第20夜 狼少女と最後の時間
「ねえ、りこ」
「なんですか、つき先輩」
ガタンガタンと音がする。
「ううん、呼んだだけ」
「………………」
窓の向こうを山と川と青い空が、物も言わず通り過ぎていく。
「ねえ、りこ」
「……なんですか」
君と肩を寄せ合いながら、二人で電車に揺られながら。
「ごめん、また呼んだだけ」
「…………そうですか」
私たちは海を目指した。
夏が終わって、夢が終わる、その場所へ。
ガタンガタンと揺られながら。
薬のせいで、ゆっくりと微睡む意識の中、小さな鞄を抱えたまま。
君の名前を呼んでいた。
その手に結ばれたリボンを、そっとなぞりながら。
「ねえ、りこ」
ただ飽きもせず。
※
最後の一日、どうやって過ごそうか、ずっと考えていた。
特別な過ごし方がいいのかな、それともいつも通りがいいだろうか。
毎日、毎日、うんうん悩んで、結局海に行こうと思った。
どうしてって言われても、上手く答えは返せないけど。
最後に君と海が見たいと思った。
夏だしね、一度くらい行きたいなって。そんないつもの私のわがまま。
だって、私、よく考えたら。
「海ね、初めてなんだ」
電車から降りて、ふと思い立って、そんなことを口にする。
長い時間電車に揺られて、お昼もすっかり過ぎた頃に、ようやく私達は目的地に辿りついていた。
「…………そうなんですか、今時、珍しいですね」
後ろでプシュってドアが閉まる音を聞きながら、君はいつもの調子でぼんやりと言葉を返してくる。
「うん、尻尾があるからさ。人前で肌を出さなきゃいけないとこには、連れて行ってもらえなくってさ」
ふっと遠くを見渡せば青い空の少し下に、ぼんやりと淡い色の何かが見える。あれが海かな……。
ローカル線をいくつも乗り継いだ先の果ての駅には、私たち以外のお客さんは、ほどんといなくて大きな建物も見当たらない。
眼を閉じれば鼻孔の奥を、淡く濁ったような潮の香りがくすぐっていく。
耳を澄ませば虫の音と、風の音に交じって、ざざん、ざざんって静かに波打つ音が聞こえる気がする。
「そうですか……じゃあ今日、泳ぎます? もう9月なんで、くらげいっぱい居ると思うけど」
ごうって吹く風は相変わらず、蒸し暑いけど、街の風に比べれば少し涼しい。日陰なのもあって、ちょっと気持ちよくさえ感じる。
「…………そーなの? それは残念。じゃあ、諦めるかあ。まあ、私そもそも水着なんて、持ってないんだけどね」
上着を着ればいい普段とは違って、水場に出れば私の異形はどうやっても誤魔化せないから。
君は少しだけ俯いた瞳で、何も言わずに私を見つめてた。
何を想っているんだろう。もしかしたら、少し同情してくれたのかもしれない。
なんて、私はこっそり笑いながら、君の手をそれとなくぎゅっと握る。
ふうと息を吐き出すたび、睡眠薬によってもたらされた眠気が、私の意識をうすぼんやりとしたヴェールで覆っていく。
君との最後の大切な時間を、こんなぼやけた思考で過ごすのは少しもったいないけど。でも、おかげで君の首元を見つめても、少しドキッとするくらいで、すぐ襲い掛かったりはしないで済んでる。
頭の裏で沸き立つ衝動も、意識すれば抑えこめる。胸の奥にあるガラスの瓶は、静かに横たわっている。だから、これでいいはずだ。
「いこっか、りこ」
そう言って、いつも通りの調子で君に笑いかける。胸の奥で心臓が、弱く静かに脈打つ感覚を感じながら。
君は黙ってこくんって頷いて、物静かな子どもみたいに少しだけ遅れて、手を引かれながら私の後をついてくる。
青い空が広がっている。
遠く向こうで波の音がする。
木々と葉が、さわさわと風で擦れあう。
