第17夜 嘘吐き少女と常連さん
下描きの線を、描いては消すを繰り返す。
こうかな、違うか、もっと遠くへ、もっと広がるように。
頭の中のイメージをどうにかその場所に描き表すために、手を動かし続ける。
限られた両手の幅で収まるはずのキャンバスの中へ、あなたと駆け抜けたどこまで続く空を表すために。
一年のブランクは明確に、私の指を鈍らせているけれど、それにすら今は構っている暇はない。
掛けられる時間は限られている、手間も、技術も、あるものでどうにかするしかない。
それでも、それでもと、手を動かし続ける。
思考の狭間にあなたの横顔を想いうかべながら。
ただ。
ただ。
描いていた。
時間も、忘れて。
「こら」
「いだ」
ゴチンという重い音共に、私の視界ががくんと揺れる。振り返ると、少し呆れた顔の副部長が資料用の分厚い図鑑で、私を引っぱたいている姿があった。
「うう……何するんですか。いいとこだったのに……」
久しぶりに集中力が蘇ってきて、意識を溶かして、何もかも忘れて描いていられたのに。その不満を表情でうーっと表すと、副部長はため息を吐きながら、冷たい眼で見降ろしてくる。
「バイトがあるから、時間になったら教えてくださいって言ったの、あんたでしょーが……。15分の電車に乗らないと間に合わないとか、言ってなかった?」
そんな副部長の言葉に、私の口から思わず「あ」と言葉が零れる。ばっと時計を見てみると、あと数分しか猶予がない。
さーっと冷や汗が降りてきて、じわりと思考が焦りで埋め尽くされる。
「す、すいません! バイト行かないと、あ、でも片づけ…………」
「はあ……私が、やっとくから、さっさと行ってきなさい。次からはもっと時間に余裕もって動くこと」
「は、はい、ありがとうございます!」
ため息を吐く副部長へのお礼も早々に、私は大慌てで手近な画材だけ片づけると、大慌てで鞄に荷物を詰め込んで走り出す。途中で他の美術部員が怪訝そうに私を見ていたけれど、今は構ってる余裕もない。
そうしてそのまま西日で赤くなった校舎の中を、ただ無心で走り出す。
背中に副部長の呆れた視線を感じたけれど、今はただ気づかぬ振り。
その間、ああ、やっちゃった……と思考は慌ててはいるのだけれど。
肝心の私の視線は気づけば、淡い紅と滲んだ紺色が混じる夕暮れの空をただ見上げてて。
その真ん中でぽつんと浮かぶ、半分まで満ちた月から目が離せないでいた。
もう、あんまり時間は残ってない。
急げ、急げ。
心の中で、そんな言葉を繰り返しながら。
ただ一瞬、そういえば、と振り返る。
今日と昨日、つき先輩の姿を放課後見ていないけど、どうしたんだろう。
体調とか、悪くないといいんだけれど―――。
※
「りこちゃん、やっと描きはじめられたんだ。よかったね? とうこちゃん」
「…………さあね、まだ描き始めただけでしょ。文化祭までに完成しないと意味ないんだから。それまでに投げ出さないといいけどね」
「あはは、どうだろね。私はあんまり心配してないけどなー」
「それはさやかが能天気だからでしょ」
「まあ……否定はしないけどさ。でも、りこちゃんの顔見てたらわかるよ、きっと大丈夫」
「…………」
「ところでさ、これ……何の絵になるのかな?」
「…………空でしょ、あの子は、いっつもそうだったから」
「そうかな……うーん、でもなんか、今回は少しだけ違うような気もするけれど……」
「………………」
「この真ん中の影は、何かな……人? 動物?」
「…………さあね」
西日に照らされた美術室の真ん中で、二人の女子生徒はそんな会話を続けてた。
副部長の彼女は、絵のモチーフをなんとなく察してはいたけれど、あえて口には出さないまま。
そんな彼女の脳裏に浮かぶのは、少し前に見たばかりの、灰色の瞳と透き通るような髪をした少女の姿。
この絵がどんな形になるのか、まだ描いている当人すら、きっとわかりはしないけど。
