狼少女と噓吐き少女
狼は本来、群れをつくる生き物だそうだ。
群れで生き、群れで狩りをし、群れで死ぬ。
だから、『一匹狼』という言葉が孤高の象徴のように扱われてるけど、実際は、群れをはぐれた弱い生き物でしかないらしい。
群れの中にいない狼は、弱く、不安定で、やがて孤独に死んでいく。
じゃあ、生まれた時から同族一人もいない私は、どうなっていくんだろう。
そんな絶対に埋まることのない寂しさを裏返すように、絶対に満たしてはいけない衝動ばかりが日に日に膨らんでいく。
成長期を過ぎて数年、段々と強くなる喰人衝動。
ああ、寂しい、噛みたい、喰べたい。
誰でもいいから、この胸に空いた孔のような、空虚さを埋めて欲しい。
誰でも、いいから―――。
りこと出会ったのは、そんな夜のことだった。
※
まず思ったのは「失敗したな」ってことだった。
学校にもほとんどいかなくなって、いい加減、自分の寂しさと空虚さを埋めるのにも限界が来て。
誰でもいいから、とSNSに手を出したのが良くなかった。
『どうしても他人に言えない秘密を抱えてる』『誰かに相談したい、聞いて欲しい』
そうやって呟いて、相談に乗ってくれた人と、試しに会ってみることになった。でも、やってきたのは、話に聞いてたのとは違う人。
プロフィールでは女性だったはずなんだけど、実際会ったら男の人で。あれだけ熱心に相談を聞いてくれていたのに、話してみれば、私の秘密のことなんて全然話題にもあがらない。どこ住んでる? とか、彼氏いる? とか。
騙されたと気づいた時にはもう遅くて、適当な繁華街のバーまで連れてこられていた。
しかも、さっさと終わらせようって想ったのに、中々解放してくれない。無理矢理逃げてもよかったけど、騒ぎになるのも面倒で、結局、遅くまで付き合わせられた。
「じゃ、私これで帰るんで」
「いや、ちょっと待ってよ。どっか休憩していかない? 絶対手は出さないからさ」
吐き気がした。
「いや、そういう嘘とかいいんで」
「いや、嘘じゃないって。ほら秘密の話とかさ、ちゃんと聞きたいなって思ってさ」
そのまま吐き出してしまいそうだった。
ああ、本当に解りきった嘘ばっかり。嘘吐きはみんなそう、いつも苦くて酸っぱい匂いばかり振りまいてくる。
はあ、とため息を吐きながら、顔を隠す振りをして手でそっと鼻を覆った。
人狼という化け物になって、辛かったことは山のようにあるけれど、一番酷いのが他人の嘘がわかるようになってしまったことだった。
嘘を吐く人間からは、特有の苦く酸っぱい、物を腐らせたような匂いがする。
ある日、母親から不意に漂ってきたその匂いで、私はそんなことを思い知った。
さらに最悪だったのは、人は思った以上に、日常的に嘘を吐いていることで。
隣の席のクラスメイトが喋るたび、先生が教壇で喋るたび、両親が食卓で口を開くたび。
腐った嘘の匂いが漂ってくる。
喰人衝動も、学校に行かなくなった大きな要因ではあるけれど、正直精神的にはそっちの方が辛かった。
そして、今それが最悪の形で私に牙を剥いている――――。
「ほら、もうここまで来たらさ、お互いどうせ引き返せないじゃん? 大丈夫、変なことしないから」
あまりに酷い嘘の匂いで、思考がぐちゃぐちゃになっていく。
ああ、なんかもう、どうでもいいな。
手ががっと掴まれる、その気になれば振り解けるけれど、今はそんなことする気力すらない。
気分は取り返しがつかないくらい最悪で、胸の奥がぐずぐずに溶けて傷んで、眼からは黒い何かがごぼごぼと溢れ出していきそうだ。
だから、想ってしまった。
もう―――いっか、って。
誰でも。
こいつでも。
いいか―――喰ってしまえば。
どうせ人を騙すような酷い奴だし、いなくなっても誰も困らないでしょ。
なら、いっそ、この私の埋まらない空虚さが、少しでも紛れるなら。
いいや、お前で。
無理矢理取られた手に力が籠る。奥歯がカチカチと音を鳴らす。
胸の奥に開いた孔が疼くような感覚がする。これを埋めろと頭の奥で誰かが叫ぶ。
そうやって、身体の奥から湧いてくる、ドス黒い何かに身を任せようとした。
その―――――瞬間だった。
「あ、先輩、お待たせしました」
…………?