まるで誰もいないような、そんな名前すら知らない町を、二人で歩いてく。
そうして改札を出て、アスファルトの道を抜けて、十分ほど歩いたら、やがて海が見えてきた。
「わあ…………」
口から漏れた声が、まるで初めて海を見た人のお手本のようで、ちょっと恥ずかしい。
広い。
ただ大きくて、広い。
空の青とは少し違う、少し紺に近くて、でも光をところどころ反射する、そんな不思議な色合いが視界目一杯に広がっている。
どこまでもどこまでも、広がっていくような。
こんな大きな海に比べたら、私たちはどれだけちっぽけなんだろう。
遠く雲の向こうでは、海と空が曖昧な境界で交じり合ってる。
視界を巡らされば、随分先の海岸まで見えるのに、私たち以外誰もいない。
まるでこの大きな世界の中で、私とりこの二人きりのよう。
思わず立ち止まって、その光景に呑まれていたら、きゅっと手が握られる感触がした。
その感触に誘われて、隣に目を向けてみたら、君が静かな表情で私のことをじっと見ていた。何も言わず、ただ私の言葉を待っているみたいだった。
「ね、りこ、誰もいないね」
「もう、海水浴シーズン終わってますから」
それから、ゆっくりと砂浜に二人で、足を延ばした。さくさくと、足が少し砂に沈む感触が、なんだか不思議で面白い。
「そっか、でも貸し切りみたいで、楽しいかも」
「よかったですね、人の少ない、遠いとこ選んだ甲斐がありましたね」
君の平坦な声を聞きながら、私はうんと頷いた。足元の砂の感触は段々と、少し湿って重くなっていく。すぐそこには波がざざんと寄せてきてる。
「うん、やっぱりね、大事な日だし。人が少ないとこがいいと思ったんだ。それと目一杯遠いとこ―――全部、ぜーんぶ忘れちゃうくらい遠いとこ」
「………………」
きっと、どこに行こうとも、現実は私たちの傍から消えて無くなったりはしないけど。
それでも遠くがいいと思った。私達のことなんて、誰も知らないくらい遠くがいい。どこまでもどこまでもと、そうやって逃げている間は、何もかも忘れられるような気がしたから。
「ねえ、りこ」
「なんですか、つき先輩」
君の手をそっと離して、私は独りで波打ち際にゆっくり足を進める。
ばしゃっと足元が濡れて、サンダルに水が入ってくる。冷たくて、塩の香りがするその波がざざんと行っては戻って、私の足の隙間抜けていく。
「絵は、描けそう?」
そうやって尋ねてから君のことを振り返る。りこは少しだけ目を伏せて、でもすぐに私に視線を戻すと、じっと私を見つめて頷いた。
「……はい、多分、文化祭までに描き終わると思います」
そんな彼女の答えに、私はうんと頷いた。
よかった、本当に。
「そっか、りこはやっぱり凄いね」
私が頷くと、りこはじっと何かを訴えるような視線を私に返してきた。
なんとなくだけど、一か月前ならこんなことを聞いてもはぐらかされていた気がするな。
「―――約束、ですから」
そんな君の言葉に、胸が痛むのを悟られないよう、私は笑顔を浮かべ続ける。
「………………そうだね」
その約束が、いつか君の呪いになるよとは、言えなかった。言えるはずもなかった。
「…………」
「………………」
そのまま二人して、しばらく黙ってしまう。ざざんざざんと波の音だけが、曖昧に私たちの間を満たしてく。
ああ、ダメだなあ。
本当はもっと一杯話したいことがあったはずなのに。
『今の気持ちでもいい、どんなことを感じてたかでもいいの、少しでいいからあなたの心を教えてあげて?』
そう言われたはずなのにね。どうしてか、上手く言えないや。
これでも、たくさん、たくさん考えたんだよ?