それでもそこに描きあげられる、何かの兆しを、彼女たちは静かに感じていた。
夜明けの狭間、小さな種が土を押し上げて、そっとその芽を出すような。
そんな些細な兆しを、ただじっと見守っていた。
そんな彼女たちの視線の先で。
夕日が赤く染める美術室の真ん中、まだ色も塗られていないキャンバスは、何も言わずに佇んでいた。
※
結論から言うと、電車にはギリギリ間に合って、大慌てでバイト先には遅刻もなく到着した。
そうして、あたふたしながらエプロン姿に着替えて、バーのフロアに出たのだけれど。
…………今日は何というか、少しお客が少ない。
その癖、マスターとバイトリーダーと私、それにもう一人ホールのスタッフまでいる。ちっちゃいお店だから、これはだいぶ過剰だと思うけど。
「……今日、なんかありましたっけ?」
そうやって聞いてもバイトリーダーは軽く肩をすくめるだけだった。
これなら、もうちょっと絵を描いてたかったな……という気もするけれど、まあマスターだってたまにはシフトミスくらいするか、仕方ないよね。
そんなことを考えていたら、入り口がらんがらんと入店の鐘が鳴っていた。やってきたのは、いつもの常連のお姉さん。すっかり顔見知りなので、挨拶も程々に店内にお通しする。
「いらっしゃいませ、今日は何にします? 梅酒ソーダ?」
「うーん、それも捨てがたいけど。今日はとりあえず烏龍茶からかな」
おや、珍しい。いつも酔っぱらって、真っ赤な顔ばかり見ている人なのに。私ははあ、と軽くうなずきながら、とりあえずマスターに注文を通した。
その間、他のお客はバイトリーダーが相手してくれていた。なので、私は烏龍茶を準備して、そのまま常連さんの所まで持っていく。
「はい、どーぞ。他の注文は何にしますか?」
「んー、じゃあ、今日は……りこちゃんで」
「はあ、譎りこは時価3万円のホテル代別になりますが、よろしいですか?」
「あはは……そんなことしたら、私がパートナーにどやされちゃう……」
そういうと常連さんは冷や汗を垂らしながら、苦笑いを浮かべてた。バイトリーダーが少し怪訝そうにこっちを見ていたけれど、私はそ知らぬふりで視線を逸らす。
それから常連さんがしばらくメニュー表を広げて、うんうん悩む姿をぼんやり眺める。こういう時いつもは、注文が決まるまで他の仕事をしてるけど。今日に限っては手が空いてるから、ここで注文待つことにする。
伝票片手にまだかなって身体を揺らしてたら、常連さんの視線がちらっとこっちに向いた。
「りこちゃん、なんか、最近いいことあった?」
そんな彼女の視線に、私は少し首を傾げる。
いいこと……は、別にないような気はするけれど。
一瞬つき先輩との色々な情景が脳裏に浮かんだけれど、あれを『いいこと』と一括りにまとめるのは少し難しい。
「……いいえ、多分、いつも通りですよ」
ただそんな私の答えに、常連さんはどこか微笑ましそうに目を細める。
「そう? なんか、ちょっと吹っ切れたような顔に見えたから」
「………………」
吹っ切れた……何に? と、自分の中で問うのも少し馬鹿らしい気がする。
吹っ切れたって? 吹っ切れたよ。だって、もう迷わないって決めたんだから。
「さあ、どうでしょうね」
答えた言葉が少し静かで、落ち着いていて、自分でもどことなく不思議な感じ。
そんな私に、常連さんは何かを見守るような、穏やかな笑みを向けたまま、ゆっくりと言葉をつづけた。
「そう、ならよかった。……ところで、最近、例のワンちゃんどう? 今日も結構匂いしてるけど」
え、と一瞬、声が口から漏れる。例のワンちゃん……? ただ、しばらく思考して、ようやく私はああ、と納得した。そっか、この前、つき先輩の匂いがしてた時、「犬カフェに行きました」って言って誤魔化したんだっけ。
……そして私は、犬カフェなんて行った事すらない。