声がした。聞いたことのない少しダウナーな声。
男に無理矢理とられたのとは逆の手が、気付いたらそっと握られていて。
ふっと振りかえた先に居たのは、当然見たことのない顔の、少し表情の薄い黒髪の少女。
「お待たせしました。バイト終わったんで急いできましたよ、ほら行きましょ。今日帰ったら宿題見てくれる約束じゃないですか」
私と男が目を白黒させる中、少女は淡々と言葉をつぶやいている。
当たり前だけど、全部、噓だ。私とこの子に面識はないし、宿題の約束も当然してない。そもそも、こんな夜中の繁華街で待ち合わせしてる学校の先輩後輩なんているわけない。
その証拠に漂ってくる匂いが――――少し甘酸っぱかった。
…………?
その酸っぱさは嘘を吐いてる時、特有の匂いに違いないけど、なんでか、不思議と不快さがない。
そんな疑問に私が首をかしげていると、その少女を少し焦ったような眼で、私のことをじっと見ていて、しきりに掴んだ手をそれとなく引っ張ってくる。
そんな様子に私はさらに首を傾げて、それから数瞬してようやく状況を理解する。
ああ、匂いに吊られて気付かなかったけど。
―――助けてくれてるんだ、私のことを。
私が夜の街で、無理矢理、男に連れて行かれそうになっていると思って、嘘を吐いてまで私の知り合いのふりをしてるんだ。
まあ、実際の所、危ないのは私じゃなくて、この男の方なわけだけど。
そんなことも知らずに、私より少し背の低い少女は、何気ない風を装ってあえて周囲に聞こえるように会話をしてる。その間も、ちょいちょいとつかんだ手が引っ張られてる。
一体どういう理由でこんなことしてるんだろう、わからないけど、正義感……とは少し違うように見えた。何だろうね。
でも、男の方もこんなの嘘だって解ってる。
「なんだよ、お前、どこの誰?」
きつく、敵意のこもった、男の声。
その声に、少女の表情は変わらないけど、一瞬びくって握られていた手が震えた。
というか、よくよく感じると、私と繋がれた手は、ずっと微かに震えてる。
なんだやっぱり怖いんじゃん。こんな夜の繁華街で言い合ってる男女の間に入ってきたから、どれだけ神経が太いのかと思ったけれど、涼しい顔してちゃんと怖がってる。
わかりやすい嘘まで吐いて、巻き込まれたら、自分の方が酷い目に合うかもしれないのに。
「…………嘘吐きだねえ」
だから、そう呟いて、思わずくすっと笑ってしまった。
それと同時に気持ちが少しだけ、吹っ切れた。
そんな私に、少女も男も、一瞬、目を取られてくれたから。
その隙にすっと、男の手をすり抜けて、そのまま空いた手で少女の肩を抱く。
私より遥かに弱くて小さな、その子の身体は、案の定、目に見えないとこでは冷たく震えてた。
「残念、ちょっと先約が出来ちゃった。だから、さようならだね」
そう男に告げた後、少女の肩を抱いたまま、そっと小走りで走り出す。
「ちょ?! 待て!!」
そう言って伸ばされた手をすっと躱して。
何か言おうとしている少女の声は、今はちょっとだけスルーして。
追ってくる男を撒くために、軽く走って、暗い路地を曲がった。そして、人目がなくなった場所で、少女の腰を優しく抱き上げる。
「え、あの?! 何を?!」
「喋んないで。舌噛むよ?」
これから何が起こるのかわからないであろう彼女を尻目に、その身体を素早く、でも緩やかにお姫様抱っこで抱き上げる。
そのまま、一瞬、身体を沈めて力を溜めて。