だけどね、君の顔を見ていたら、言葉が上手く形になってくれないの。
胸の奥がぐじぐじと痛んで、滲んで、言葉と一緒に零してはいけないものが零れてしまいそうになるんだ。
家族のこととか、りこの将来のこととか、学校のこととか、一杯、一杯言わなきゃいけないことがあるはずなのに。
なのに、何にも言えないの。
なんでかなあ、どうしてかなあ。
上手く、声が出てくれないや。
そんな時間の間、繰り返す波だけが、ただ私の足を濡らしてて。
「……………………」
君はそんな私を見兼ねてか、ちょっとだけ目を逸らして、ふっと軽く息を吐いた。
「ね、つき先輩」
「………………なに、りこ」
それから、君は私の方に一歩、歩み寄る。
行きかう波の狭間を、何気なくそっと越えて。
一歩、二歩と繰り返して、バシャバシャと水音を立てながら、私のそばまで寄ってくる。
それから、君はじっと私の瞳を見つめてくる。真っすぐと、揺らぐことなく、まるで迷いなどないかのように。
そうして、ゆっくりと口を開いた。
「今日で―――最後ですか?」
――――――――――――。
言葉を一瞬、見失う。
でも、君の視線はまっすぐと揺るがない。
「………………バレてた?」
そうやって誤魔化すように笑顔を浮かべると、君は少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「……バレますよ、そりゃ」
「…………そっか、そうだね。そりゃあ、バレるよね」
よくよく考えなくても、最近、りこを不自然に遠ざけていた時もあったし。そうでなくても、月の暦を考えれば、気付くのは当たり前かな。
思わず力ない笑みが漏れてしまう。
困ったなあ、どうしようかな。
そうやって迷っていたら、君はもう一歩、私の傍に踏みよって、ぎゅっと私の手を握ってきた。
「…………」
君は何も言わないまま、じっと私を見つめてる。
……やれやれ、どうやら上手く言葉にできないのはお互い様かな。
「……ね、りこ。喉渇いたし、少しだけ歩こっか」
私がそう言うと、君は少し迷って、でも小さくこくんと頷いた。
それからまたしばらくの間、波と風の音だけが私たちの隙間を埋めてくれた。
言葉は、上手く形にならない。
「本当はね、一杯、話したいことがあったの」
想いは、うまく伝えられない。
「でもね、いざ口にしようとすると、なんでか上手くできないや」
それは、私たちが臆病で怖がりな、寂しがり屋だからだろうか。
「どうやったら上手く言えるのかな……」
そんな私の言葉に、君は隣を歩きながら、なんでもないように口を開いた。
「……言えないことを、わざわざ無理に伝える必要、ありますか?」
かなかなかなと蝉の鳴く音がする。
「でも、口にしないと想いは伝わらないじゃない?」
脳裏に浮かぶのは雪女のあの人の、そんな言葉。それと私自身が、副部長の彼女に言った言葉。
途中にあった、店員さんが一人しかいないコンビニでアイスとソーダを買った。それを口にしながら、二人で海岸線をただ歩く。そうして疲れたら日陰で休んで、また歩いてを繰り返す。
「伝えられないなら、きっと伝えられない理由があるんですよ。なんでもかんでも、口にすればいいってものじゃありません」
喉の奥を冷たくて甘い水が流れてく。しゅわしゅわと音を立てながら。
「ふーん。なんかりこ、えらい先生みたいだね」
私の隣で、君はアイスをがりがりと嚙みながら、つんと澄まし顔をしていた。
「まあ、こういう言い訳は嘘吐きの常套句なので」
ぼんやりと海風と潮の香りを感じながら、私たちは歩いてく。
「ふふ、何それ。…………でも、そうかもね。上手く伝えられないことくらい、誰にだってあるよね」
きっと、君がそうであるように。
「………………」
君は黙って、私のことを横目で見ていた。
でも、君にそう言われたら、少しだけ胸が軽くなったような、そんな気がする。
「ねえ、りこ」
「なんですか、つき先輩」
言葉を探す。言わなきゃいけないことは、きっとたくさんあるけれど、その中で伝えられそうな言葉だけを探してみる。
言えないことには、きっと言えない理由があるから。
伝えられる言葉だけ、伝えてみよう。
「今年の夏は――――楽しかった?」
君と出会った夏。
「…………まあ、退屈しなかったです」
そう言った君の言葉が嘘じゃないことが、せめてもの私の救い。
「そっか、よかった」
そう言って、零れた笑みは、きっと無理して浮かべたものじゃなかったはずだ。
「夏祭り行ったよね」
