのはお手の物だから。
これまで10数年、寂しくないと嘘を吐き続けてきたんだから。
たった三日、意味ならあると、嘘を吐くくらいわけないよ。
たとえ私に、どれほど価値がなかったとして。
たとえこの絵に、何の意味すらなかったとしても。
つき先輩が見てくれるかどうかさえ、分からなくても。
それでも、今は、今だけは、この想いは無駄じゃないんだと嘘を吐け。
絵筆を水に浸す。
ゆっくりとキャンバスに色を付けていく。
透き通るような蒼を描く。どこまでも広がるような、なにもかもを吹き飛ばすような、そんな蒼空を。
沈むような黒を彩る。懊悩も、切なさも、寂しさも、全て溶かして飲み込むような、そんな夜空を。
この、たった一枚のキャンバスに。
つき先輩との想い出を描いてく。
嘘を吐け。
この絵は、無価値じゃないんだと。
嘘を吐け。
この願いに、意味はあるんだと。
嘘を吐け。
この想いが、あなたに届くまで。
何度も、何度も、何度だって。
絵を描け。
疑念も、痛みも、悲しみも抱えたまま。
それでもと、描き続けろ。
つき先輩と、小さくあなたの名前を呼んだ。
そんな呟きにすら、意味があるのだと、嘯きながら。
想いを描いた。
視界の先、窓の向こうでは青い空が、遠く遠く、どこまでも広がっていた。