ぐんッ と。
上へ。
上へ。
上へと。
―――跳んだ。
人狼の溢れる力で思いっきり、少女を抱いたまま、跳躍する。
夜闇の中を、羽が空を舞うように、月に向かって身体を跳ね上げる。
さっきまで足元にあったアスファルトがあっという間に、眼下の向こうへ遠のいていく。
ごうごうと吹き上げる風が、私たちの背を押して、そのまま繫華街のビルの上を飛び越えた。
その勢いでいつもの耳付きのフードが外れて、私の灰色の髪が月夜に流れ出る。
そんな姿に、君が目を見開いて、驚いたような顔をしているのが、一瞬見えて。
私はそっと微笑んだ。
それから、ふっと時間が止まったような浮遊感を感じた後に。
「え?」
「どうしたの?」
「あの」
「うん」
「落ちてません?」
「跳んだからねえ」
「ちょ、え、あ、あぁぁぁっぁっぁぁーーーーー!!???」
なんて少女の断末魔めいた声を聴きながら、私たちは近くのビルの屋上に着地した。
二人分の勢いを殺せるかは、ちょっと心配だったけど、幸い少女に怪我も無く着地が出来た。久々にちゃんとジャンプしたから、どうなることかと思ったけど、失敗しなくてよかったね。
ビルの屋上でそっと少女の身体を地面に下ろしてあげると、君はへなへなと腰をへたり込ませて、意味が解らないとでもいうように首をぎこちなく傾げてる。
「あ、あの、今の、は?」
「うん? 跳んだの、ジャンプ。ほら、私、人狼だから」
何気なく髪の毛をたくし上げて、少し尖った耳と牙を君に晒す。
君はまだ理解が追いついてない顔で、眼を白黒させたまま、言葉を失っている。あら、これは随分と動揺させちゃったかな。
「じ、人狼……?」
「そう、お伽噺に出てくる、すっごく力が強くて、人を喰べちゃう、そんな化け物」
そういってまだ腰が立ってない君の傍に、そっとしゃがみ込んで、試しに尖った爪をその手の上に乗せてみる。
どうだろう、信じてくれるかな。まあ、ここまで跳んできたのが何よりの証拠だから、信じないわけにもいかないと思うけど。
「え……と」
「ところで君さ、どうしてさっき、嘘吐いてまで助けてくれたの?」
まだ、戸惑っている顔をした君は、私がそう問うと、どこか困ったように目を逸らした。
「えっと…………先輩のこと、学校で……見たことあって」
そう言われて、彼女が肩から下げている鞄にふと気が付く。確かに、私と同じ高校の制鞄だ。色的に一年生かな……なるほど、じゃあ先輩後輩って言うのも、あながち嘘じゃなかったわけだ。
ただ生憎、私の方はとんと覚えてない。まあ、こんな髪の毛してるから、一方的に覚えられてることも、たまにはあるかと小さく息を吐く。
しかし、もっと壮大な理由があるかと思ったけど、それだけか。少し残念な気もするけど……でも、逆にそっちのほうが面白いのかもしれない。
なんて考えていたところ。
「あと、その時、ちょっと寂しそう……だった気がしたから……」
君はそう呟くように言葉を溢した。
………ふうん。
…………寂しそうね。
学校での私はそんな顔をしていたんだろうか、通っていたのは随分前のことのように思えるからわからないけど。
ただまあ、どっちにしても、あんな危ない目に遭ってまで助ける理由としては弱いんじゃないかな。
なのに、それでも君は、あんな嘘をついてまで私の手を取ったらしい。
「優しいね、君」
「…………いや、その、ああいう人の相手、バイトで慣れてるんで、平気なだけです」