「行きましたね、浴衣着て」
「貯金箱買ったよね、黒猫のりーこ」
「そういや、あれいくら貯まったんでしょ」
「ご主人様プレイもしたね」
「プレイって言わないでください」
「帰り道にアイスも食べたね」
「そうですね、いつも先輩は唐突でした」
「夜中に吸血鬼がやってきた時とか、びっくりしたよね」
「まあ、だいぶ抜けた人でしたけど」
「雪女の人は…………美人だったね」
「そうですね、まあ、先輩ほどじゃないですよ」
「ええ、そうかな……。あとはなんだろ……」
そういって考える私に、君はすこしだけ細めた瞳を向けた。
「夜中に学校の先輩を助けたら、人狼でした」
そして、そんなことを、何でもないように呟いた。
ちょっと意地悪めいた表情で。
「あらら、それは災難だったねえ」
思わず少し笑ってしまう。
「ええ、お陰様で。抱き枕にされるわ、噛まれるわ、わがままに振り回されるは大変でした」
そう言ってから君は少し言葉を区切った。
「―――でも、まあ、悪くない夏でした」
そういう君の横顔が微かに紅く見えるのは、そろそろ陰ってきた西日のせいかな。
「うん、私も楽しかったよ――――きっと、ずっと忘れない」
きっと。
「……………」
この夏を、これからずっと。
忘れることは、絶対ない。
そう想って君のことを見つめた、そんな不意の瞬間に。
視界が―――揺らいだ。
あ、そっか。
もう―――か。
「…………あそこでちょっと、休憩しよっか」
そうやって震える指でさしたのは、咄嗟に見えた海岸線の少し影になった場所。
おあつらえ向きに、誰もいない、誰にも見えない、二人きりになれる場所。
ただ、それより何より、今は歩くのすら辛かった。
ふと気づけば、随分長く歩いていたのか、日は少しずつ陰り始めてる。
手の中で冷たい汗がじわじわと滲み始める。
夏が過ぎて、段々と日が出ている時間も短くなってる。夜はもうすぐそこまで迫ってきてる。
奥歯がかちかちと音を鳴らす。口の中で熱い物が沸き立ちはじめる。
空を見上げれば、遠く向こうで太陽と入れ替わるように、紺色の空に白い月が登り始めてた。
まだ満月ではないけれど、もう随分と満ちてしまった、そんな月。
ああ、もう少しで、昼と夜の境を越える。
当たり前だけど、睡眠薬には時間制限がある。ずっと眠たいわけじゃない。
朝に飲んだ薬は段々とその効力が切れてきていたみたいだ。もう一度飲めばマシになるだろうか、でも今度こそ眠ってしまうかもしれない。
曖昧だった意識が、ゆっくりと鮮明になっていく。
それと比例するように、胸の奥で少しずつ何かがざわつき始める。夜の紺が空を満たしていくと同時に、身体の中の何かがざわざわと目覚め始める。
私の隣でどこか辛そうな表情の君は、何も言わないまま手を握ってた。それから、私たちはそっと小さな岩場に腰を下ろした。
少し向こうで波が岩場にぶつかる音がする。どおん、どおんって、絶え間なく鳴り続けてる。
「ねえ、りこ」
「…………なんですか」
そう言いながら、少し不安そうな君に目を向ける。
何を言おうか、何を伝えようか。
何も定まってはいないけど。
胸の奥が、段々と熱く震えはじめる。
目の奥が、じわじわとゆっくり滲んでいく。
漏れる息が浅く、でも確かに荒れていく。
「…………あと、何があったっけ?」
まだ、まだ。
まだ、もう少しだけ話していたい。
「…………つき先輩」
君の声は不安そう、バレているだろうか。ううん、絶対バレてる。それくらいには取り繕えてない。でも、あと少しだけ、もうちょっとでいいから。
「もっと、もっとね、何かあったはずなんだ。話したいこと、覚えてたいこと、もっと、もっと――――」
ぼたぼたと何かが落ちていく。
これが最後なんだ。こうやって君と話していられるのは。
だから、もっと―――。
「…………先輩」
もっと。
「りこと――――」
視界が段々と熱で焼けていく。
頭の奥で誰かが喚き続けてる。
牙が震える。
舌が渇く。
身体が壊れたように熱くなる。
ぼたぼたと、何かの雫が零れ落ち続ける。
でも、まだ。
もっと。
一緒に。
「いいよ」
「もう―――我慢しないで」
「私は、大丈夫だから」
揺れる視界の中、泣きそうな顔の君が、私の身体をぎゅっと抱きしめる熱を感じた。
そうして何も言えないうちに。
ゆっくりと、私の首に黒くて小さなリボンが巻かれていた。
「おいで―――つき」
そんな君の言葉に、私は何も言えないままで。
―――これが私たちの最後の時間。