「あー…………悪くなかったですよ、結構、甘えてきて。首とか指、舐められちゃったりして……」
適当に漏らした言葉が不自然じゃないか、少し気を使う。嘘を吐いたことを誤魔化すために嘘を吐く。わかりやすい嘘吐きの悪循環だ。
「へえ、イチャイチャしてたんだ。いいなあ、犬って甘えるとべったりだもんね。可愛いよねー」
「はは……ですね」
そう言って苦笑いを浮かべながら、少し目を逸らす。実際に指とか鎖骨とか舐められてはいるから、半分は嘘を吐いてない……はず。
それにしても、本当につき先輩の匂い、段々と強くなってるのかな。自分でも嗅いでみるけれど、ほとんど匂いは感じないけど。
「ああ、心配しないで。普通の人にはわかんないから」
そんな私に。
常連さんは、なんでもないように笑って、そう言った。
………………まるで。
「……まるで、自分が普通じゃないみたいないい方ですね」
冗談だ。そんなわけあるものか。
そう考えはするけれど。
思考の端で、微かな気づきが警鐘を鳴らしてた。
私がつき先輩の匂いをさせていたことに気が付いたのは、これまで、この人とあの吸血鬼だけだ。他の人は、店長もバイトリーダーも、誰も気づきはしなかった。
「うん、こー見えてね、感覚が鋭くてさ」
「………………」
常連さんはいつもお酒に酔ってばかりで顔が紅い。でも、今日は酔っぱらってないから、真っ白な肌がよく見える。
だから今まで気づかなかったけれど、その肌はあり得ないほどに白くて、透き通るようで傷一つすら見えなくて、まっさらな絹のよう。
「ねえ、りこちゃん、一つたとえ話をしてもいい?」
「……なんですか?」
「もし……もしね、りこちゃんが、誰かから、命を貰わないと生きていけなくなったら、どうする?」
綺麗な人だとは思ってた。でも、その人から外れたような綺麗さの意味を、私はつい一月前まで知りもしなかった。
「……命を貰うって、どういうことですか?」
私の問いに、常連さんは流れ落ちるような黒髪をなびかせながら、そっと首を傾げる。
ちゆさんと同じ様な見た目だけれど、違うのはやっぱり瞳。血を溶かした様な紅色のちゆさんに対して、常連さんの瞳は澄んだ黒の中に淡い蒼を透かしたような、宝石めいた色をしている。
綺麗だ、そのまま、一枚の絵になりそうなほどに。
「うーん、そうだね。例えば、寿命を貰わないといけないとか。血を吸わないと生きていけないとか。あとは―――人を喰べないと生きていけないとか」
そんな目を疑うような綺麗さに、私は二人、覚えがある。
そして、その二人の共通点は。
「………………」
寿命を貰う……は、わからない。でも『血を吸う』と『人を喰べる』というのが、誰のことを指しているのかは、いやでもわかった。
吸血鬼と人狼。
心臓がゆっくりと冷えていく。目の前に座って、穏やかに笑う人が何者なのかを、少しずつ理解し始める。
「もし、そんな時、大切な人がいたとして。その人から何かを奪わなくちゃ生きていけなかったら……」
「………………」
常連さんは――――その人外は静かに氷のような微笑みを浮かべながら。
「りこちゃんなら―――どうする?」
そう言って、そっと私の手に指を重ねた。
――――冷たい。
あるはずの人肌の温もりが何もない、氷水にそのまま手を晒しているような、致命的な体温の差異。
それは人間としては、ありえないはずの冷たさ。
唖然としていた、その瞬間。
ガランと音が鳴った。
バーのドアが開く音、誰かがやってきた音。
そして―――。
「―――りこ?」
振り返った先にいたのは驚いた顔をしたつき先輩と……少し難しそうな顔をした吸血鬼、ちゆさん。
どうして―――と私が口を動かす、その前に。
「じゃあ、改めて自己紹介するね。
波雪 ましろ。
種族はね、雪女。
つきちゃんやちゆさんと同じ、人から少し外れた生き物」
常連さんは―――雪女は、そう言って静かに微笑みを浮かべていた。
「私はね―――人の寿命を吸って生きてるの」