そういう君からふんわりと甘酸っぱい『嘘』の匂いがした。やれやれ、あんなに震えてどこが平気だったのやら。
でも本来は嘘というだけで、気持ち悪くて仕方ないはずなのに、不思議と君のそれは、気持ち悪くない。それどころか少し心地いい。どうしてだろう、あまり悪意がない嘘だからかな。
「ふうん、筋金入りの嘘つきだねえ、君。ちなみに私、そういうの匂いでわかるから、今の嘘、意味ないよ?」
「…………え?」
そう言うと君はさらに困惑したような表情を浮かべてた。そんな君に私はそっと微笑んだ。
今日、虚しさを埋めてくれるなら、私は本当は、誰でもいいつもりだったのだけれど。
でも、今はどうせ誰でもいいなら……君がいい気分になってる。嘘つきで、学校で見たことあるだけの他人を助ける、そんな君が。
「私ね藍上 月希っていうの、君、名前は?」
「譎……凛心です」
そう言う君の手を何気なくそっと取る。そうして、とっさに私から逃げられないようにする。そんな状況に少し胸が高鳴るのは、獲物を逃さないようにする狼の本能だろうか。
「よろしく、りこ。ところでさ、うちの学校ってバイト禁止だったよね?」
そんな私の言葉に、君の顔がさっと青ざめる。
確か、うちの学校は結構ガチでバイト禁止だ。学校にバレて無理矢理辞めさせられた、なんて話もたまに聞く。
少し意地悪な気はするけれど。残念ながら、私は今更、君を逃がす気はないんだ、ごめんねえ。
まあ運が悪かったと思ってもらおう。なにせ、君が助けてしまったのは、意地の悪い狼なんだから。
「秘密にしとく代わりに、一つお願いしたいことがあるんだ」
君は重大な秘密がバレたせいか、顔を青ざめたまま冷や汗を垂らしてる。
まあ冷静になったら、こんなお願い無理に聞かなくてもいいはずだけど、君がそれに気づく前に、私はさらに言葉を畳みかける。
「バイトしてるくらいだし、お金困ってるでしょ? バイト代出すからさ、聞いてくれると嬉しいな」
三日月がぽっかり空に浮かぶ夜、繁華街の喧騒が遠くに聞こえるビルの屋上で。
「ねえ、りこ、今日から、私の『抱き枕』になってくれない?」
そんなお願いを君にして。
誰でもよかった、そんな夜に。
独りぼっちの人狼の私は。
誰より甘い嘘を吐く、君と出会った。
※
どれだけ代償行為を繰り返しても、根本的なところで寂しさと虚無感は埋まってくれない。
だって、どれほど抱きしめて、肌を触れさせても。
私は人狼、君は人。
だから、同類がいない狼は何時まで経っても、弱くて、不安定で、孤独なまま。
そんな孤独に呼応するように、喰人衝動は、ずっと私の胸の中で疼き続けてて。
君の肌に牙をそっと触れさせるたび、いやでもそれを想い出す。
ああ、喰べたい。その柔らかい首に噛みついて、その血潮を呑んで、君を私の中に―――なんて。
そんな醜い衝動を、君を抱きしめながら、ただじっと堪え続ける。
この衝動がいつか、君と私を致命的に傷つけることは知っているけど。
でも、せめて今だけは。
電気もついてない部屋の中、君をぎゅっと抱きしめたまま。
「怖くない」って嘘を吐き続ける君に。
君から漂う甘く酸っぱい『嘘』の匂いに。
私はそっと微笑んで、口の中で小さく呟く。
「―――やっぱり、りこは噓吐きだねえ」
でも、その解りきった嘘が、今だけは優しく私の傷を撫でていくから。
夏の夜、電気すらついてない、暗い部屋の中。
君の嘘に甘えたまま、私はそっと目を閉じた。